般若心経の意味
今回の言葉:五蘊皆空(『摩訶般若波羅蜜多心経』より)
一般的に「般若心経」と呼ばれている「摩訶般若波羅蜜多心経」には、「彼岸へ至る偉大なる智慧のエッセンス」という意味合いがあります。
道元さんが開かれた曹洞宗でもこのお経は重要なお経の一つで、この「智慧のエッセンス」の始まりには「五蘊皆空(ごうんかいくう)」という言葉が出てきます。
これは、物質的・精神的・心理的な存在のすべてを、色(物質的存在)、受(五感)、想(頭の中で作り出されるイメージ)、行(意識作用)、識(認識、判断)の五つに分けて、私たちの身体や心もふくめ、それを構成している一切の存在は「空」であると菩薩が照らし見たというところから始まっています。
執着してしまいがちな自分の思い
「空」とは、「固定した実体がない」ということ。仏教では、これを「無我」や「無常」と表わします。この世も私たちも、さまざまな要素が絡み合って存在しており、独立した存在はないということ。つまり永遠に変化しないものなどないということになります。
なのに、私たちってついつい自分の思いに執着してしまいますよね。
「こうなりたい、こうしたい」「こうすべき、こうあるべき」とか。結果や評価、相手への期待など、自分の位置付けを求めがちだったりします。また、目の前で起こることに一喜一憂したり、喜怒哀楽の中にいたり。いちいち思考が働いて、感情に動かされてしまう。
それは自然なことかもしれないけれど、仏教では、それらは「実体がない」と定義されています。だとしたら、世の中や私たちに起こる全てのことは、その時々の様々な要素が絡み合って発生した偶然の寄せ集めであって、全然気にすることじゃない! 私たちの中に生まれる感情も思考も、意識も、判断も、さほど重要ではないことになり得ます。
「あれ、私って何でそんなことで悩んでたんだっけ?」「立ち止まってたんだっけ?」って、思わず、壮大な意識の中に引き込まれる気分になります(笑)。だって全てはいずれなくなるものだから。あること自体が奇跡。
そう思えたら、それを認識している今に、感謝の気持ちが生まれてきます。死んだら認識できないわけで、生きているうちに認識できていることに感謝できたら、全ての存在が愛しさに変わるのかもしれません。
煩悩は尽きることがないけれど
人間の中にある煩悩は、尽きることがないのかもしれないけれど、それを感じられることさえも実はありがたいことだって思えてくるほど。でもどうして私たちってその意識で居続けられないのでしょう。きっとそれは、自分たちを「個」として認識しているからではないでしょうか。でも、私たちの存在は「個」として存在しているのではなく、ただの「縁」でしかないとしたら?
縁あって父と母が出会い、結婚し、私たちは生まれ、家族と出会い、友人と出会い、仕事に就いて、今ここにただ存在している。そしてこの先も、何かと縁を持ち続けいつか死に至る。
全ては「縁」で成り立ち、「縁起」によって何かが引き起こり、物事や現象は互いに関連して、ただ影響を与え合っている、変化の中の一部でしかない、という発想。それは、「自己を手放している」感覚に近いのかもしれません。
自己を手放し、縁の中に身を委ねてみよう。結果も、良し悪しも、幸も不幸もなく、そして執拗に意味を求めないことが、智慧を持って穏やかにこの世を生き抜くあり方なのかもしれません。
監修:横山泰賢(日光山 禅昌寺住職・曹洞禅インターナショナル会長)