さて、問題です。
現在、日本一高い建造物は「東京スカイツリー(634メートル)」ですが、明治時代の日本で最も高かった建造物は?
答えは…………。
1890(明治23)年11月に浅草の地に建てられた「凌雲閣(りょううんかく、通称:十二階)」です。
その高さは、約52メートル(※67メートルの説もあり、詳細は後ほど)。東京スカイツリーと比べるとかなり低く感じてしまいますが、明治時代には50メートルを超える建築物は珍しく、街並みや山々を一望できるその眺めは評判を呼び、開業当初は多くの客が足を運びました。
また「日本初の電動式エレベーター設置」「日本初の美人コンテスト開催」など、多くの話題で人々の注目を集めます。
しかし、明治後期には徐々に客足が遠のき、凌雲閣は廃れていきました。
地震に身投げ、無許可営業の娼婦が集うエリア「十二階下」の誕生……。
明治時代の観光名所として後世にまで名を残す凌雲閣ですが、決して華やかな面ばかりではありませんでした。
開業から爆破解体されるまでの33年間の、凌雲閣の歴史をご紹介します。
※「凌雲閣」は同名の建物が当時2つあり、1889(明治22)年に大阪に、1890(明治23)年に浅草に建てられました。本稿では浅草の凌雲閣について解説します。
眺望用の高層建築「凌雲閣(十二階)」
凌雲閣は、眺望用に作られた12階建ての高層建築です。上から見ると八角形になっていて、1〜10階はレンガ造、11〜12階は木造でした。
「凌雲閣=雲を凌ぐほど高い」という意味。「十二階」という通称で呼ばれることも多かったそう。
料金は大人8銭、子ども4銭。明治の1銭は約200円程度で、当時は「もり、かけ、銭湯3銭(もりとかけ=蕎麦)」と言われた時代です。お蕎麦が600円で食べられる時代の1600円ということは、安くはないけれど庶民でも出せるような金額、というイメージでしょうか。
冒頭でも触れましたが、凌雲閣の高さについては諸説あります。
開業当初に発表された高さは「約67メートル(220尺)」でしたが、1921(大正10)年に行われた震災予防調査で再計測された時には、「約52メートル(172尺4寸)」だったそう。
15メートルもの差が出てしまった理由については、後世の研究によると「最初の発表時の約67メートル(220尺)には、避雷針や入口の石段も高さに含まれていたのでは」と考えられています。
眺望用に建てられた凌雲閣ですが、景色を眺めるフロアは11〜12階で、その下には商品を販売する店舗(売店)が入っていました。
各階がどうなっていたのか、簡単にご紹介します。
- ・1階:詳細不明。おそらくエントランスフロア。
- ・2〜7階:売店。開業前には「諸外国の商品を扱う店」とされたが、実際は浅草近辺の名産品、東京みやげの工芸品などを販売する売店が入っていたそう。
- ・8〜10階:休憩所。美術品や楽器が展示されていたフロアもあり。
- ・11〜12階:眺望室。
「2〜8階が売店」「10階も眺望室だった」「10〜11階は運動場」など、各階の詳細には諸説ありますので、上記一覧はあくまで一例として見ていただければと思います。
イメージとしては、ショッピングセンターの上2フロアが景色を眺められるスペースになっている、といった感じでしょうか。
ただ眺望を目当てに訪れる客がメインだったため、売店には入らずに上の階へ向かう人のほうが多かったようです。
高いところに登るブーム到来、からの凌雲閣爆誕
凌雲閣建設の発起人は、越後長岡の貿易商・福原庄七。基本設計を担当したのは、イギリス人衛生技師のウィリアム・K・バルトンです。バルトンは帝国大学工学科(東京大学の前身)の衛生工学教師として1887(明治20)年に来日し、東京の水道・下水道建設にも携わった人物です。
さて、凌雲閣はなぜこの時期、この場所に建てられたのか——。
諸説ありますが、凌雲閣の開業年である1890(明治23)年の3〜7月に、上野で開催された「第三回内国勧業博覧会」に多くの客が訪れることを見越して、興行収入を得ようと建てられたものではないか? と考えられています。
興行収入を得る目的として「眺望用の建物」を選んだのはおそらく、当時の浅草には「高いところに登って景色を眺めるブーム」が到来していたからでしょう。
このブームの発端となったのは、1886(明治19)年3月に行われた浅草寺五重塔の改修工事ではないかと考えられています。
浅草寺五重塔は改修工事の際に、下足料(履物を預かる料金)を取って塔を囲む足場に一般の人々を登らせる取り組みを行いました。すると、景色見たさに登りたがる人が続出したのだとか。
