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秋の人のよりし柱にとがめあり梅にことかるきぬぎぬの歌(与謝野晶子)

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Culture
2022.10.30

松戸駅前は戦国の古戦場だった? 関東最強を目指した足利義明と「第一次国府台合戦」

この記事を書いた人

「経世塚(けいせいづか)」
そう呼ばれる小さな塚が松戸駅前にあることを、ご存じでしょうか。

都心から20km圏内。千葉県北西部に位置する松戸市は、東京都、埼玉県に隣接し、千葉県内で千葉市、船橋市に次いで人口の多い街です。市内には6本の鉄道が走り、市の中央部を国道6号が縦断する交通の要所でもあります。中心駅の一つが、松戸駅。JR東日本と新京成(しんけいせい)線が乗り入れ、駅周辺には大型商業施設が建ち並び、国や県の出先機関も複数置かれています。

そんな松戸駅の東口を出ると、すぐ先に台地が迫ります(大型商業施設の陰に隠れてわかりにくいですが)。その台地上に建つのが聖徳(せいとく)大学で、面白いことに大学キャンパスに向かうには、商業施設内のエスカレーターで5Fまで上がり、5Fの出入り口からほど近い校門をくぐるのが最速ルートなのだとか。くだんの「経世塚」は、校門を入って左側塀沿いの、大学構内にあります。

ダンジョンみたいでおもしろいですね


聖徳大学構内の「経世塚」

土饅頭の上に板碑(いたび)や石が載る2つの塚は、もとは「軽盛塚」と称したともいいます。隣に建つ「相模台(さがみだい)戦跡」の石碑が示すように、塚は合戦の戦死者を弔うものでした。そう、松戸駅前の台地は、かつて相模台城と呼ばれた城跡で、戦国時代の古戦場なのです。しかも戦いは「第一次国府台(こうのだい)合戦」と呼ばれる、戦国関東の合戦の中でも屈指の大合戦で、そのキーマンが足利義明(あしかがよしあき)でした。関東武士の頂点に立つことを目指した、「小弓公方(おゆみくぼう)」です。はたして小弓公方足利義明とはどんな人物で、松戸駅前で戦われた第一次国府台合戦とはどのようなものだったのか、時計の針を巻き戻してみましょう。

関東繚乱

関東の戦国時代の幕開け

源頼朝が「鎌倉殿」と呼ばれ、御家人を束ねる存在となって以来、相模(さがみ、現、神奈川県)の鎌倉は関東武士にとって精神的な拠り所となりました。それは鎌倉幕府が滅び、足利尊氏(たかうじ)によって京都に室町幕府が開かれた後も変わらず、鎌倉には「鎌倉府」が置かれ、長官である鎌倉公方(鎌倉殿と呼ばれました)が関東10ヵ国を治めたのです。初代鎌倉公方は、尊氏の4男基氏(もとうじ)で、以後、その家系が世襲しました。また鎌倉公方の補佐役が関東管領(かんとうかんれい)で、代々上杉(うえすぎ)氏が務めています。

しかし関東武士を掌握する鎌倉公方は、次第に京都の将軍に対抗意識を抱きます。補佐役の関東管領上杉氏が、幕府の意も受けて鎌倉公方を諫(いさ)めますが、両者は対立を深めていきました。そして享徳(きょうとく)3年(1454)、第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)は関東管領上杉憲忠(のりただ)を討ち、鎌倉公方vs.関東管領(&室町幕府)の戦いが勃発します。享徳の乱でした。

この戦いは、関東の武士団を2分するものとなります。足利成氏は拠点を鎌倉から下総(しもうさ)古河(こが、現、茨城県古河市)に移し、「古河公方」と称して、現在の栃木、茨城、千葉の諸勢力の支持を得ました。一方、上杉氏は現在の神奈川、東京、埼玉、群馬の諸勢力をバックに対抗。両者は旧利根川を挟んで対峙し、戦いはおよそ30年も続くのです。関東の戦国時代の幕開けでした。

享徳の乱

享徳の乱の最中、関東管領山内(やまのうち)上杉家の重臣・長尾景春(ながおかげはる)が主家に叛(そむ)き、敵方の古河公方と手を結んだことで、混乱に拍車がかかります。諸勢力が入り乱れる中、鎮圧にあたったのが、上杉氏の一族・扇谷(おうぎがやつ)上杉家の重臣太田道灌(おおたどうかん)でした。道灌の活躍もあって長尾景春は敗れ、古河公方と関東管領上杉氏は文明(ぶんめい)14年(1483)にようやく和睦に至ります。京都では6年前に「応仁(おうにん)の乱」が終結していましたが、関東の享徳の乱は応仁の乱より13年も前に始まり、応仁の乱後もなお続いていたのです。しかし関東の争乱は、まだまだ収まりませんでした。

