今年は壬申の乱から1350年目ということで、ゆかりの地ではいろいろなイベントも企画されているようだ。
壬申の乱は天智天皇(中大兄皇子)亡き後、弟の大海人皇子(後の天武天皇)と息子の大友皇子の間で繰り広げられた後継者争いである。近年では大海人皇子の妃で後に持統天皇となった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が、天智天皇が亡くなった後、大友皇子を討つように夫を説得したのではないかという説もある。鸕野讃良皇女は天智天皇の娘、大友皇子は彼女にとって腹違いの弟にあたる。まさに叔父VS甥、姉VS弟という骨肉の戦いだった。
戦いは叔父である大海人皇子の勝利に終わる。敗れた大友皇子は自ら命を絶ち、大海人皇子は即位して天武天皇となるのだが、この時、大海人皇子を助け、勝利に導いたのが美濃の豪族・村国男依(むらくにのおより)という人物だった。『日本書紀』にその名は垣間見えるものの、日本史上では無名に近い。1350年を機に、村国男依の果たした役割を明らかにすることで、古代最大の内乱と言われる壬申の乱を深掘りしてみたい。
※アイキャッチ「村国男依」像の画像提供は各務原市教育委員会
古代史上、最も有名な兄弟・中大兄皇子VS大海人皇子
身内どうしの後継者争いというのは、現代でも珍しいことではない。しかし、大海人皇子と大友皇子の場合は立場が立場だけに事は大きくなった。乱に至るまでの経緯をみると、事はどうやら、大友皇子の父であり、大海人皇子にとっては兄である中大兄皇子に起因しているようなのだ。それでは本題に入る前に、中大兄皇子と大海人皇子のことをざっとおさらいしてみよう。
中大兄皇子は秀吉タイプ?! 競争相手を一掃し、朝鮮半島にも出兵
二人は共に舒明(じょめい)天皇を父、皇極(こうぎょく)天皇(一旦譲位した後、再び斉明天皇として即位)を母として誕生した。しかし、かなりタイプの違う兄弟だったようだ。
645年、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり 後の藤原鎌足)と共に、当時の最高権力者であった蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺。翌日には父の蝦夷(えみし)も自害し、以後、蘇我氏は歴史の表舞台から姿を消した。
蘇我氏を滅ぼし、自ら天皇に即位するかと思われた中大兄皇子だが、母・皇極天皇の弟で叔父にあたる軽皇子(かるのみこ)を推薦。軽皇子は孝徳(こうとく)天皇として即位する。以後、中大兄皇子は23年間にわたり天皇の位につかないまま政務に携わった。そして、蘇我氏系で次期天皇有力候補であった異母兄の古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)や有間皇子(ありまのみこ)を謀反の疑いで処刑するなど、競争相手を一掃している。
そして660年に滅亡した百済(くだら)を復興させるために朝鮮半島へ出兵。ところが、白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦いで、新羅(しらぎ)と唐の連合軍に大敗。出兵した斉明天皇も九州で崩御した。
その後も中大兄皇子は天皇位につかないまま、執政を行い、北九州の沿岸に防人(さきもり)を配備。667年には沿岸部の難波(なにわ)から内陸部の大津に都を移すなどして国防体制を整えた。
彼の行動は後世のある権力者をほうふつとさせる。それは豊臣秀吉だ。ライバルを容赦なく切り捨てた非情さは織田信長に通じるかもしれない。事情は異なるが、朝鮮出兵も秀吉との共通項だ。さらに似ていると感じられるのが皇子の最晩年だが、それについては後程お話ししたい。
大海人皇子は家康タイプ?! 兄の生前中は我慢して我慢してサポート役に徹する
