誰かと一緒に人生を歩むという決断には、少なからぬ覚悟が伴うものです。相手をどんなに愛していても、いいときも悪いときも寄り添うのは、簡単なことではありません。
さらには、その決断を見守る両親にも、別の意味での覚悟が求められます。子供が結婚すると聞けば嬉しい半面、ふと寂しい気持ちに襲われることもあるでしょう。結婚の知らせは親にとって、子離れのときを知らせる合図でもあるからです。
人生の節目に、様々な思いを抱え、それぞれの覚悟を迫られている人にこそ、この「花嫁のれん」を見ていただきたいと思います。なぜならこれは、「覚悟ののれん」と呼ばれているからです。その理由を、石川県七尾市で探ってきました。
花嫁のれんのはじまりは?
花嫁のれんの風習は、江戸時代の末期から明治時代の初期に、加賀藩前田家の領地(能登・加賀・越中)で始まったと言われています。花嫁の両親は、加賀染や加賀友禅の豪華なのれんを作り、花嫁道具として娘に持たせました。
大正から昭和初期頃の花嫁のれん。上部には花嫁の実家の家紋が入り、左から「くす玉」「竹と芙蓉」「宝船」が描かれています。
一度しか使わないのれんに贅を尽くした理由
のれんの柄には、言葉で伝えきれない親の思いが込められています。松竹梅や鶴亀で祝福の気持ちを表したもの、故郷を忘れないようにとその景色を描いたもの、夫婦円満の象徴であるおしどりを描いたもの。花嫁のれんは1枚として同じものはないと言われており、家紋や色の出し方が異なります。
贅を尽くし、思いを込めて作ったのれんですが、使われるのはたった一度きり。結婚式当日、婚家の仏間にかけたのれんを花嫁がくぐるとき、花嫁の両親がその場に立ち会うことはありませんでした。「どうかその瞬間を晴れやかに迎えられますように。娘がこの先ずっと幸せでありますように」そう願いを込めてのれんを準備する時間は、親にとって子離れの覚悟を決めるのに必要な時間だったのかもしれません。
「のれん=結界」をくぐるという覚悟
とりわけ能登の地域一帯は信仰心に厚く、仏壇を大切にする習慣が、花嫁のれんの風習に繋がったと考えられています。
一方の花嫁にとっては、のれんをくぐる瞬間こそが、覚悟の見せどころでした。その理由には、のれん本来の役割が関係しています。「のれんを守る」という言葉にある通り、実家の紋が入ったのれんは、家の伝統と誇りの象徴です。それと同時に、のれんは空間を仕切るものとして、生活空間と神聖な場所を分ける役割を果たしてきました。
花嫁のれんとは結界、すなわち聖なる場所と俗なる場所とを分ける境目なのです。清浄な仏間と居間の境は、同時に実家と嫁ぎ先の境でもあります。
さて、いざそののれんをくぐる花嫁は、いったいどんな気持ちだったのでしょう。当時の花嫁になりきって体験できる場所があるということで、石川県七尾市にある「花嫁のれん館」にお邪魔しました。
花嫁のれんを体験しました!
花婿の家の玄関から仏間までを再現した花嫁のれん館では、実際に花嫁衣装を着てのれんくぐりを体験することができます。当時をよく知るガイドの瀬川真知子さんに、一連の流れを詳しく教えていただきました。
花嫁の覚悟、その1。婚家に到着した花嫁は、実家の水と婚家の水を合わせた「合わせ水の儀」を行います。この時に使う盃は、仲人さんが土間に投げつけて割るのがしきたり。生まれた家に花嫁が戻らないようにとのことですが…。私ならこの時点で心細すぎて、すぐにでも帰りたくなってしまいそうです。
花嫁の覚悟、その2。正式にはのれんをくぐる前に一旦控えの間に入り、白無垢に着替えて「婚家の家風に染まります」という意志を表明するのだそう。多くの花嫁は、この場で初めて両親が贈ってくれた花嫁のれんを目にしたといいます。緊張で頭が真っ白で、柄を丹念に眺める余裕なんてなかっただろうな…。
花嫁の覚悟、その3。いざ、のれんくぐり。踏み出した足をちょっと戻そうとしたところ、「戻っちゃだめなのよ!」とご指摘が。そうか、くぐったら二度と後戻りはできないのか、とハッとさせられました。花嫁のれんが「覚悟ののれん」と呼ばれるのは、こういうわけなのですね。
受け継がれる花嫁のれんの風習
最後にひとつ、最近作られたある特別な花嫁のれんを見せていただきました。訪ねたのは、花嫁のれん館の近くにある鳥居醤油店。店の3代目である鳥居正子さんが、娘さんに作ったのれんです。
何か思い出のものを使って欲しいという娘さんのリクエストに応え、正子さんはのれんの生地に母から受け継いだ反物を使いました。見事なのし柄は、一見すると絵に見えますが、実は別の生地を貼ったもの。娘さんが幼い頃に着ていた着物の一部を使用しています。
「お金を出せば今はどんなものでも作れるけれど、そういうことじゃないのよね。思い出のものでのれんを作って欲しいと言ってくれた娘の気持ちが、私はすごく嬉しかったの。のれんに使った反物の残りは、孫の着物に仕立てたのよ」そう言ってほほえむ正子さんを見て、花嫁のれんは覚悟ののれんであると同時に、親子の絆の象徴なのだと感じました。
鳥居醤油店のように、一本杉通りには「語り部処」と呼ばれる商店が点在しています。お店の女将さんやおばあちゃんが、その土地の歴史や婚礼の風習について、実体験を交えて教えてくれます。
親から子へ、のれんに託して想いを繋ぐ町・七尾。鮮やかな柄に秘められた物語りを聞きに、みなさんもぜひ足を運んでみてください。
花嫁のれん館
商家・民家の屋内に百数十枚もの花嫁のれんが展示される「花嫁のれん展」も、毎年春に開催されています。
会期 2019年 4月29日〜5月13日
(毎年同じ時期に開催/但し最終日は母の日まで)
会場 石川県七尾市一本杉通り
文・撮影/水鳥るみ