珍しく。
まさか出オチ……? なんて疑われる今回の記事。
「鳥なのか? 犬なのか?」というインパクト重視のタイトルだが。
いやいや、どこからどう見ても「犬」だろうと、万人に突っ込まれてもおかしくはない。
正直、議論の余地などなさそうにも思われる。
さて、コチラの不思議な生き物。
名を「羽犬(はねいぬ)」という。
羽の生えた犬、そのまんま。そして、福岡県筑後市に伝わる「羽犬伝説」の主人公でもある。
なんとも、そのミステリアスな姿を見れば、到底、実在していたとは信じ難い。
だが、しかし。
「羽犬」は筑後市の郷土史など幾つかの資料に登場し、実際に羽犬を弔うための「犬の塚」まであるという。
そして、重要なのはここからだ。
仮に「羽犬」が存在したとして、である。
不可解なのは、羽犬にまつわる伝説が2つあるということ。
1つは、とっても可愛がられていた「良い犬」、つまり「愛犬」説。
もう1つは、周囲に害をもたらした「悪い犬」、つまり「暴犬」説。
なぜだか、全く正反対の「羽犬」の姿が、筑後市に伝わっているというのである。
一体、これは何を意味するのか。
こうなると。
もちろん、出動するでしょ。このダイソンが。
こういう、ワケわかんない謎、私、得意ですから。
ということで、疾風の如く、福岡県筑後市へと向かったのである。
その驚くべき「羽犬」の正体とは?
地元に伝わる2つの「羽犬伝説」と共に、町に点在する「羽犬像」のお姿もチェック。
それでは、余すところなくたっぷりと「羽犬」をご紹介していこう。
※本記事の写真は「宗岳寺」に許可を得て撮影しています
※本記事は「豊臣秀吉」の表記で統一しています
すべての始まりとなった宗岳寺の「犬の塚」
じつに奇妙なのだが。
こういうありえない「謎」に、必ずといっていいほど関わってくる男がいる。
もちろん、誰かというと。
言わずもがな、あの人たらしの天下人、豊臣秀吉である。
それにしても、なんでまた秀吉が九州の地に登場するのか。
秀吉のかつての主君、織田信長が自刃に倒れたのは天正10(1582)年のこと。秀吉は主君の弔い合戦を皮切りに、柴田勝家など一気にライバルを蹴落とし、天正13(1585)年に関白、翌年には太政大臣へと昇りつめる。あとは九州、小田原、奥州(東北地方)を残すだけ、ほぼ天下を手中に収めたという状況であった。
一方、九州はというと。
薩摩(鹿児島県)より破竹の勢いで北上していた島津氏の勢力が拡大。コチラも九州統一が現実味を帯びてきたというところであった。だが、その矢先、思いもよらぬ展開が待ち受ける。なんと衰退の一途を辿っていた大友氏が秀吉を頼ったのである。秀吉はチャンスとばかりに和平を勧め、さらには九州国分けの提案まで行うも、島津氏は受け入れず。こうして、皮肉にも秀吉の九州征伐を招く結果となるのである。
天正14(1586)年、秀吉は黒田孝高(黒田官兵衛)らを先に九州入りさせ、島津氏攻略を開始。そして、天正15(1587)年3月には、秀吉自ら九州に向かって出陣。20万余り(諸説あり)の大軍でその絶大な力を見せつける。島津四兄弟の長男、島津義久は剃髪して、とうとう秀吉に降伏。残念ながら、島津氏の九州統一が幻で終わった瞬間であった。
さて、ざっくりと背景を説明したが。
どうやら秀吉は、この九州征伐の道中で筑後市付近に立ち寄ったようだ。詳しい経緯はさておき、筑後市に残る「羽犬伝説」によれば、秀吉が死んだ羽犬を弔うために、この地に塚を建てたというのである。
そして、件の「犬の塚」は、今も確かに存在するという。
ならば、もちろんこの目で確かめたい。ということで、向かった先は「犬の塚」が安置されている「宗岳寺(そうがくじ)」。
博多駅から快速列車で50分、JR「羽犬塚駅」からは徒歩で15分ほどの距離にある、浄土宗の寺である。開祖は久伝という僧で、慶長元(1596)年、善道寺より来て宗岳寺を開基したという。