一方、大海人皇子については不明な点が多い。生まれた年も兄との年齢差も不明。実は中大兄皇子の弟ではなく兄であるという説や、二人は同じ両親から生まれたのではないという説もあるようだが、ここでは同母弟とさせていただく。彼は入鹿暗殺には関与していないと思われるが、大化の改新を推進するにあたり、兄のサポート役に徹していたようだ。我慢に我慢を重ねて最後に最高権力の座についた苦労人というイメージは、信長、秀吉の後、最後に征夷大将軍の座についた徳川家康を思わせる。
大海人皇子の4人の妻は兄の娘たちだった
大海人皇子には複数の妻がいたが、驚くのはそのうち4人までもが中大兄皇子の娘だったことだ。大田皇女(おおたのひめみこ)・鸕野讃良皇女・大江皇女(おおえのひめみこ)・新田部皇女(にいたべのひめみこ)である。つまり、4人とも姪(めい)だったわけで、今ならとうてい考えられないことだ。このうち、大田皇女と鸕野讃良皇女は両親を同じくする姉妹だった。
当時の常識からいえば、中大兄皇子の後継者は息子ではなく、弟の大海人皇子だった。弟に娘を嫁がせ、彼女たちが子どもを産めば、その子どもたちはすべて中大兄皇子の血を引くことになる。自分の血を残すために何重にも縛るというか、あまりにも濃すぎる婚姻関係には中大兄皇子のすさまじい執着を感じる。姉妹とはいえ、皇女たちの心中も決して穏やかではなかっただろう。
額田王をめぐる三角関係?! 兄弟の対立はあったのか
また、大海人皇子には歌人としても名高い額田王(ぬかたのおおきみ)という妻がいた。彼女は大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、その後中大兄皇子の妻になっている。いったい、3人の間に何があったの? と思うが、そのあたりのいきさつについては何も記録はなく、想像の域を出ない。ただ次の歌が『万葉集』に残るのみである。
天皇の蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
これに対し、大海人皇子が詠んだ歌は
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故(ゆえ)に 吾(われ)恋(こ)ひめやも
こうなると額田王と元夫である大海人皇子との大人の関係が疑われるが、これは宴席での座興であるとの見方もあり、本当のところはわからない。
藤原氏の家伝書によれば、大海人皇子はある宴会で激高(げきこう)し、長槍で床を貫き、天智天皇は大海人皇子の無礼を怒って殺そうとした。この時、中臣鎌足(なかとみのかまたり)がその場をとりなし、事なきを得たという。大海人皇子がなぜ天皇に対しそのような態度をとったのか…なんとなく、二人の間の不協和音をうかがわせるようなエピソードではある。
10月17日、その時歴史は動いた 壬申の乱前夜
どうする?! どうなる?! 大海人皇子
さて、斉明天皇が崩御した後7年間の称制(しょうせい 次の君主となる者が天皇として即位しないまま、政務を行うこと)を経て、ようやく中大兄皇子は天智天皇となる。3年後、天皇は息子の大友皇子を太政大臣に任命した。人々はさぞびっくりしたに違いない。なぜなら太政大臣に任命するということは、天皇の後継者を意味するからだ。前にも述べたとおり、当時の慣例によれば皇位継承は子どもよりも兄弟が優先され、天智天皇の後継者は弟の大海人皇子と見なされていた。長きにわたり、兄をサポートしてきた大海人皇子にはそれだけの信望と実力があった。大海人皇子はこの人事をどのように受け止めたのだろうか。
やがて天智天皇は病に倒れ、重篤(じゅうとく)な状態に陥る。そして、671年10月17日、天皇は大海人皇子を病床に呼び、言った。
朕(ちん)、病(やまい)甚(はなはだ)し。後事(こうじ)を以て(もって)汝(なんじ)に属(つ)く」と云々(うんぬん) 『日本書紀』天智紀
遠山美都男著『壬申の乱』中公新書
「私はたいそう病気が重い。(もう助からない。)後の事はお前に頼む」