古河公方の2男

享徳の乱後、長尾景春の反乱の影響で関東管領山内上杉家は威勢を失い、一方で同族の扇谷上杉家は、太田道灌の活躍で勢力を拡大、山内上杉家と肩を並べるほどの存在となります。脅威を感じた山内上杉家は、「太田道灌の声望は、上杉一族にとって危険である」と扇谷上杉家の当主・定正(さだまさ)に吹き込み、疑心暗鬼となった定正は、道灌を館に招いて暗殺してしまいました。名将太田道灌の謀殺が関東武士たちに衝撃を与える中、巻き返しを図る山内上杉家は扇谷上杉家と衝突、長享(ちょうきょう)の乱と呼ばれる上杉家同族の争いとなります。戦いは長享元年(1487)より永正2年(1505)まで18年も続いた末、和睦。両上杉家ともに疲弊することになりました。

そして山内、扇谷両上杉家が争っていた長享年間(1487~89)、第2代古河公方足利政氏(まさうじ)に2男が誕生します。幼名「愛松王丸(あいまつおうまる)」というこの人物こそ、本記事の主人公というべき、のちの足利義明(よしあき)でした。すでに古河公方の跡継ぎとなるべき兄・高基(たかもと)がいるため、愛松王丸は幼くして鎌倉鶴岡八幡宮別当(べっとう)の養子となり、15歳頃に出家して空然(こうねん)と称したといいます。またその際、鶴岡八幡宮別当の地位を継承しました。

春の鶴岡八幡宮参道

ちなみに当時の鶴岡八幡宮は神仏混淆(こんこう)の宗教施設で、別当とは最高責任者のことです。鶴岡八幡宮が鎌倉の雪ノ下(ゆきのした)に所在することから、別当は「雪ノ下殿」とも呼ばれました。とはいえ、本来は鎌倉に君臨する公方が古河にいるため、「雪ノ下殿」も鎌倉ではなく、下総国下河辺庄(しもこうべのしょう)高柳(現、埼玉県久喜市)を拠点とし、古河公方領内の寺社への宗教的支配を行いました。つまり空然は、鎌倉に足を踏み入れたことのない「雪ノ下殿」だったのです。

みんなも友達のあだ名を「住んでいる場所+殿」で考えてみよう!

小弓公方の誕生

雪ノ下殿の企み

上杉家内部の長享の乱がようやく終息した直後の永正(えいしょう)3年(1506)、今度は古河公方家に内紛が起こります。「永正の乱」と呼ばれる、2代古河公方足利政氏と、その長男高基の対立でした。関東管領山内上杉顕定(あきさだ)は両者の仲裁に動き、永正6年(1509)、古河公方家の「両上様」はいったん和解します。ところが翌永正7年(1510)、思わぬ事態が起こりました。

「雪下殿御造意(ごぞうい)」(『上杉顕定書状』)

造意とは、「悪い企(たくら)み」を指す言葉です。雪ノ下殿こと空然が突如、反逆を企(くわだ)てて、挙兵したのでした。またその前後に、古河公方家の父子の抗争も再燃し、さらに時を同じくして、前年に父子を仲裁した上杉顕定が合戦で討死します。すると関東管領山内上杉家内部でも家督争いが生じ、それぞれの陣営が古河公方の政氏、息子の高基を支持したため、古河公方家の抗争も一段と激しさを増しました。そして挙兵した空然は、兄・高基に与(くみ)して父・政氏と対立します。

古河公方と関東管領の内紛

公方の正統な後継者

その後、高基は岳父(正室の父)で下野(しもつけ、現、栃木県)の雄・宇都宮成綱(うつのみやしげつな)らの支援を得て、父・政氏に勝利。永正9年(1512)に第3代古河公方となります。また高基に味方した山内上杉憲房(のりふさ)が、新たな関東管領となりました。一方、空然は還俗(げんぞく)し、足利義明と名乗ります。勝ち組である高基陣営の一員となった義明でしたが、4年後の永正13年(1516)、なんと高基に追われて古河から扇谷上杉氏の岩付(いわつき)城(さいたま市)に移っていた父・政氏と結んで、高基に反旗を翻しました。「公方の正統な後継者は自分である」と、父とともに関東の諸勢力にアピールしたのです。