少々、寺の入口が分からずに手間取ったが。
寺門より手前に、表札のような形で「犬の塚」という文字を発見。一礼して寺門をくぐる。
境内に入ってすぐ右手に「犬の塚」の説明版が見えた。
昭和50(1975)年8月5日付けの宗岳寺護持会による「町名『羽犬塚』の由来」の説明版だ。該当部分を抜粋しよう。
天正十五年(一五八七)豊臣秀吉九州進軍の折、この地にきて羽のある犬が居て死んだ。それをこの地に埋めそこに塚(墓)を建てた。これを羽犬塚と称した。この羽犬塚をもって地名とした。
(宗岳寺護持会「町名『羽犬塚』の由来」昭和50(1975)年8月5日より一部抜粋)
説明の中で「羽犬」は「羽のある犬」と表現されている。
何がどうして、犬に羽があるのか。その理由などは一切書かれていない。どのような羽なのか、その犬は飛べるのか、動物なのかそれとも妖怪などの類なのか、依然さっぱり分からないまま。ただ「羽のある犬」がいた、それだけだ。
正面に回って、じっくりと「犬の塚」を観察する。
石碑のようなものかと想像していたが、全く違った。形の整った石とごつごつした石が組み合わされた塚だ。「犬之塚」という文字が見える。他にも梵字(ぼんじ)だろうか。2つの石に文字が刻まれているのだが、それが何かは判別できない。
さらに、その横には、豊臣秀吉公寄進と伝わっている「六地蔵尊」のお姿が。コチラも何種類かの石が組み合わさっている。
秀吉が弔ったとされる「犬の塚」。
確かにその形跡を確認することはできた。あとは、羽犬にまつわる情報を収集するしかない。ここで一体、何があったのか。正確な事実は分からずとも、せめて可能性くらいは推測したい。
はやる気持ちを抑えて、宗岳寺をあとにした。
「良い犬」と「悪い犬」の2つの相反する姿
そもそも九州に住んでいなければ、知ることもなかった「羽犬」の存在。
だが、現地の福岡県筑後市ではかなり有名のようだ。
なんでも筑後市のマスコットキャラクター「チク号」は、この羽犬をモチーフにしているとか。
また、JR「羽犬塚」駅周辺には、じつに多くの「羽犬像」がある。なんといっても、それらすべてが個性的。「羽のある犬」ということしか分からないからか、想像に頼るしかなかったのだろう。それぞれユニークで甲乙つけがたいものがある。
例えば、宗岳寺の50メートルほど先にある羽犬塚小学校。その校門前の「羽犬像」は、躍動感が半端ない。赤銅色の像で、前につんのめっているような体勢でポージング。羽は大きめで鋭い感じである。全体的にペガサスの犬版というイメージだ。非常に聡明な顔つきである。
そういえば。
冒頭でご紹介した山の井交差点にある「羽犬像」は、純真無垢な可愛らしい顔つきだった。聡明というよりは気弱で優しげという感じ。羽もふさふさで、そのボリューミー感は鷹などの猛禽類を思わせる。もう少し控えめに羽が生えているかと思ったが。羽の存在感がこれまたスゴイ。コチラも独特の「羽犬像」である。
さらに、「市民の森公園」にも新しいタイプの「羽犬像」があるという。
早速、いつものカメラマンと急行した。
「えっ。なくない?」とカメラマン。
大抵、見つけられないのは私の方なのだが。珍しく今回はカメラマンの方が右往左往。
「こっちこっち」と手招きする。
怪訝な顔をするカメラマン。
ええ、ええ。そうだろう。
だって、そのサイズ感が予想を遥かに超えていたからだ。
今まで背丈くらいだったのに。
なんだよ。急に見上げるほどのデカさではないか。
そびえ立つ「羽犬像」に驚きを隠せない。
いや、そもそも、これって「羽犬像」なのか。
オブジェのような外観に足が止まる。
「表現が独特過ぎて……」と困惑気味のカメラマン。
「囚われの身というかなんというか……なんだか板に埋め込まれてるみたいだよねえ」と私。
「前足ないし」