なんと! 前に言ってたことと違うじゃない。後継者は大友皇子じゃなかったの?! 意外な展開にビックリし、死を前にした兄の頼みを「それならば」と受け入れるかと思いきや、大海人皇子は言った。「私は多病の身ですから、そんな大役をお引き受けすることはできません。どうか大后(おおきさき)である倭姫王(やまとひめのおおきみ)を天皇にお立てになり、大友皇子を執政にあたらせてください。私はすぐに出家して、仏道に励みましょう」と。そして言葉通りすぐに剃髪(ていはつ)して僧形となり、自分に与えられていた武器の類をすべて返還。翌々日には吉野に向けて出発し、到着後、舎人(とねり 召使)の半数を解任してしまった。
大海人皇子と病床の天智天皇 手に汗握る心理戦 虎は野に向けて放たれた
え~、そんなあっさり出家なんかしちゃっていいの? これまで一生懸命頑張ってきたのに! という声が聞こえてきそうだ。実はこれには裏があった。大海人皇子が天皇の病床に参上する際、使者の男が皇子にこう伝えたというのである。
「心してご返答なされませ」
男とは蘇賀安麻呂(そがのやすまろ)。彼はかねてから大海人皇子に好意を寄せていたらしく、この時、天智天皇が返答次第によっては大海人皇子を殺害する計画があることをほのめかしたというのだ。この一言で大海人皇子は身の危険を察知し、吉野に逃れることができたと言われている。
健康上の理由を述べて断れば角が立たない。また前天皇の大后(正妻)を天皇に立てることは前例があり、天智天皇と大海人皇子の母・斉明天皇もその一人だった。また大友皇子を執政にあたらせることは、天皇の準備期間としてもちょうどよい。大海人皇子が僧になるということは世俗を捨て、今後一切政治には関わらないことを意味する。これだけ条件を整えれば、いかに猜疑心(さいぎしん)の強い天智天皇でも突っ込みどころがない。
大海人皇子は兄の裏をかいたわけだ。彼はこれまで兄がいかにしてライバルたちを葬ってきたかを、身近でつぶさに見てきた。自分もそうなるのはまっぴら御免だと慎重に言葉を選びながら、非の打ちどころのない返答をしたのだろう。
吉野に向かう大海人皇子一行を途中まで見送った重臣たちの一人が
「虎に翼を着けて放てり(これでは、虎に翼を着けて野に放ってしまったようなものだ)」遠山美都男著『壬申の乱』中公新書
といったという。
死を前に秀吉化した天智天皇 大友皇子と五重臣の誓い
大海人皇子が吉野に去った翌月、天智天皇は二度にわたって大友皇子と5人の重臣たちを招集し、誓いの言葉を述べさせた。それは大友皇子を助け、天智天皇が言ったことを実行せよというものだった。
後世、死を目前にした豊臣秀吉は、徳川家康ら五大老にしつこいくらい幼い秀頼のことを懇願している。祖父と孫ほどもある年の差父子なので無理もないといえばそれまでだが、秀頼出生以前は後継者としていた甥の豊臣秀次を自刃に追い込み、その妻や子どもたちまで公開処刑するに至った残忍さは正気の沙汰とは思えない。自分の血を残したいという権力者の最期はいつの時代も同じなのかもしれない。
671年12月3日、天智天皇崩御(ほうぎょ)。時代は動き始めた。
壬申の乱 大海人皇子を勝利に導いた美濃の豪族・村国男依
吉野の虎、吠える!
大津にいた大友皇子は、いずれおじさんとの戦いは避けられないものと考えて、都の周辺で兵を集めるなどの根回しを進めていたようだ。そればかりか各所に監視を置いて大海人皇子の動きを注視し、吉野への食糧の運搬を阻止しようとしていた。舎人(とねり 皇族や貴族に仕えていた人)からこの報告を聞いた大海人皇子は激怒した。
「然(しか)るに今、已(や)むことを獲(とら)ずして、禍(わざわい)を承(う)けむ。何ぞ黙して身を亡(ほろぼ)さむや」
「むざむざこのまま黙って滅ぼされるのを待つことができようか」といったところだろうか。
大友皇子の動きが彼の闘志に火をつけた。眠れる虎は吠えたのである。天智天皇が亡くなって約半年後のことだった。
大海人皇子はなぜ勝利することができたのか
結果的に叔父さんVS甥っこの戦いは叔父さんに軍配が上がる。戦いの陰ではいくつもの悲劇も生まれた。しかし、ここでは触れない。
なぜ、吉野の山奥に隠棲していた大海人皇子が勝てたのか。普通に考えれば大津にいた大友皇子の方が、はるかに事を有利に進めることができたはずだ。そこで浮かび上がってくるのが本編の主人公・村国男依である。(お待たせしました!)
