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三十六歌仙その1 そもそも三十六歌仙が誕生したのはいつですか?
三十六歌仙の説明の前に、和歌の誕生からお話をしたほうがよいかもしれません。和歌は、漢詩に対して生まれた和の意識で、日本独自の詩歌(しいか)の称です。その成立は、奈良時代の万葉集にさかのぼります。
優れた歌人たちの選りすぐりの歌を集めて歌集にする、いわゆる秀歌撰(しゅうかせん)として最も有名なのは、ご存じのとおり鎌倉初期につくられた『小倉(おぐら)百人一首』。それより前に編まれたのが、この三十六歌仙になります。
「三十六歌仙は、平安時代中期の公卿(くぎょう)・藤原公任(ふじわらのきんとう)による『前(さき)の十五番歌合(うたあわせ)』が元になっています。これは公任より前時代の30歌人の秀歌を一首ずつ選び、二手に15人ずつ分けて十五番の歌合わせの形式にしたものです。歌合わせは、歌人を左右に分けて歌の優劣を競う遊びで、公任はそのかたちを借りて、楽しんでいたわけですね」(馬場さん 以下同)
この『前十五番歌合』は、30人の歌であることから『三十人撰』とも呼ばれました。そこに素晴しい才能をもったひとりの親王が「いや、ちょっと待て」と注文をつけることになります。
「公任と同じ一条天皇の時代、村上天皇の第7皇子で、一条天皇が信任していた具平親王(ともひらしんのう)という人がいました。彼は、書道や管弦、陰陽道(おんみょうどう)などにも長じた多才な博識者で、その具平親王が公任のセレクトに疑問を呈したのです」
公任は最初、いちばん優れているとした左方のトップに紀貫之(きのつらゆき)、最後に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を置いていましたが、柿本人麻呂を買っていた具平親王からすると、納得がいきません。
「これより前の平安時代初期、勅撰集である古今集の序文に〝柿本人麻呂は歌の聖なりける〟という一文があるわけです。それで歌のうまい人は歌仙だといわれるようにもなった。歌聖(かせい)なのだから人麻呂が先だと主張したんですね。結局具平親王が改撰をし、公任が増補改訂をして人数も36人になり、三十六歌仙として定着していきました」
また三十六歌仙は、6×6で「六々撰(ろくろくせん)」という呼び方もされるといいます。
「六という数字は、古今集の序文に記された六歌仙につながっているわけですね。僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、小野小町(おののこまち)、大伴黒主(おおとものくろぬし)のことを、六歌仙と呼びます。三十六歌仙は、具平親王からの横やりはあったものの、公任の好みと権威で選ばれた、当時の和歌の決定版。〝ベストアルバム〟だといえます
歌聖と敬われた、柿本人麻呂
公任の一押し! 紀貫之
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。現在、映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)を上演中。
※本記事は雑誌『和樂(2019年10・11月号)』の転載です。構成/植田伊津子