それ以降、高いところに登って景色を眺める興行が次々と登場しました。
約9メートルの大人形の体内を登り上から景色を見る「海女のハダカ人形」や、疑似登山が楽しめる、約30メートルもの巨大な富士山の模型「富士山縦覧場(通称:浅草富士)」など……。
「海女のハダカ人形」は蔵前の厩橋付近、「富士山縦覧場」は浅草寺付近と、いずれも浅草周辺エリアに作られた施設です。
この流れの中で、凌雲閣が誕生したと考えられます。
なお、当時の報道では凌雲閣を紹介する際に「エッフェル塔を模倣した」と書かれていることも多いのですが、後年の研究で「開業時期がたまたま一致していたため、メディアがエッフェル塔を引き合いに出しただけなのでは」という見方があり、私個人としてもその説を支持しています。だって、形も高さもまったく違いますからね……。記事の中にフックになる文言を入れたくて「エッフェル塔」と例えたのではないかな、と思います。
凌雲閣が建てられたのは、浅草寺の敷地内にかつて存在した「浅草公園」の近くです。
浅草公園は、近代化を推し進めたい明治政府が先進国にならって作ったもの。一区〜七区に区画が分けられていて、歓楽街として多くの人々が訪れる場所でした。
ちなみに、凌雲閣は公園の敷地内に建てられたと捉えられることも多いのですが、厳密にいうと違います。
凌雲閣が建てられたのは、浅草公園の六区から道路を挟んだすぐ隣です。浅草公園内は高さの制限により、高層建築が建てられませんでした。
浅草公園の規制をうまくかわしつつ公園に訪れる人を客としても取り込めるとあって、ちょうどいい場所だったのかもしれませんね。
電動エレベーターは半年で故障。集客の鍵は美人コンテスト!
凌雲閣は日本初の電動エレベーターを設置した建物として話題を呼びましたが、故障が続いたため、開業半年でエレベーターは稼働中止に。
いくら話題のスポットといえど、「12階まで階段はきついなぁ……」と思うのが人の心理というもの。客足が遠のくことを危惧した凌雲閣の運営者は、どうしたものかと頭を悩ませました。
そこで思いついたのが、「美人の写真を館内に貼りまくろう!」というアイデア。この思いつきから生まれたのが、通称「東京百美人」と呼ばれた、日本初の美人コンテストです。
浅草・吉原・日本橋・赤坂・新橋など、東京各地の花街から100人の芸者が選ばれ、プロの写真家が撮影した芸者たちのカラー写真を館内に張り巡らせました。そして客は階段を登りながら写真を眺め、投票をしたのです。(100人がどのように選ばれたのか、経緯詳細は不明)
当時の芸者といえば、美しさと巧みな芸、教養を兼ね備えたスター的な存在でした。しかし、お座敷に訪れる客は役人や大学教授など、財力のある有識者が中心。つまり、一般庶民はなかなかお目にかかれなかった……ということ。
そんな芸者の姿を眺められるとあって、多くの客が殺到! 当初、投票期間は30日間の予定でしたが、予想外の盛況ぶりに投票期間をさらに30日間延長したそうです。
登覧券(入場チケット)1枚につき投票用紙1枚がもらえ、投票数の制限もなかったそう。お気に入りの芸者をトップにするために何枚もチケットを購入し、投票した人もいたのだとか。まるで現代における「推しに課金するファンとアイドル」の関係のようですね。
集計の結果、5人の芸者が選ばれます。その中には、コンテストをきっかけに「洗い髪おつま」として有名になった芸者・枡田屋小つま(ますだやこつま)もいました。
「洗い髪」というのは、コンテスト用の写真を撮影する現場に、髪を結わずに現れたエピソードから名付けられました。
コンテスト用の写真撮影の日、出発時間になっても髪結いが家にやって来ず、撮影に間に合わないと思ったおつまは仕方なく髪を下ろした状態で撮影現場に向かったそう。
当時、女性が髪を結わずに人前に出ることは恥ずかしいこととされていました。そのため、このエピソードでおつまは注目を集めます。おつまは絵葉書(当時のブロマイド的存在)に数多く描かれ、広告モデルとしても活躍したそう。
(※実際のコンテスト用の写真には髪を結った姿で写っていたため、撮影現場で髪を結ったのではないかと考えられています)
投票コンテストは初回だけでしたが、凌雲閣ではその後も何度か美人写真の展示が開催されました。(二度目の展示では、髪を下ろした姿のおつまの写真も飾られました)
また「日本百景」や「シカゴ万博」など、美人写真以外の展示も行っていたそうです。
富士山や街並みとは別の「絶景」を楽しむ客も?