古河公方となった高基にすれば、弟・義明の手のひら返しが許せるはずがありません。しかし高基と義明の正嫡(せいちゃく)争いを、好都合とする勢力も少なからず存在しました。一つは、弱体化した上杉氏の相模で勢力を広げ、海を渡って上総(かずさ、現、千葉県中部)への進出を窺う伊勢(いせ)氏。当主の宗瑞(そうずい)は、のちに北条早雲(ほうじょうそううん)の名で、小田原北条氏の祖とされる人物です。もう一つは上総真里谷(まりやつ)城(千葉県木更津市)から勢力拡大を図る、真里谷氏。真里谷氏はもともと甲斐(かい、現、山梨県)の武田(たけだ)氏の同族で、真里谷武田氏とも呼ばれます。当主は真里谷恕鑑(じょかん)。上総国内で千葉氏、その重臣の原(はら)氏らの勢力と争っていました。千葉氏や原氏が古河公方高基を支持したため、真里谷恕鑑は義明に与します。また義明の父・政氏を支持していた扇谷上杉氏も、義明に味方しました。

足利義明の独立

2人の公方が並立

永正13年11月、相模より伊勢宗瑞が上総二宮庄(現、千葉県茂原市)に進出、同地を領する古河公方高基方の三上佐々木氏を攻めます。また宗瑞は真里谷恕鑑に協力し、翌永正14年(1517)10月13日、真里谷勢を宗瑞の手勢が支援するかたちで、三上佐々木氏の真名(まんな)城(茂原市)を攻め落とし、宗瑞は二宮庄を手にしました。さらに2日後の10月15日には、国境を越えた下総の原氏の居城小弓城(千葉市)を攻略。こうして上総周辺の高基方を駆逐した真里谷恕鑑は、高基と対立する足利義明を新たな公方として戴(いただ)くべく、上総へ招くのです。

真里谷恕鑑の要請に応え、足利義明が下総国下河辺庄高柳を発ったのは、永正15年(1518)7月頃のことでした。高柳から太日(ふとい)川(現、江戸川)水系を船で下った義明は、まず上総の市原庄八幡(やわた)郷(現、市原市八幡)を座所にした、ともいわれます。この地は古来足利氏の所領であり、周辺には義明を支える足利家臣らの所領も多かったことが理由でした。

しかし義明の動きに、古河公方高基もすぐに反応します。翌永正16年(1519)、高基は水軍を仕立て、真里谷恕鑑の真里谷城の北西約15kmに位置する、姉崎湊(あねさきみなと)の椎津(しいづ)城(市原市)に攻め寄せました。義明・真里谷勢は高基勢を退けますが、今後、戦いが激化することが予想されたため、義明の居所を市原庄八幡郷から、より守りの固い下総小弓城に移すことにします。そして小弓城に入った足利義明は以後、「小弓公方」を称しました。戦国の下総に、古河公方と小弓公方という2人の公方が並び立つことになったのです。 時に義明、32歳頃のことでした。

お話はまだまだ続きます


下総小弓城と上総の諸城(国土地理院地図を加工)

小弓公方の攻勢

乱世の申し子

義明が小弓城を御所と定めるのに合わせ、上総から下総にかけての高基方勢力を一掃すべく、安房(あわ、千葉県南部)から出陣したのが里見義通(さとみよしみち)でした。義通の里見勢は、高基方の武田宗信(たけだむねのぶ)の上総長南(ちょうなん)城(長生〈ちょうせい〉郡長南町)と、小田喜(おだき)城(夷隅〈いすみ〉郡大多喜町)を連絡する諸城をことごとく潰し、下総の和良比堀込(わらびほりごめ)城(四街道市)にまで進出。義明はこの戦果を大いに喜び、さらに高基の重臣梁田(やなだ)氏の下総関宿(せきやど)城(野田市)を攻めるよう命じています。以後、安房里見氏は、上総の真里谷氏と並んで、義明を支える重要な柱となりました。

足利義明像(部分、『成田参詣記 巻一』〈国文学研究資料館所蔵〉より)

ところで、足利義明とはどんな人物だったのでしょうか。義明の人となりを伝える史料は少なく、また敵対した北条氏サイドの史料に記された義明像は、北条氏を正当化するため、意図的にゆがめられている可能性があります。そうしたフィルターを外し、彼の行動を客観的に眺めると、非常に「覇気」に富んだ人物であったといえそうです。宗教者の身から父と兄の争いを巧みについて頭角をあらわし、古河公方の兄に対抗して新たな公方を称するなど、一筋縄ではいかぬしたたかさを感じさせます。また、義明を支持する者たちの存在も見逃せません。新たな公方を求めた真里谷、里見らの勢力だけでなく、それまで古河公方家に属していた少なからぬ足利直臣たちも、義明に従いました。弟の足利基頼(もとより)も、長兄の高基でなく、次兄の義明の下に家臣を率いて駆けつけています。「公方としてあおぐに足る器」という共通認識を、彼らは抱いていたのでしょう。従来の秩序が崩れかけたところに突如現れた、いわば「乱世の申し子」が足利義明だったのかもしれません。