美濃の豪族出身の男依がなぜ、壬申の乱の勝敗を決するほどの役割を担うことになったのか。それは当時の美濃と大海人皇子の関係にあった。
西美濃は大海人皇子ファミリーにとってアウェーではなく、ホームだった
美濃の安八磨郡(あはちまのこおり 当時の呼び名は安八磨評)には、湯沐邑(ゆのむら)と呼ばれる大海人皇子の私領があった。現在も安八郡(あんぱちぐん)、安八町(あんぱちちょう)は存在するが、当時の安八磨郡は現在よりもはるかに広く、大垣市の大部分など西美濃のかなりの地域を占めていたようだ。この辺りは濃尾平野の穀倉地帯であり、湯沐邑に住む農民たちと皇子の結びつきはとても強かったと考えられる。つまり、西美濃は大海人皇子にとってのホームだった。
美濃に遣わされた男依らの活躍 大海人皇子、決死の伊賀越え
ついに決起を決意した皇子は、672年6月22日、3人の舎人(とねり)を美濃の湯沐邑に派遣した。村国男依・身毛君広(むげつきみひろ)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)。いずれも美濃に深い係わりのある、側近中の側近である。彼らの役割は湯沐邑を管理していた湯沐令(ゆのうながし)・多臣品治(おおのおみほんじ)に連絡をとり、兵の動員を謀ること、そして国司に連絡をとり美濃の兵力を動員して、不破道(ふわのみち)を塞(ふさ)ぐことだった。
不破道とは後に整備された不破関(ふわのせき)の可能性が高いともいわれており、現在の関ケ原の西部、隣国・近江との国境の辺りと思われる。不破の地名は関ケ原町と隣の垂井町を含む行政区域である不破郡に残る。
3人による兵の動員は極めて迅速に行われたようだ。6月22日、3人を美濃に派遣すると同時に大海人皇子は鸕野讃良皇女らと共に吉野を脱出。伊賀越えをして、4日後、現在の三重県四日市市の北部辺りまで進んできたところ、馬を飛ばしてやってきた男依から「美濃の兵士3000人を動員して不破の地を確保しました」と告げられている。皇子はどんなに喜んだことだろう。
彼にとってもこの行軍は命がけだった。なぜなら大友皇子の母は伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)と言って、伊賀は大海人皇子にとってアウェーだった。いつ、敵に襲われるかわからない。後世、徳川家康も信長が討たれた直後に伊賀越えをして領国の三河に生還している。約900年あまり前、大海人皇子は家康と同じルートをたどっていた。
男依らによる不破道封鎖は乱の勝敗を大きく左右した。これによって大友皇子が東国に遣わした使いは大海人皇子軍によって拘束され、大友軍は東国の兵力を動員することができなかった。九州方面への使いも不調に終わっている。
後世、設けられた不破関は壬申の乱の体験が元になっているといわれる。不破関の役割は東国から京の都への侵入者を防ぐというより、都から逃れてきた反逆者や謀反人などが東国に逃れるのを防ぐためであったと考えられている。
舎人から将軍へ 大出世した村国男依
ところで、村国男依とはどんな人物だったのか。
男依の出自
現在、各務原市市役所の1Fロビーに男依の像が立っている。剣を握ってはいるものの、その風貌は勇ましいというよりあどけない少年のようだ。彼がいつ生まれたのかはわかっておらず、壬申の乱のときの年齢も不明である。しかし、戦いで大活躍をしたところを見ると、この像のような若者だったのかもしれない。
村国男依は小依、雄依とも書かれ、現在の各務原市東部を本拠地にした小豪族の出身と考えられている。皇子の私領であった安八磨郡の出身ではないが、同じ美濃ということで取り立てられ、皇子にとっては数少ない、信頼のおける舎人だったのだろう。
各務原市には村国と名の付く神社が二座(村国神社・村国真墨田神社)あり、ともに村国男依と大きな関係があるといわれている。