美人コンテストというトリッキーなコンテンツで話題をさらった凌雲閣。
しかし、もともとの目的であった「眺望」を目当てに訪れる人もたくさんいました。
眺望室からは、東京はもとより富士山や伊豆の火山群、足柄、箱根などを一望できたそう。田山花袋は『東京近郊 一日の行楽』でその景色を「天然の大パノラマ」と評しました。
当時は壁に描かれた景色の絵や模型を眺める「パノラマ館」が流行しており、人の手によって人工的に作られたパノラマと比較して「天然」と表現したものと思われます。
一方、街並みや富士山とは別の「美しい眺め」を見にやってくる客もいました。いったい何を眺めにきたのか——?
そう、浅草に隣接する台東区・千束に現在もその名残をとどめる「吉原遊廓」です。
館内には景色を眺めるための望遠鏡が設置されていましたが、それを使って吉原の遊女をのぞき見ようとする人も少なくなかったのだとか。
当時日本一の高層建築とはいえ、50メートル程度の高さは人の姿が肉眼でも捉えられるくらいの距離感です。望遠鏡の倍率は数十倍程度だったそう。顔がはっきり見えるほどではないものの、衣装や動きなどはある程度見えたのではないかと思います。
景色を眺めるならより高いほうがいい……と考えてしまいがちですが、全長634メートルのスカイツリーからは決して見えない、低いからこそ見える景色もあるのだと気付かされるエピソードです。
地震に身投げ、私娼窟……凌雲閣が抱えた闇
浅草の観光名所として、華やかな面が語られることも多い凌雲閣。しかし明治後期以降、浅草の地で活動写真(映画)やオペラが人気を博していくにつれ、眺望だけでは集客できなくなりました。
開業の半年後には一日平均300人ほどの客足でしたが、明治30年頃には一日わずか数十人程度の客しか来ず、赤字続きで経営状況は悪化。売上補填のため、外壁に大きな企業広告も掲示していました。
東京の観光名所としてガイドブックには必ずといっていいほど掲載される場所ではありましたが、近隣の人が訪れるというよりは「地方からの観光客が行く場所」のような扱われ方になっていきます。
客足が減りはじめたころ、凌雲閣の存在に影を落とす出来事がいくつか起こりました。
まず一つ目は、地震です。
凌雲閣は、三度の大きな地震を経験しています。明治24年と明治27年、そして1923(大正12)年の関東大震災です。
一度目の地震では何事もなかったのですが、二度目の地震で建物に亀裂が入り、「こんな高い建物、倒壊したら危険だから取り壊したほうがいいんじゃないの?」という議論が持ち上がりました。
高さがウリであった凌雲閣は、その高さにより危険な存在として捉えられるようになってしまったのです。
そして二つ目は身投げです。
明治の末、1909(明治42)年に、立て続けに3人が凌雲閣から飛び降りました。1人目は26歳の男性、2人目は16歳の女性で、3人目は20代後半の女性。3人は示し合わせたわけではなく、別々の事情で身投げをしています。
なぜ凌雲閣を身投げの場所に選んだのか、その理由ははっきりとわかってはいません。
ですが事実としてひとつ言えるのは、この頃の凌雲閣は身投げを見咎められる心配がないほど客が少なく、寂れていたということ。
その後身投げを防ぐために、11・12階の外壁周辺に金網が張られたそうです。
この事件は世間に大きな反響を巻き起こし、凌雲閣は悪い意味で注目を集める存在となってしまいました。
さらに時を同じくして、凌雲閣のふもとに私娼窟——つまり、無許可で売春を行う私娼たちが集うエリアが形成されていきました。
正確な時期は不明ですが、凌雲閣のふもとには、飲み屋を装って私娼をあっせんする「銘酒屋」と呼ばれる店が徐々に増えていきました。私娼たちは店の小窓から「チョイトチョイト寄ってらっしゃいヨ」と声をかけ、客引きをしていたのだとか。この「チョイトチョイト」という呼び声は「鼠鳴き」と言われていました。
凌雲閣のふもとの私娼窟はいつからか「十二階下」と呼ばれるようになり、どんどん規模を拡大していきました。
当時の浅草には十二階下の他にもいくつか私娼窟がありましたが、十二階下は店の数も私娼の人数も多かったようです。当時の警察署の調査結果によると、622軒/計1200人もの私娼がいたそう。かなり大規模ですね……!
