年若い娘を「めざし」と呼んだ理由
めざし、と言えば現代社会ではほぼ百パーセントの人が、スーパーマーケットなどで売られているイワシの干物を思い起こすだろう。その名の通り、目の部分に串を通され、数匹ずつまとめて売られているアレだ。
だが平安時代から鎌倉時代にかけては、「めざし」とは魚を指すものではなかった。
こよろぎの 磯たちならし 磯菜つむ めざしぬらすな 沖にをれ浪
平安時代に編纂された和歌集『古今和歌集』巻二十に収録されているこの歌は、東国、つまり現在の関東以北で収録された詠み人知らずの詠草。「こよるぎの磯」とは相模(現在の神奈川県)の役所が置かれていた余綾(よろき/よろぎ)郡の海辺を指しており、大磯から小田原あたりの浜に相当する。
こよろぎの磯を行き来して磯菜を摘んでいる「めざし」を濡らしてはいけない。海の波は沖にいなさい――というこの歌は、決して「波が打ち寄せて、干物を濡らしてしまわないように」と願っているわけではない。実はこの場合の「めざし」とはまだ年若い少女を意味しており、浜辺にいる娘たちが濡れないように波に呼びかけているわけである。
それにしてもなぜ年若い娘を「めざし」と呼ぶのか。実はこれは本来は少女たちの髪型の一つで、額にふりかかる髪が伸び、目にかかるぐらい、つまり目を刺しそうな長さになったものを指す言葉。そこから額髪の長さが目刺し状態の少女も、「めざし」と通称するようになったのだ。
平安時代においては、女性は原則、髪を伸ばすものだった。目刺しを経て、更に髪を伸ばした貴族階級の女性はだいたい十二、三歳で成人の儀式である裳着を行い、初めて裳という衣装をつけた。この時には同時に髪上げの儀式も行い、それまでは垂らすばかりだった髪を初めて結い、大人となった証に代えた。もっともその後の彼女たちは、日常生活では再度髪を垂らして生活をしたが、なにせ女性は親族以外の男性にはほとんど顔を見せなかったこの時代、髪の美しさが女性の容姿の一つの基準とされていたことは、今でもよく知られているところである。
末摘花の髪への賛辞
紫式部が記した『源氏物語』には多くの女性が登場するが、中でも個性的な容姿の持ち主として描かれるのは、皇族の一員でありながらも落魄した深窓の令嬢・末摘花だ。ただ彼女は鼻が目立って大きい上に顔そのものが長く、身体全体が痩せていることもあいまって、有体に言えば不美人として描写されている。ただ一方で紫式部は末摘花の髪には賛美を惜しんでおらず、
頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかりあまりたらむと見ゆ。
(頭つきや髪のかかり具合は、美しく申し分ないと名高い人々にもまったく劣らず、衣の袿(うちき)の裾に髪が溜まり、その先には更に一尺ばかりが余っているようだ)
と、記している。もっともその褒め言葉も末摘花の容姿をさんざんこき下ろした後だけに、なにやら嫌味めいて見えなくはないのだが。
平安時代後期に編纂された歴史物語『大鏡』には、十世紀後半に生きた村上天皇の女御、宣耀殿(せんようでん)女御こと藤原芳子(ふじわらのほうし/よしこ)が大変髪の美しかった女性として登場する。彼女の髪は、外出時、身体はすでに牛車に乗っているのに、端はまだ建物の柱の中にあるほど長く、髪を紙の上に置いてくるくると巻くと白いところがまったく見えなくなるほどだったという。
『大鏡』は正史ではなく、あくまで歴史物語。このためさすがにこの髪の長さは事実ではあるまいが、火のないところに煙は立たないものだ。『大鏡』は芳子に関してはこれ以外にも、美貌で頭がよく、天皇の寵愛も深かったと絶賛しているので、実際に彼女はたぐい稀な美髪の持ち主と推測される。
美髪はたしかに人を惹きつけるが
ちなみに村上天皇のもとには多くの妃が入内していたものの、中でも中宮として後宮に君臨していたのは、芳子には従姉妹に当たる藤原安子(ふじわらのあんし/やすこ)。彼女の兄・兼家の五男坊が藤原道長なので、安子は道長の伯母になる。『大鏡』はこの安子の容姿については言及していないが、その記述を信じるならば安子と芳子は後宮の住まいが隣室同士だったという。そして安子は芳子の美貌の噂に好奇心と嫉妬心を押さえられず、二つの部屋の仕切りに穴を開けてその容貌を確かめたばかりか、ついには穴を通るぐらいの土器の欠片を投げつける嫌がらせまでしたという。
これには帝も怒ってしまい、「きっと安子の兄弟たちがそそのかしたのだろう」と兼家たちを謹慎させる騒ぎに発展する。ただそれほどに芳子を寵愛しながらも、安子がその後、三十八歳で亡くなってしまうと、天皇は「亡き安子があれほど芳子を嫌っていたことを思うと、安子が不憫でならず、芳子を寵愛したことが悔やまれる」と言って、芳子までを近くから遠ざけてしまう。
髪をはじめとする容貌は、確かに人を惹き付ける。だが真実、人を魅了するのはその人の存在そのものだとつくづく考えさせられるエピソードである。