さらに木曽川を挟んで対岸にあたる、現在の愛知県江南市村久野(むらくの)町の辺りにも村国一族が住んでいたと考えられ、同町にある音楽寺(おんがくじ)の前身は男依ゆかりの寺であったとされる。村国一族は木曽川流域の広範囲に渡って勢力を持っていたのだろう。
各務原に残る男依についての伝承 剣の達人だった男依
各務原市には男依についていくつかの伝承が残っている。
その一つは剣の達人であったというもの。領地を荒らす山賊に一人で立ち向かい、首領を倒して服従させた。しかもその後、山賊を許して自分の部下とし、勢力を拡大したという。強いばかりか、心の広い人物だったようだ。人望も厚かったのだろう。
また、当時の美濃には鉄を生産するたたらの里がいくつかあり、男依は戦いに備え、刀鍛冶に銘じて刀の増産に力を入れ、また百済から刀鍛冶を招いて、刀の質の向上にも努めていたそうである。
男依がいつ頃から大海人皇子に仕えたのかはわからない。しかし、彼が皇子と厚い信頼で結ばれていたのは確かなようで、ある時、大友皇子の片腕であった蘇我赤兄(そがのあかえ)が大海人皇子に娘を嫁がせたいと言った時、男依はそれが赤兄の謀略であることに気づき、皇子を諫め、その話を受けないようにと進言した。しかし、皇子は「断れば赤兄と対決しなければならない。今の私にはその力はない」と言ったので、男依には返す言葉がなかった。その時、彼は大海人皇子の力になることを、あらためて決意したという。
壬申の乱はもう一つの関ケ原合戦?!
さて、男依から不破道封鎖の報告を受けた大海人皇子は、息子の高市皇子(たけちのみこ)を美濃の和蹔ケ原(わざみがはら)に派遣した。和蹔ケ原とは関ケ原付近の古い呼び名だ。そこで諸国の兵力の動員をはかったのである。
翌日、大海人皇子は高市皇子からの要請を受け、疲労して健康状態のよくない妻・鸕野讃良皇女を桑名に残し、高市皇子のいる和蹔ケ原へ向かった。その途中、尾張国守(おわりのくにのかみ)小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が2万の兵を率いて大海人皇子の支配下に入った。皇子はたいそう喜んで、高市皇子が布陣する和蹔ケ原の東方にある野上(のがみ)(現在の関ケ原町東部)の地を本営とした。そして高市皇子に全権を委ね、乱の終結まで野上を動かなかった。このため、壬申の乱は後世になぞらえて、もう一つの関ケ原合戦と呼ばれる。徳川家康が最初に布陣した桃配山(ももくばりやま)は、この時に大海人皇子が兵士の労をねぎらい、桃を配ったとされることからついた名前だ。家康が大海人皇子の勝利にあやかろうとしたのである。
村国男依、将軍として出陣
やがて大海人皇子は、飛鳥(あすか)京にいた大伴吹負(おおとものふけい)が味方となり、大和地方を制圧したとの報告を受ける。7月2日、皇子は兵力を二つに分け、それぞれ数万の軍勢を与えて一方を大和へ、もう一方を大友皇子がいる近江に向けて出発させたという。この時、男依は近江に向かう本体の将軍に任命された。
この人事には大海人軍の人材不足と見る向きもあるが、そうとも限らないだろう。男依たちのような美濃・近江の舎人クラスの人間ならば、相手が大友皇子であろうが遠慮なく立ち向かって行っただろうし、戦場の地理や人情にも詳しかったからではないかとする説もある。それに何より逆境の皇子にとって、男依は吉野にも付き従ったほどの側近中の側近。二人は身分の違いを越えた絆で結ばれていたのではないだろうか。
赤い布を身に着けて行軍した男依たち
男依たちは大海人皇子や高市皇子に見送られ、近江に向けて出発した。大海人皇子は大友軍との見分けがつくよう、男依たちに赤い布を配布し、身に着けさせたという。行軍しながら赤い布が一斉にひらひらと風になびく様子は、なかなか圧巻だったと思う。この時、万葉歌人として名高い柿本人麻呂も大海人軍に従軍していたらしく、高市皇子が亡くなった際壬申の乱の時の活躍を詠んだ、たいへん長い挽歌(ばんか)が残っている。