「あら、ホント。歩いているのかな。後ろはどうなってるんだろう」
回り込むとさらに絶句。
一応、下半身は存在していた。が、やはり、不思議な形状だ。白い板で黒い羽犬の体が分断されているようにも見える。顔つきは分からないが、口の開き加減から吠えているようだ。これまで姿かたちや大きさなど、実物と似せて造られていたようだが、いきなりアート全開の羽犬像に度肝を抜かれた。
幾つか「羽犬像」を見てきたが、これほどまでに違いがあるとは。
やはりこれも、地元に伝わる2つの「羽犬伝説」があるからか。
「良い犬」と「悪い犬」という正反対の「羽犬」のイメージが、無意識に影響を及ぼしたのかもしれない。
それにしても、2つの伝説は具体的にどう違うのか。
まず「良い犬」の伝説はというと。
出典元とされる資料は、元禄15(1702)年の『六所大権現縁起 下之巻』である。以下、その該当部分を抜粋する。
爰に天正・文禄の頃、関白秀吉公薩州下向の時、羽ある犬を召され給う。此犬爰に死別宿町のほとり塚を築く。是より羽犬塚名付と云り。
(築後郷土史研究会『築後郷土史研究会誌 48号』より一部抜粋)
また、宗岳寺の説明版には以下のような内容が記されている。
(1)の愛犬説は賢い犬が居て人々から可愛がられ惜しまれて葬った。
(宗岳寺護持会「町名『羽犬塚』の由来」昭和50(1975)年8月5日より一部抜粋)
コチラの「良い犬」は、一説には秀吉の愛犬だったとも伝えられている(諸説あり)。
秀吉に連れてこられたのか、それともこの地で出会ったのか。詳細は不明だが、とにかく人々から可愛がられ愛されていたようだ。だが、何かの理由で羽犬は死んでしまう。その理由もまちまちだ。羽犬塚小学校前の「羽犬像」の説明では「敵の矢に当たって死んだ」となっているが、市民の森公園の「羽犬像」の説明では「この地で病気になって死んだ」となっている。いずれにせよ、死んだ犬を弔うために「犬の塚」が建てられたというのである。
次に「悪い犬」の伝説はというと。
出典元とされる資料は、安永6(1777)年の『筑後志』である。以下、該当部分を抜粋する。
里老伝へ云う、往昔両翼の犬隠れ住んで往来の人馬を害す。秀吉公九州征伐の時、狩してこれを殺し、此所に埋めて石碑を建て、羽犬塚と号す 後年民家を建て駅所となる。
(筑後市教育委員会 築後郷土史研究会『筑後羽犬塚郷土史』より一部抜粋)
さらに、宗岳寺の説明版には以下のような内容が記されている。
(2)は暴犬説で人畜に危害を与え世をあげてふるいあがらせた。
(宗岳寺護持会「町名『羽犬塚』の由来」昭和50(1975)年8月5日より一部抜粋)
この資料によると、どうやら辺り一帯の人や馬に危害を加える犬がいたようだ。
ちなみに、『ちっごふるさと探検』(生涯学習グループ「TMの会」著)によれば、秀吉は大勢でこの羽犬を「退治」したという内容が追加されている。「退治」という言葉からは、妖犬の類だと推測することもできる。なお、秀吉は行く手を阻んだ羽犬を賞賛し、犬ながらも人間相手にこれだけ戦うとはあっぱれだと「犬の塚」を建てたことになっている。
ふむ。
一体、どうして2つの伝説が出来上がったのか。
確かによくわからんぞ。
結局、調べれば調べるほど「羽犬」の深みにハマっていく。
不覚にも。
ダイソン、とうとう収拾がつかない状況に陥ったのである。
「羽犬塚」の地名から推測する第3の説
なんだかな。
ワケわかんない謎、得意ですから。って息巻いていたのはどこのどいつか(もちろん、アタシでーす)。これじゃ、いつまで経ってもこの記事が永遠に終わらないじゃないか。そう焦りながら、いつもの手法を試すことに。
やはり、謎は時系列で追うのが一番だ。
そもそも「羽犬塚」という地名は、本当に「羽犬伝説」から来ているのか。羽犬伝説が成立した時期は大体分かる。秀吉の九州征伐の折で、説明版にもあったように天正15(1587)年4月頃だろう。
