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もし船を造りたいのなら、木を集めるために人を呼び込んだり作業や仕事を割り当てたりするのではなく、限りない海の広大さに憧れを抱くように彼らを教えなさい。(サン=テグジュペリ)
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2022.06.20

近世城郭の集大成!徳川家康最期の地・駿府城とは?歴史と今を解説

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皆さんはどんな場所で最期を迎えたいでしょうか。海の見える場所がいいか、静かな山間がいいか。できれば自分の好きな風景を眺めながら、余生を過ごせたら最高ですよね。そんな理想を叶えた男がいました。人生でまさか同じ地に3度住むことになるとは! それが徳川家康の隠居場所となった駿府城(すんぷじょう)です。

この駿府の地に、8歳から18歳までを今川氏の居館に人質として置かれ、二度目は5カ国を領有する大名となり、天下統一を目指して駿府城を築城。1585(天正13)年から1590(天正18)年までの5年間を過ごしました。そして三度目となったのが、1605(慶長10)年、征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲り、大御所となった時代です。家康が最期の地としてこだわった駿府城についてご紹介します。

家康にとって、特別な場所だったんですね。

将軍職を引退後、家康が天下普請で造らせた本気の城

1607(慶長12)年、天下普請(てんかぶしん)によって築城された駿府城は、江戸城をしのぐ壮大な天守台を備えた城でした。ここでいう普請は、城造りの工事のことで、天下普請とは、各地の大名に、天下人が自分のために城を造らせることです。家康は大名たちの経済力を抑えるために、城造りに協力させます。家康に取り入りたい諸大名たちは、経済的負担を抱えてでも、競い合って築城に心血を注ぎました。徳川政権下では、名古屋城や彦根城をはじめ、天下普請でたくさんの城が築かれています。

これは、晩年の家康像かな?迫力ある~

そもそも駿府城って、いつできたの? 駿府城の歴史を簡単に紹介

時は、室町時代にまでさかのぼります。駿河国の守護(※)に命じられた今川範国(のりくに)が守護所を置いたのが今川館(府中城、府中館)です(範国ではなく、範政との説もあり)。その後、1568(永禄11)年、今川氏真(うじざね)が城主の時に、武田信玄に攻められ、一時、武田氏の支配下となりました。
※守護とは、鎌倉幕府・室町幕府が定めた武家の職制で、国ごとの軍事指揮官、行政官などを指します。

1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると、駿河・遠江・三河・信濃・甲斐の5カ国を支配する大名となった徳川家康が浜松城から移ることになります。1585(天正13)年から家康による本格的な築城工事が行われました。本丸、二の丸を配した城郭だったのではといわれています。

1590(天正18)年に小田原北条氏を打ち破り、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東移封を命じられ、その後、駿府城には豊臣秀吉の家臣、中村一氏(なかむらかずうじ)が入城します。2019(令和元)年度の発掘調査で、新たに小天守台が見つかり、先に発見されていた天守台とあわせて、豊臣政権下で家康、もしくは中村一氏によって天守が築かれたのではと注目されています。

最高の材料と技術で築き上げた近世城郭の集大成

家康大御所時代に、築城された駿府城は、安倍川の扇状地に、三重の堀をめぐらせ、本丸、二の丸、三の丸を配した輪郭式(りんかくしき)の平城でした。水堀と石垣に囲まれた堅牢な造りで、本丸の北西には5重7階の天守を配置した壮大な城郭。まさに近世城郭の集大成であり、江戸に次ぐ政治、経済、文化の中心地・駿府の象徴であったといわれています。しかし1607(慶長12)年、大奥からの出火で、本丸御殿、櫓、門などが焼失。再び再建されるという事態に。信州木曽や紀州熊野、伊豆の山々で伐採が命じられ、本丸、二の丸、三の丸、呉多門櫓、大天守、小天守、石垣普請が進められたといいます。その結果、翌年の1608(慶長13)年には、本丸御殿が完成しました。家康の執念もさることながら、すぐさま普請へと動いた大名たちの働きに驚かされます。

アクシデントにも関わらず、翌年には完成させちゃうって!信じられない!それだけ家康の力が強大だった訳ですね……。

末子たちを引き連れて駿府城へ。家臣や幼い息子たちと最後の日々を謳歌

家康は駿河に移る際、9男義直(よしなお)、10男頼宣(よりのぶ)、11男頼房(よりふさ)を連れ、城内に住まわせました。家康は駿府城で能や鷹狩、茶道を息子らと楽しむなど趣味に興じ、武士のたしなみを伝えました。後にこの3人が、尾張、紀伊、水戸の藩主となる「徳川御三家」と呼ばれる面々です。

悠々自適で、趣味三昧!羨ましいですね!

1616(元和2)年、家康は73歳の生涯をこの駿府城で閉じます。家康が葬られた久能山東照宮には、茶道具や家康の描いた書画なども納められました。その後、紀州藩初代藩主となる徳川頼宜を経て、3代将軍徳川家光(いえみつ)の弟忠長(ただなが)が城主となりますが、1632(寛永9)年には改易となり、以後は幕府の直轄地として管理されるようになります。江戸時代を通じて、火災や地震などで天守や本丸御殿が焼失、石垣も倒壊することもありましたが、その都度修復。しかし明治に入って、駿府城は取り壊されてしまいました。

家康が理想とした駿府の城下町が現在の静岡の中心を担う

1989(平成元年)には、市政100周年の記念事業で、巽櫓(たつみやぐら)を復元。1996(平成8)年に東御門が、2014(平成26)年に坤櫓(ひつじさる)櫓が復元され、当時の様子を醸し出しています。本丸、二の丸部分は、駿府公園として整備され、静岡市民の憩いの場として親しまれています。2012(平成24)年4月に、その名称が駿府城公園に改められました。

現在、駿府城では、発掘調査が進み、家康時代の慶長期の天守台と豊臣時代の天正期の天守台といった、それぞれの時代の石垣を見ることができます。

改めて、静岡市内を見渡すと、駿府城公園を中心に、徳川家康が理想とした街づくりを体感することができます。壮大な城下町を築き、そこで生涯を終えた家康の運の強さとそのパワーを垣間見た気がしました。

写真提供:公益財団法人するが企画観光局

参考資料:東海の名城を歩く 静岡編 中井均・加藤理文編(吉川弘文館)
     定本 徳川家康 本多隆成著(吉川弘文館)

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徳川家康と16人の子どもたち (祥伝社黄金文庫)

書いた人

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。