北小弓城と南小弓城

足利義明が小弓公方の御所と定めた小弓城(千葉市中央区生実〈おゆみ〉町)について、簡単に紹介しておきましょう。上総との国境に近い下総南端に位置する城で、北小弓城、生実城とも記されます。もともと下総守護千葉氏の筆頭重臣原氏の居城でしたが、上総の真里谷氏が攻略し、足利義明を迎え入れました。城は舌状(ぜつじょう)台地の先端部に築かれており、東西約550m、南北約650m。現在、城跡の東端に「北小弓城大手口跡」の碑が建ち、また西端には蘇我(そが)池、生実池が広がって、かつて天然の堀であったことを伝えます。主郭は城域の北西部にあたり、現在は「本城(ほんじょう)公園」という何の変哲もない公園になっていますが、足利義明の御所はこの付近にあったと考えられています。城の遺構は、大手口に近い生実神社の境内に空堀と土塁が残るのみ。なお江戸時代に城跡は、生実藩森川(もりかわ)家の陣屋となりました。

「古城跡森川内膳正陣屋之絵図」。かつての北小弓城の様子がよくわかる

ところで小弓城が北小弓城とも呼ばれるのは、すぐ南(南東約1.3km)にもう一つの小弓城(南小弓城)が存在するからです。かつては足利義明が御所としたのは南小弓城だといわれ、主郭にはその説明板がいまもありますが、近年の研究で北小弓城が有力視されるようになりました。なお北小弓城の西北には北方監視用の砦(とりで)である柏崎(かしわざき)砦、また北小弓城と南小弓城の中間には長山(ながやま)砦も存在し、これら2つの城、2つの砦全体で「小弓城」として機能していたとも考えられています。義明は下総南端の小弓城から、下総北西端の古河をにらんでいました。

柏崎砦、北小弓城、長山砦、南小弓城の位置関係(国土地理院地図を加工)

古河方に攻めかかる小弓方

その後、古河公方・関東管領山内上杉氏に与する勢力と、小弓公方・扇谷上杉氏に味方する勢力は下総だけでなく、上総や常陸(ひたち、現、茨城県北部・東部)、武蔵(むさし、現、東京都、埼玉県)などを舞台に争うことになります。永正18年(1521、大永元)には、義明を支える安房の里見義通が西下総に進攻し、古河方の高城(たかぎ)氏を破って名都借(なづかり)城(流山市)、行人台(ぎょうにんだい)城(松戸市)を攻略。行人台の戦いには義明も自ら出陣し、勝利したといわれます。

名都借城を最前線基地とした義明ら小弓方は、下総北方の、古河公方高基の重臣である梁田氏の関宿城、及び古河御所(古河城)へ強い圧力をかけることになりました。小弓方はさらに上総小西城(大網白里市)、下総深井城(流山市)にも攻めかかります。この勢いのまま推移すれば、小弓方が古河方を下総から追い落とす事態も起こり得たのかもしれません。しかし、思わぬところから局面は変わることになります。

ごくり……。


小弓城、小西城、行人台城、名都借城、深井城、関宿城、古河城位置関係(国土地理院地図を加工)

家督争いがもたらしたもの

運命の手切れ

「北条と手を切ってほしい」

小弓公方足利義明を支える上総の真里谷恕鑑に対し、扇谷上杉朝興(ともおき)がそう要請してきたのは、大永5年(1525)のことでした。北条とは、伊勢宗瑞の息子北条氏綱(うじつな)のこと。かつて上総で、真里谷恕鑑と共闘した伊勢宗瑞は6年前に他界し、家督を継いだ2代氏綱は、姓を伊勢から北条に改めていました。北条氏といえば鎌倉幕府執権(しっけん)として、関東武士にはなじみのある響きです。もちろん伊勢氏は鎌倉北条氏と血縁はありませんが、扇谷上杉氏の地盤である相模を奪ったことで、相模国主として自らを正当化するために、北条氏を称したといわれます。