大海人皇子は中国の思想や歴史に強い関心を持っていたようで、赤は❝火徳❞という命運を表し、そのシンボルカラーでもあった。
智将・男依の快進撃
大海人皇子が授けた赤い布効果もあったのか、男依たちは近江で快進撃を続けた。7月7日、息長(おきなが)の横川(よかわ)(現在の滋賀県米原市付近)で激突した大友軍を破ったのを皮切りに湖東方面に軍を進め、次々に大友軍を撃破。勝利を収めた。
男依は決して猪突猛進(ちょとつもうしん)で戦ったわけではない。冷静に戦況を判断し、いろいろと考えをめぐらしてもいたようだ。
7月17日には栗太(くるもと 現在の滋賀県栗東市、草津市の付近)で待ち構えていた大友軍を破り、大津まであと一歩という所まで迫ったが、部下に深追いはさせなかったという。なぜなら、周辺に敵の伏兵が潜んでいる危険性があったからだ。男依はここで軍を整え、周囲に十分注意を払いながら大津の手前にある瀬田川をめざした。
決戦・瀬田川の戦い
琵琶湖に注ぐ川はたくさんあるが、実は琵琶湖から流れ出る川は一つしかない。それが瀬田川である。下流は宇治川、淀川となって大阪湾に注ぐ。ここを渡れば大友皇子の本拠地である大津は目と鼻の先であった。
大友軍は瀬田川を死守しなければ、もう後がなかった。彼らも決して手をこまねいて見ていたわけではない。しかし、仲間割れで将軍の一人が殺されたり、裏切り者が出たりして、思うように作戦を進めることができなかったようである。
7月22日、大友軍は瀬田川に架かる橋の西側に集結。男依たちに総力戦を挑もうとしていた。その中には大友皇子の姿もあった。大将自らも出陣していたのである。しかし、そんなことでひるむ男依たちではなかった。大友軍の知略により橋板をはずされ、当初攻略に苦戦したようだが、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)という豪傑が「我にお任せあれ」といって鎧を重ね着して抜き身の刀を持ったまま、雨のように降り注ぐ矢をものともせず、鬼神のごとく橋を駆け抜け、敵陣に突入した。この機を逃す男依ではない。ついに全軍が橋を渡り切り、大友軍を破ったのである。
大友皇子の死
大友皇子は西に向かって逃れようとしたが、時すでに遅く、大津の北も西も大海人軍によって抑えられていた。この時、彼に付き従う者はごくわずかであったようだ。
大友皇子は大海人軍のいた場所からほど近いと思われる山前(やまさき)に身を潜めていたが、すでに死を覚悟していた。彼は舎人を大海人軍に遣わし、名誉ある死を迎えたいと伝えた。男依は皇子の心をくみ取り、攻撃はしないと誓った。
舎人が山前に引き返し、再び姿を現した時、皇子は首だけの無残な姿となって布に包まれていた。自決した皇子の最期の様子を聞き、涙を流さない者はなかったという。皇子の首は男依らの手で、美濃の野上の本営にいた大海人皇子の元にもたらされた。そして首実検の後、大友皇子の首は現在の関ケ原にある自害ヶ峯(じがいがみね)と呼ばれる山中に葬られたとされる。
戦争とはいつの世も残酷で容赦のないものだ。
男依、舎人から中央貴族へ
壬申の乱の大友軍の処罰は重罪の8名は死刑になったほか、左大臣の蘇我赤兄らは配流(はいる)となった。大海人皇子は極力、刑死者を出さないようにしたようだ。しかし、不可解な死を遂げた者もあった。それは2万の大軍を率いて大海人皇子に帰属した尾張国守・小子部連鉏鉤であった。彼は大海人軍にとって大変な功労者であったはずだ。大友皇子を裏切った良心の呵責に耐えかねたのだろうか? 自殺の理由は誰にもわからない。