だが、もしそれ以前に「羽犬塚」の地名があれば。
また話は違ってくる。
さて、ここに1つの資料がある。
島津家16代当主、島津義久の老中であった上井覚兼(うわいかくけん)の自筆日記だ。その名も『上井覚兼日記』。当然ながら覚兼は、島津家の命運がかかった秀吉の九州征伐にも触れている。つまり、島津氏側から見た「九州征伐」の詳細が記されているのである。
その中に「天正14(1586)年8月」の記述がある。
秀吉が九州入りする前年の話である。以下、抜粋しよう。
八月
一、朔日、早朝宮之路を打立候而、灰塚之町にて暫憩候而、…(中略)…此晩、長田と云処二留候、
(久留米市史編さん委員会編『久留米市史 第7巻 (資料編 古代・中世)』より一部抜粋)
じつは、上井覚兼は、同年7月27日、岩屋城(現在の太宰府市)の攻撃の際に負傷。29日に肥後国(熊本県)八代に向けて出発している。抜粋した箇所には、8月1日の覚兼の動向が記されている。早朝に宮之路(現在の久留米市宮ノ陣と思われる)を立ち、「灰塚之町」にて昼休憩を取り、その日の晩は長田(現在のみやま市瀬高町長田と思われる)で宿泊したという内容だ。
ここで注目すべきは「灰之塚町」という名前だ。
ルートから考えて、また昔より街道の要所だったこともあり、「灰之塚町」は現在の「羽犬塚」辺りだと考えられている(諸説あり)。
あれ。
なんだか、発音が似てないか。
どちらも「はい」と「つか」が同じ。
早口で言えば2つの言葉は変わりがないように聞こえる。
「羽犬伝説」が生まれる前に、この周辺が「ハイヌヅカ」らしき地名で呼ばれていたならば。伝説から生まれたという地名の由来の信頼性が揺らぐ。もっといえば、順序が逆とも考えられるのだ。つまり、元々「ハイヌヅカ」という地名が先行して存在しており、あとからその地名にちなんだ「羽犬伝説」が生まれたという可能性だ。
さらには、ダメ押しで。
筑後市教育委員会『羽犬塚寺ノ脇遺跡(筑後市文化財調査報告書 第24集)』によれば、ある地名の訛(なまり)が「羽犬塚」の由来だという説を紹介している。
文献上で羽犬塚が確認できるのは、「上井覚兼日記」天正14年8月1日条に見える「灰塚」とされる。その名の由来は「駅馬塚 (はゆまつか)」「駿馬塚 (はやまつか)」「端犬塚 (はいぬつか)」などの訛化、羽の生えた犬の伝説などがある。
(筑後市教育委員会 『羽犬塚寺ノ脇遺跡(筑後市文化財調査報告書 第24集)』より一部抜粋)
総合的に考えると、どうやら「ハイヌヅカ」という地名は、伝説が生まれる前から存在していた可能性が高い。
つまり「羽犬塚」の地名と「羽犬伝説」は切り離して考えてもよさそうというコトだ。
だとしても、謎は依然と残ったまま。
肝心の「羽犬伝説」の内容についてである。
そもそも、羽の生えた犬が存在したのだろうか。「良い犬」と「悪い犬」は何を意味するのか。
ここからは個人的な見解となる。
まず、実際に「犬の塚」があるくらいだから、恐らく「犬が死んだ」ことに間違いないだろう。
残念ながら、誰の犬か、どのような犬かは、この資料だけでは判断できない。
ただ、1つ気になる内容の説明版を発見した。
それは、羽犬塚小学校前の「羽犬像」の説明である。
そして、この羽犬塚にさしかかったとき、連れていた敏しょうで羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬が、この地で敵の矢に当たり死にました。
(羽犬塚小学校前にある「羽犬像」の説明より一部抜粋)
よくよく読むと、「羽の生えた犬」とは一切書かれていない。
「羽が生えたようによく跳ぶ」犬なのだ。
