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いい歌が詠めることが、モテる女の必須条件でした
「どんなに時代が変わっても、人の心の本質は変わりません。だからこそ、人の思いを詠んだ和歌は、はるかな時間を隔ててなお、現代を生きる私たちの心に響くのです」(馬場さん、以下同)
なかでも、注目をしたい3つの和歌集が、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』、平安時代前期に編まれた『古今(こきん)和歌集』(以下、古今集)、鎌倉時代初期に編纂された『新古今和歌集』(以下、新古今集)です。
「このなかで最も洗練され、日本語表現としての頂点をきわめたのが新古今集です。日本語は中世において、ある完璧さをもって完成してしまって、以降は新古今集を打ち破る新鮮な表現というのは近代まで出てきません。徹底的に言葉を吟味し、技巧を凝らし、行き着くところまで行ってしまった、それが新古今集です。
そして、その対極にあるのが、万葉集。素直で本質的な人間の声があふれています。ですから新古今集の歌の時代を牽引した藤原定家(ふじわらのていか)も万葉集の心を忘れてはならないものと尊重していました。源実朝(みなもとのさねとも)の歌の学びに万葉集を贈っています。
そして万葉集から文学的な大転換をみせたのが古今集です。言葉も優雅ですし、情味(じょうみ)があり、どこかなつかしい情趣があります。
紀貫之(きのつらゆき)は、古今集の冒頭の仮名序(かなじょ)で『やまとうたは人の心を種としてよろづの言(こと)の葉とぞなれりける』と書いています。人の心を主体として、梅の花が咲くのを見るにつけ、鶯(うぐいす)の声を聴くにつけ、さまざまなことや思いを考えて言葉にするのが和歌であり、それこそが私たちが培ってきた心のあり方なのだ、と言うのです。これが今日にも変わらぬ歌の本質ではないでしょうか。
平安朝というのは、百何十年、戦争がなかった時代です。古今集には、雅(みやび)でのびやかな王朝の空気が満ちています。この時代、異性と接するときの最も重要な手段のひとつが和歌でした。いい歌が詠めることはモテる女性の絶対条件だったのです。
その後の新古今集の時代は、源平争乱のあと、貴族たちが武家に政権をとられたいわば〝戦後〟です。いうなれば新古今集の歌は、政治の力を失っていく貴族たちが新興の武家に誇ることができる言葉の文化だった。そこには、新政権の武家がもっていない文学の凄い世界があったわけで、新古今集の歌には、貴族たちの矜持(きょうじ)が見えてきます」
藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」は、新古今集を象徴する歌として知られています。
「秋の夕暮れの浜辺には、粗末な小屋があるだけで何もない、というだけの歌。けれど〝花も紅葉も〟という言葉を入れることで、春秋の美しい景色をいったんイメージのなかに焼き付け、それを一瞬に消して虚しさを表現しているのです」
その定家が、晩年に編んだのが『小倉(おぐら)百人一首』(以下、百人一首)でした。
「おそらく晩年の定家は、多くの人たちがたどりつくことのできない境地まで行ってしまった己(おのれ)を内省したのだと思います。世の中には自分とは違う価値感や美意識をもって生きる人たちがいる。その現実を受け入れ、彼らの気どらない本音の美しさを認めていかなければならない。新しい時代はそこからはじまるのだ、と思ったのでしょう。晩年に撰をした『新勅撰(しんちょくせん)和歌集』には、そうした視点から、新しい無名の歌人たちの歌がたくさん入っています。それは、同じく晩年に編まれた百人一首の歌の選びにもみてとれます。時代性や巧緻(こうち)に開発された表現の文学性を尊重しながら、万葉の時代から鎌倉時代まで、幅広く百首の歌を集めたのです」
和歌を知ることは、人の思いを知り、日本を知ることです。さまざまな日本美術、茶道具や香木(こうぼく)につけられた銘や、能の謡(うたい)のなかに、託され織り込まれた和歌に目をとめて、心を寄せることができたら、作品の味わいは幾層にも深まります。
「まずは、百人一首を口ずさむところから、はじめてみませんか?」
茶の湯にも和歌が用いられていた!
浮世絵にも和歌が用いられていた!
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。現在、映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)を上演中。
※本記事は雑誌『和樂(2019年10・11月号)』の転載です。構成/氷川まりこ