北条氏綱

相模を押さえた北条氏綱は大永4年(1524)、さらに扇谷上杉氏の拠る武蔵へと駒を進めました。扇谷上杉朝興は、長年対立を続けた関東管領山内上杉憲房と和睦し、対抗しようとします。しかし北条の動きは早く、扇谷上杉氏の重要拠点であった江戸城を攻略。さらに岩付城、蕨(わらび)城(蕨市)、毛呂(もろ)城(埼玉県毛呂山町)、石戸(いしど)城(北本市)など扇谷上杉方の城を次々と落としたため、上杉朝興は河越(かわごえ)城(川越市)へと後退することになりました。「北条と手を切ってほしい」という扇谷上杉氏からの要請は、切実なものであったのです。

上総の真里谷恕鑑は、朝興の要請に応じて北条氏との手切れを決断。これに安房の里見義豊(よしとよ、義通の息子で家督を継承)、さらに小弓公方足利義明も歩調を合わせました。房総の諸勢力にとっても、北条氏の江戸城奪取は、周辺の制海権及び河川交通を北条氏に占有されることを意味し、脅威であったからです。しかしこれが、足利義明の運命にも大きく影響していくのでした。

里見氏の「天文の内訌」

それにしてもこの時代、家中を2分する争いが全国的に見られます。家督継承の秩序の乱れから、家中の実権を握ろうと兄弟親族が争いました。小弓公方足利義明と、兄の古河公方高基との争いも、その典型例といえるでしょう。結果、もたらされるものは家の弱体化です。一つの家が分裂するのですから当然で、公方家も分裂していなければ、あるいはその後の関東の情勢も変わっていたのかもしれません。そして安房の里見家でも、大きな内乱が起こります。

里見義豊が父・義通から家督を継ぎ、稲村(いなむら)城(館山市)の主となると、北条氏と手を切りました。すると北条氏は、義通の弟で、義豊の叔父にあたる実堯(さねたか)に接近します。実堯は当主に次ぐ実力者で、その側近の正木通綱(まさきみちつな)は里見水軍を掌握していました。両者の動きは義豊にとって、当主の座を脅かすものとなります。危機感を抱いた義豊は足利義明の承諾を得て、天文(てんぶん)2年(1533)7月、正木通綱と里見実堯を城に呼んで、誅殺しました。

里見家関係図

これに対し、里見実堯の息子・義堯は北条氏綱に支援を求め、北条の援軍を得て義豊に逆襲を仕掛けます。敗れた義豊は安房から追われ、上総の真里谷恕鑑のもとへ逃れました。主君である義豊を追放した義堯は、北条氏の力を借りて安房の守護となり、里見家の新当主を称します。一方、真里谷恕鑑の支援を得た義豊は、翌天文3年(1534)4月、軍勢を調えて安房に攻め込み、義堯勢と犬懸(いぬかけ、南房総市)付近で衝突しますが、義豊は敗死。この里見氏の内乱は「天文の内訌(ないこう)」と呼ばれますが、当主が義豊から義堯に代わったことで、里見氏は北条方となりました。足利義明にすれば痛恨の出来事であり、さらに上総の真里谷氏にも大きな火種をもたらします。

真里谷氏の「上総錯乱」

里見義豊が討死した犬懸の戦いから2ヵ月後、義豊を支援し、足利義明が信頼した上総の真里谷恕鑑が病没。恕鑑には、2人の息子がいました。嫡男の信応(のぶまさ)と、妾腹の信隆(のぶたか)です。後継者は嫡男信応が有力視され、足利義明もそれを認めていましたが、里見氏の内乱に乗じて信隆を擁(よう)する者たちが決起し、真里谷氏を2分する対立となりました。小弓公方の支持基盤である安房の里見氏、上総の真里谷氏の内乱は、足利義明の足元を揺るがすことを意味します。義明は真里谷信応とともに出陣し、信隆方が拠る椎津城を攻略しました。信隆らは、上総の峯上(みねがみ)城、百首(ひゃくしゅ)城(別名:造海〈つくろうみ〉城、以上、富津市)に逃げ込みます。

足利義明配下の内乱をついて、天文4年(1535)6月、古河方の原基胤(もとたね)が小弓城を奪還しようと小弓御所に攻め寄せますが、動じずに迎え撃った足利義明勢に討ち取られました。義明は戦場で敵に後れをとったことがなく、指揮官としても優れていたことが窺えます。同年10月、19年間にわたり義明と公方の正統を争った兄・高基が病没。息子の晴氏(はるうじ)が跡を継ぎ、第4代古河公方となりました。当時21歳の晴氏は父の路線を継承して、義明と争う構えを見せます。

真里谷城と天神台城、峯上城、百首城位置関係(国土地理院地図を加工)