つまり、「羽犬」とは、実際に羽が生えた犬ではなく、非常によく飛び跳ねる犬の様子を「羽が生えたように」という表現にした可能性がある。それが時代を経て「ように」という言葉が抜け落ち「羽が生えた犬」という言葉だけが独り歩きした、そう解釈することもできるのだ。
それでは「良い犬」と「悪い犬」、2つの伝説が出てきたのはどういうことなのか。
青柳健二著『全国の犬像をめぐる』には、ある見立てが紹介されている。
秀吉は織田信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩り用の犬である鷹犬は「御犬」と呼んで大事にされたが、反対に、野犬は殺されたという話がある。またこの地には大名が休む御茶屋があり、犬を弓で射る犬追物(いぬおうもの)がおこなわれてもいたようだ。この犬之塚は、そんな犬たちの供養のためのものだったのかもしれない。
(青柳健二著『全国の犬像をめぐる』より一部抜粋)
なるほど。
確かに、この見立てならば、「良い犬」と「悪い犬」が併存したことにも説明がつく。鷹犬は「良い犬」で、野犬や犬追物の標的となった犬は「悪い犬」として表現され、犬たちの死を一切合切まとめて「犬の塚」で供養したという解釈が可能になる。
ただ、個人的には。
少しもやもやした気持ちが残る。
秀吉は猫好きで知られ、他に猿なども飼っていたという逸話が残っている。だが、犬の話は聞かない。「秀吉の愛猫」ならまだしも「秀吉の愛犬」というイメージがピンと来ない。
そもそも「良い犬」と「悪い犬」の2種類の犬は、本当に存在したのだろうか。
正直なところ、そこにほんの少しの引っ掛かりを感じるのだ。
出典元の内容を再度見直すと、両者の共通事項は「犬が死んだため弔いの塚を建てた」というコトのみ。「悪い犬」については具体的に「人馬を害す」とあるが、「良い犬」については、じつは何も情報がない。
だとするならば。
「良い犬」と「悪い犬」は同一の犬を指し、ただ、見る人によってその評価がプラスとマイナスに分かれただけとも考えられる。出発点が「良い」と「悪い」で異なる上に、あとから様々な事柄が付け加えられ、それぞれ派生していく。その結果、全く別の物語が複数生み出されてしまった。なんだかそんな気がしてならないのだ。
あえて推測をするとしたら。
元々「ハイヌヅカ」に近い地名であったこと。
「羽があるかの如く高く跳ぶ犬」が現地に存在したこと。
何らかの理由で犬、もしくは犬たちが死んだこと。
秀吉の一行により「犬の塚」が建てられたこと。
1つ1つは単純で、関連性のないバラバラな事実が、意図せずに繋がった。
案外、「羽犬伝説」は、こうして生まれたのかもしれない。
最後に。
結局は、「羽犬伝説」が生まれたきっかけを作った豊臣秀吉がキーマンだ。
だから、秀吉に訊いてみてなんて。
個人的には、こういうオチは好きじゃない。
でもね。
時には、煙を巻くという終わり方も必要だ。
現在も福岡県筑後市では「羽犬」が広く愛され続けているのだから。
ここ掘れワンワン。
空を舞う犬の秘密は、今なお地中深くに眠る。
写真撮影 大村健太
参考文献
杉山正仲、小川正格著 『筑後志奥附』 本荘三之丞 1907年3月
筑後市教育委員会 築後郷土史研究会 『筑後市神社仏閣 第六集』 1975年3月
筑後市教育委員会 築後郷土史研究会 『筑後羽犬塚郷土史』 1987年8月
久留米市史編さん委員会編 『久留米市史 第7巻 (資料編 古代・中世)』 久留米市 1992年6月
筑後市史編さん委員会編 『筑後市史第一巻』 筑後市 1997年9月
筑後市教育委員会 『羽犬塚寺ノ脇遺跡(筑後市文化財調査報告書 第24集)』2000年
築後郷土史研究会 『築後郷土史研究会誌 48号』 築後郷土史研究会 2008年7月
生涯学習グループ「TMの会」著 『ちっごふるさと探検』 生涯学習グループ「TMの会」 2011年3月
青柳健二著 『全国の犬像をめぐる』 株式会社青弓社 2017年4月