客の入らない凌雲閣は、十二階下の目印のような扱いになっていきました。これほど大規模な私娼窟が凌雲閣のふもとで栄えていったのは、観光地としてのかつての輝きを失い、廃れていたことの証でしょう。
それでも凌雲閣はやはり、浅草の象徴的な存在であり続けました。それはその「高さ」故です。低層建築がほとんどだった当時、浅草の地にひときわ高くそびえ立つ煉瓦造りの建物は、ある程度離れている場所であっても見えたのではないかと考えられます。
登る人は減ったものの、人々の目を楽しませる役割は担っていた(のではないか、と筆者は考えている)凌雲閣が浅草から消えたのは、1923(大正12)年のこと。きっかけは、同年に起きた関東大震災でした。
震災により8階のあたりから上が崩れ、さらに火災によって内部から煙が上がり、巨大な煙突のように燃え上がりました。その約20日後、倒壊の危険があるとし、爆破解体されたのです。
こうして凌雲閣は、33年の歴史に幕を閉じました。
現在の凌雲閣跡地をさんぽしてみた
凌雲閣の跡地は現在の浅草二丁目付近。浅草公園の区画名の名残りから、通称「六区」とも呼ばれます。
このあたりには、「六区通り」「浅草ROX(商業施設)」「ロック座(ストリップ劇場)」といった「六区」にちなんだ名称の場所がいくつかあります。日本きっての繁華街だった当時の浅草の名残が感じられるエリアです。
跡地付近には記念碑が建っています。
また周辺エリアには、この記念碑のほかにも凌雲閣の跡地であったことを示す掲示物がいくつも設置されています。
散歩ついでに探してみるのもまた一興。
さて、凌雲閣関連の掲示物の中でも、とくに興味深い場所を最後にご紹介し、本稿を締めたいと思います。
こちらは、この地で2018年に行われたビル工事の際に、凌雲閣のレンガ造基礎部分が発見された場所です。
レンガ造発見を記念し、「浅草公園凌雲閣登覧寿語六」絵図(すごろくです。よ〜く見ると凌雲閣の各窓に数字がふってあります)を拡大し、壁に掲示したそう。
発見された時にはかなり話題になったのだとか。工事現場に行くとレンガがもらえたため、多くの歴史ファンが現場に詰めかけたそうです。
ちなみに私は当時そのことを知らず、後のニュースで知りました……レンガ欲しかった……。
壁画の下には発見されたレンガが並べられています。
このあたりは地元なので壁画の前を通り掛かったことは何度もありましたが、ここに並ぶレンガが凌雲閣のものとはまったく知りませんでした。というか、レンガが並んでいることにも気づかなかった……この原稿を書く際に改めて凌雲閣について調べる中で知りました。
歴史的建造物の一部がこんな道端にあるなんて! と驚きましたが、神社仏閣以外のさりげない場所にも歴史を感じられるものがあるのが、浅草の大きな魅力。
一見普通の公園が史跡だったり、「歴史上の人物のお墓がこんな場所に?!」なんて発見があったり……。
ちょっとした路地にも歴史あり。浅草に行く機会があれば、有名どころ以外もぜひ散策してみてください。
※参考文献
『浅草公園 凌雲閣十二階——失われた〈高さ〉の歴史社会学』佐藤研二
『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』細馬宏通
『淪落の女』松崎天民
『ふるさと東京今昔物語 第1巻 浅草編』坂崎幸之助、生田誠
※アイキャッチ画像は「浅草公園陵雲閣乃眺望(都立中央図書館所蔵)」をトリミングして使用。