天文6年(1537)4月、足利義明を支え、西からの北条氏綱の侵攻と戦い続けた扇谷上杉朝興が河越城で病没。これにより、義明が小弓公方となった時点での里見氏、真里谷氏、扇谷上杉氏の当主は、すべて世を去りました。好機と見て、真里谷信隆は再び決起し、真里谷本城に近い、北西の天神台(てんじんだい)城(木更津市)に入ります。信隆勢は峯上城、百首城、天神台城より真里谷城を圧迫、さらに彼らは北条氏綱と通じ、その援軍を待ちました。これに対し、足利義明が峯上城に攻め寄せる一方、北条氏と連携していた安房の里見義堯は北条と手を切り、百首城を攻めます。信隆は天神台城で孤立し、真里谷城からの攻撃を受ける羽目に陥りました。北条氏綱は3城に救援の兵力を送るものの形勢は変わらず、結局、義明と北条氏綱が和睦して北条は兵を退き、真里谷信隆は北条領へと去ったのです。一連の騒ぎを「上総錯乱」と呼びますが、内乱によって真里谷氏の力は削(そ)がれました。一方、上総での勢力拡大に失敗し、さらに安房の里見氏の離反を招いた北条氏綱はその直後、扇谷上杉氏の拠点・河越城を落とし、扇谷上杉朝興の跡を継いだ朝定(ともさだ)を武蔵松山城(比企郡吉見町)へと後退させました。扇谷上杉氏の支援を得ることが、もはや困難になった足利義明の目には、北条氏の存在が日に日に大きく映ることになるのです。

「錯乱」とはまた過激な名前。

決戦前夜

古河公方の早期打倒を

上総の真里谷氏の勢力が衰え、安房の里見実堯は北条から離反したものの、足利義明とは「天文の内訌」で間接的に敵対したしこりが残っていました。こうした中で、小弓公方は西から迫る北条氏にどう対処すべきなのか。これまでの経緯から、北条と手を結ぶという選択肢は義明にはありません。真里谷氏、里見氏らの支持を失うことになるからです。となると、北条に対抗するためには、古河公方と手を結ぶか、もしくは古河公方を倒して公方家を小弓公方一つにまとめ、古河公方の支持勢力も配下に吸収するしかありません。正統をめぐって20年間も争ってきた古河公方と今さら和解できるはずもなく、義明の戦略は必然的に 「古河公方の早期打倒」に絞られることになります。

折も折、天文7年(1538)2月、江戸城の東、下総で孤軍奮闘していた扇谷上杉氏の葛西(かさい)城(東京都葛飾区)を北条氏綱が攻略。北条の勢力は、ついに下総へと伸びてきました。これが直接の引き金となり、同月、義明は奉行人筆頭の逸見山城守祥仙(へんみやましろのかみしょうせん)に先発隊を率いさせて、西下総の太日(ふとい)川(現、江戸川)に面する国府台城(市川市)に入れました。また別の部隊を、さらに北方の相模台城(松戸市)に配置。これらは、西から迫る北条への備えというよりも、北方の古河公方を攻めるための準備であったといわれます。なお、相模台城のすぐ南には松戸城(松戸市)が存在しますが、小弓方の兵が入った記録はありません。北方への進攻のため、重要視されなかったのかもしれませんが、これがのちの戦局に大きく影響します。

葛西城跡にある復元イメージ図

「近代無双の名大将」

一方、小弓方の動きに古河公方晴氏も即座に反応しました。当時、31歳の晴氏は実戦経験に乏しく、歴戦の叔父・義明の進攻は脅威だったでしょう。晴氏は、その後の古河公方家の運命を左右する選択をします。北条氏綱への援軍要請でした。氏綱にすれば、古河公方の命令に従って足利義明を討つという、大義名分を得たことになります。一方、義明は、古河公方と北条の連携は避けたいところだったでしょうが、ある程度覚悟はしていたのかもしれません。また「上総錯乱」の際、義明は北条氏綱を退けた経験もあります。正面の敵が北条だとしても、後に引く気はなかったのでしょう。

なお同年9月頃まで、小弓公方、古河公方、北条氏綱間で和平に向けての交渉も行われたようですが、結局実を結ばず。軍記物の『相州兵乱記』には次のように記されています。

「古河殿より氏綱を内々御頼りありて、小弓殿退治あるべきとなり。氏綱も義明の威勢強ければ、吾が為までも悪しかりなんと兼ねて思はれければ、すなわち御請けを申され、分国の勢(軍勢)を合わせ、小弓へ発向の用意ありしところに、八州諸家傾き(こぞって)申しけるは、『義明と申すは近代無双の名大将にて、公方の御跡をも継ぎたまふべき人なれば、御退治はいかがあらん。ただ和平になされて末々(ゆくゆく)は御所に取り立て、鎌倉に据え申されるよう』詫びけれども、氏綱ついに用い給わず」(※仮名づかい等は改めました)