さて、村国男依はどうなっただろうか? 実質的に無位無官であった彼は「村国連男依」となり、「連(むらじ)」の姓(かばね)が与えられた。「連」とは古代、大和政権から豪族に与えられた尊称である。さらに120戸の功封(こふ 俸禄)を賜ったとされている。『続日本紀』によれば120戸・100戸・80戸の順だったというから、120戸は最多だった。
乱の翌年(673年)、大海人皇子は天武天皇として即位。男依も中央の下級貴族として仕えるようになった。その時の本拠地は現在の奈良県大和郡山市の辺りにあった村国郷であったと考えられている。
男依の死後も優遇された村国氏
676年、村国男依はその生涯を閉じた。壬申の乱は男依にとって人生の大きなターニングポイントとなった。乱が起こらなければ、地方の小豪族としてささやかながらも平和な一生を送ったことだろう。しかし、彼の才能は十分に発揮されることはなかったかもしれない。
男依の死去に際し、天武天皇は「外小紫位(げしょうしい)」を贈っている。小紫位とは当時の冠位を表す。13階中6階という順位だが、紫位という冠位はもともと大臣クラスに与えられるものだったようで、かなり高い冠位であったと思われる。天武天皇は壬申の乱で手柄のあった臣下たちに、生前ではなく死後に高い官位を与えたという。天武天皇は「あの時は本当によくやってくれた」という思いだっただろうが、中央の貴族たちにも配慮して、「外」(地方豪族の出身であることを示す)をつけた官位となったのだろう。
716年、元正天皇はすでに亡くなった壬申の乱の功臣たち10人の後継者に対し、功田を贈っている。この時、男依の子どもである志賀麻呂(しがまろ)は10町もの功田をもらっている。これは五段階中の最高クラスで、しかも、その功田は孫まで伝えるとされた。
元正天皇は天武・持統両天皇の孫にあたり、持統天皇の実子で早世した草壁皇子(くさかべのみこ)の娘にあたる。美濃には何度も行幸し、養老の滝伝説の元になっている美濃の美泉にあやかって、霊亀(れいき)という元号を養老に改元した女帝である。彼女にとっても、おじいちゃま・おばあちゃまがピンチの時にサポートしてくれた美濃はホームだったといえるのかもしれない。男依らの築いた朝廷との絆は一代で終わりではなかったのである。
時代を動かした男依たち
こうして壬申の乱を追ってみると、天武天皇は天智天皇を反面教師として、「おれはああはならないぞ」と思ったところも見えてくるようだ。もちろん、この二人が日本の歴史に残した足跡は大きい。天智天皇は大化の改新を推進し、公地公民制を敷き、租・庸・調(そようちょう)といった税制改革を行い、死の直前には「近江令(おうみりょう)」という日本最古の律令法典を施行したと伝えられる。
大海人皇子は不評だった大津宮から飛鳥浄御原宮(あすかみよみはらのみや)に遷都し、基本的には兄の政治路線を引き継いで、氏姓制度を改編したり、新たに法令を定める大事業にとりかかった。しかし存命中は大臣を一人もおかず、皇族を要職につけ、自ら政務を行った。身分は高くなくても優秀な人間を役職に就けたり、出仕を認めたようである。壬申の乱の時、男依ら舎人たちの働きに助けられた経験が生きていたのかもしれない。『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたのも天武天皇とされる。
日本における律令国家の制定は天智天皇に始まり、天武天皇、持統天皇らを経て完成・実施された。男依らの活躍は時代を動かしたのである。
【取材・写真、資料提供】
各務原市
「各務原市教育委員会」
「不破の関資料館-関ケ原町歴史民俗学習館」
「関ケ原町歴史民俗学習館」と同館長・飯沼飯沼暢康さん
【参考文献】
『各務原市史 通史編』昭和61年12月発刊
『かかみ野の風土 産業と人物』平成16年3月発刊
『壬申の乱』遠山美都男著 中公新書
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