関東の多くの将が、義明は鎌倉公方となるべき器であり、戦うのを思いとどまるよう氏綱を諫めますが、氏綱は聞く耳を持たなかったというのです。関東の覇権を握ろうとする氏綱にすれば、おそらく鎌倉公方、関東管領などの旧権威に対し、敬い従う気などはさらさらなく、自分の行動の正当化に利用できればそれでよい、という程度の存在価値だったのでしょう。

ROCKなソウルの持ち主でいらっしゃたんですね

国府台合戦

国府台城

古河公方晴氏が、北条氏綱に小弓公方追討の御内書を発したことを知った義明は、9月末、小弓城を出陣、西下総の国府台城へ向かいます。嫡男の義純(よしずみ)、弟の基頼をそれぞれ一方の大将とし、義明自ら総大将を務めました。副将は安房の里見義堯。里見勢は小弓公方軍の主力ですが、義明と間接的に対立した「天文の内訌」のしこりもあり、義堯の戦意は高くありません。また上総の真里谷信応勢は「上総錯乱」から回復できておらず、往年の勢いからはほど遠いものでした。小弓公方軍の総勢は、2,000余りとも(『小弓御所様御討死軍物語』)。一方、足利義明の出陣を受け、北条氏綱は10月2日、息子氏康(うじやす)とともに小田原城を進発、5日に江戸城に入ります。その数、およそ5,000。6日には最前線の葛西城に兵を進め、軍旗を掲げました。太日川岸の国府台城からは目と鼻の先で、国府台城を本陣とした義明も北条軍を確認していたはずです。

国府台城(国土地理院地図を加工)

国府台城は、太日川沿いの河岸段丘に築かれた城でした。当時は川が城の西側の断崖を洗い、東側は湿地帯で、川と湿地帯に突き出した半島のような舌状台地です。文明10年(1478)12月、下総境根原(さかいねはら)の合戦(千葉県柏市)の際に、名将太田道灌がこの地に陣を布き、陣城(臨時の城)を構えたことが国府台城の始まりだったとも。翌文明11年(1479)に本格的に築城されたといわれますが、城主など詳しいことは伝わっていません。城の北方にからめきの瀬(現在の矢切の渡し付近)と呼ばれる浅瀬があり、対岸から国府台城に攻め寄せるにはこれが最短ルートですが、攻めにくい城であったでしょう。それを知ってか北条氏綱は、6日夜、葛西城から軍勢を北方へと迂回させます。 北条軍が渡河点に選んだのは、松戸城の対岸でした。その知らせに義明は、本陣である国府台城を出て、松戸城北方の相模台城と連携し、敵を迎え撃つことにするのです。

決戦

国府台城から、北条軍が目指す松戸城までは3km弱の至近距離。この時、松戸城に小弓公方の兵が入っていなかったのは、北条に味方する勢力(地元の高城氏など)がすでに城を占拠していたためでしょう。足利義明が松戸城近くに到着した正確な時刻はわかりませんが、7日の朝、おそらく北条軍が川を渡り始めていた頃だったと思われます。この時、北条の動きを見張っていた相模台城の先陣より「北条勢は大軍なので、敵が渡河中に攻撃をしかけ、追い落としましょう」と進言するのを、義明は「軍勢の多寡(たか)など問題ではない。敵に川を渡らせ、引きつけて大将の氏綱を討ち取る」と却下して、周囲を落胆させたと『小田原北条記』『国府臺戦記』などの軍記物が記します。これは義明を「猪武者」として描こうとする北条方の曲筆で、事実ではないでしょう。義明は実戦経験が豊富で、戦機にも敏感でした。むしろ川から上がって来る北条軍先陣に矢を射かけ、先制攻撃をしかけたはずです。序盤は小弓公方軍が優勢だったといわれるのは、このためでした。

国府台城、松戸城、相模台城位置関係(国土地理院地図を加工)

しかし義明にとって誤算だったのは、この期に及んでも消極的な里見義堯の態度で、主力を率いながら最前線に立とうとしません。やむなく義明の馬廻(うままわり)など、投入できる手勢で北条軍を激しく攻めますが、数で優る敵は次々と上陸して勢いを増し、逆に味方の疲労は募っていきます。戦いは「巳の刻より申の刻(午前9時頃~午後4時頃)」まで続いたといわれ、敵味方が多数の死傷者を出す乱戦となりました。やがて義明が一方の大将に任じた弟基頼が、さらに嫡男の義純も敵に取り囲まれて討死します。すでに小弓公方軍の敗勢は、明らかでした。

義明の最期

「もはや御味方に勝ち目はございませぬ。どうか公方様は一旦退き、再起をお図りくださいますよう」

奉行人筆頭の逸見山城守が絞り出すような声で懇願すると、義明は眼に闘志を宿しながらも、落ち着いた声で応えます。

「山城。北条ごときに討たれるのは口惜しいが、小弓公方もこれまでのようだな。ついに鎌倉には行けなんだが、面白かったぞ。今生のなごりに公方の手並み、相模の者どもに見せてやろうぞ」

『小田原北条記』によると、この日の義明のいでたちは、赤地錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどしの鎧をまとい、来国行(らいくにゆき)の名刀「面影」と先祖伝来の太刀2振りを腰に佩(は)き、手には大薙刀(なぎなた)「法城寺」を短めに握り、赤い房をかけた奥州産の名馬「鬼月毛」にまたがっていました。義明は逸見山城守に向かって笑みを浮かべると、馬腹を蹴って敵勢に向かいます。これに義明の馬廻24騎が続きました。

『北条九代記鴻之台合戦』(船橋西図書館蔵)

義明の戦いぶりは凄まじかったと、『小田原北条記』にあります。斬り込んできた義明に、敵兵たちは大将首を取ろうと群がりますが、義明は巧みに手綱をさばきつつ、片っ端から敵兵どもを斬り捨てました。ついに兵たちは「かなう相手ではない」と恐れをなして逃げ始めますが、義明は単身、逃げる敵を追って斬り続けます。その中で、大太刀を振るう安藤某という屈強の武者が挑んでくると、馬から下りた義明は太刀で兜ごと安藤の首を斬り落とし、続けざまに左から襲ってきた敵をも両断。北条方は胆を冷やして義明を遠巻きにし、義明は呼吸を整えつつ、家臣らが追い付いてくるのを待ちました。そこへ北条方の弓の名手・横井神助という者がひそかに近づき、強弓を放つと、矢は義明の胸を貫き、義明は太刀を杖にして立ったまま絶命したといいます。一説に享年51もしくは52とも。小弓公方の死をもって、第一次国府台合戦は幕を閉じ、小弓公方家もここに滅びました。ちなみに北条氏と里見氏が再び衝突する第二次国府台合戦は、この25年後のことです。

五輪塔

義明と嫡男義純の討死で小弓公方家は滅んだものの、小弓城には義明の末子国王丸がいました。戦場を脱した義明の馬廻たちは、小弓城から幼い国王丸を救い出し、上総小田喜城の真里谷氏を頼ったともいいます。国王丸が、のちの頼淳(よりずみ)でした。時は流れて天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、秀吉は関東足利氏の末裔として、第5代古河公方義氏(よしうじ)の娘氏姫と、小弓公方足利義明の孫(頼淳の息子)国朝(くにとも)を娶(めあ)わせ、喜連川(きつれがわ)家を興します。古河公方高基と小弓公方義明の争いは、ここにようやく終息したともいえます。喜連川家は大名として、明治まで続きました。

伝小弓公方足利義明夫妻墓

千葉県市原市八幡。JR内房線八幡宿駅東口にほど近い住宅地の中に、満徳寺管理御墓堂墓地があり、その一角に古い五輪塔が2基、並んでたたずんでいます。室町時代造立とされる供養塔は、小弓公方足利義明夫妻の墓といわれています。

討死した義明の首は、合戦の翌日、国府台城に入った北条氏綱が首実検を行ったのち、古河公方晴氏のもとに届けられました。その後、上総国十五沢村(現、市原市)に葬られたと伝わります。また義明討死の報に接した正室は、小弓城内で自刃し、義明とともに葬られたともいいますが、八幡の五輪塔は義明の時代よりも古いものと見られており、詳細は不明です。

しかし、かつて関東武士に号令する小弓公方の座にあって、戦国の関東統一を目指しながら、志半ばにして松戸に命を散らした武人がいたことを、この五輪塔が無言のうちに後世に語り伝えているのかもしれません。

協力:船橋市西図書館、聖徳大学
参考文献:江西逸志子『小田原北条記 (上)』(教育社)、『国府臺戦記』、『小弓御所様御討死軍物語』、千野原靖方『国府台合戦を点検する』『小弓公方 足利義明』『東葛の中世城郭』(以上、崙書房出版)、西村慎太郎『生実藩』(現代書館)、平岡豊「松戸の中世城館址」(『戸定論叢』第2号所収) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。