蔦重のもとで山東京伝が出した大ヒット黄表紙
山東京伝は天明2(1782)年、絵と文章の両方を1人で手がけた『御存知商売物』(ごぞんじしょうばいもの)でマルチな才能が開花した絵師兼戯作者でした。もっとも巻末に「画工(絵を描いた者)北尾政演」と署名があるだけで、山東京伝の名は載っていません。この時点では、京伝の名はそれほど知られていたわけではなかったのです。頻繁に登場しはじめるのは天明5(1785)年刊の『無匂線香』(においせんこう)の口上で、
まかり出たる者は中橋と京橋のあたりに住、黄表紙の作者京伝と申す者でござる
と述べ、自らを「狂言のらむすこ(怠け者で遊び好きの息子)」と名乗りはじめた頃からです。
『御存知商売物』『無匂線香』の版元は鶴屋喜右衛門でしたが、天明5年には蔦重の耕書堂からも3冊の黄表紙を上梓します。いずれも「京伝作、北尾政演画(または、まさのぶ画)」の署名があり、戯作と絵をともに担当した意欲作でした。そのうちの1冊『江戸生艶気樺焼』は売れ行きも良く、京伝の代表作の1つとなります。
それまで耕書堂は、京伝を絵師としてのみ起用していました。実際、京伝は安永9(1780)年から北尾政演の名義で、黄表紙の挿絵を7〜8冊描いています。また天明4(1784)年には蔦重プロデュースのもと、多色刷りの豪華絵本『吉原傾城 新美人合自筆鏡』も出していますが、耕書堂から戯作を出版することはありませんでした。

あくまで推測ですが、江戸の版元の間では京伝の黄表紙は鶴屋が出すという、暗黙の了解があったのではないでしょうか。それが何らかの理由で天明5年に解禁になり、耕書堂からも出版可能になったと考えられます。
金持ちのドラ息子のそこまでやるか?の滑稽な行動を綴った黄表紙
『江戸生艶気樺焼』は、どんな作品だったのでしょう。
まず、タイトルは江戸前グルメの「鰻蒲焼」(うなぎのかばやき)をもじっており、「艶」は主人公の名前「艶二郎」(えんじろう)から来ています。
艶二郎は裕福な商家の放蕩息子という設定でした。自惚れが強く、並外れて女好き。しかし、あいにく鼻の穴が上を向いた大きくて平べったい獅子鼻(ししばな)で、今でいう“ブサメン”。世間から「あいつは女にモテる」と噂されたい願望が人一倍強く、そのためにさまざまな策を弄(ろう)するのですが、ことごとく空回りします。
艶二郎が試みた策を列挙しましょう。
【両腕に刺青(ほりもの)を入れる】
モテる遊び人は女性の名前を刺青にして残しているからと、両腕から指の股の間まで、過去に付き合った女性20〜30人の名を彫り、「色男は辛いよ」と、うそぶきます。もちろん女性の名はすべて架空です。
【艶二郎はモテるという記事を作り読売(瓦版屋)に広めるように頼む】
艶二郎にはつねに色恋事件が起きるという捏造記事の瓦版を作り、読売数人を1人1両で雇って江戸中で売らせます。
【200両の支度金で妾を迎える】
その一方で吉原・岡場所の遊里へせっせと通いますが、家に帰ってヤキモチをやいてくれる女性がいなくては色男とはいえないと吹き込まれ、200両で妾を迎えます。艶二郎が数日ぶりに帰宅すると、妾は「寂しかった」などといった台詞をわざとらしく吐き、見え透いた茶番を演じます。

見栄のためには1000両超の金も惜しまない
【サクラを雇って熱狂的なファンがいるように演出】
芸者を50両で雇い、「女房にしてくれないなら死ぬ」と、家に押しかけて来てくれと依頼。女中たちからは「ウチの若旦那に惚れるとは物好きもいるモンだ」と、陰口を叩かれる有様。

【色男の最大の見せ場は遊女との心中】
世間の気を引くにはやはり心中事件を起こすしかないと決意し、馴染みの女郎を1500両で身請して心中を打診。もちろん偽装で、本当に死ぬわけではありません。
ところが決行直前に追い剝ぎに遭い、2人とも裸同然にされてしまいます。しかし、これは父親が艶二郎を懲らしめるために起こしたものでした。父を悩ませていたことを知った艶二郎は、ようやく改心し、それまでの愚かな行いを忘れないために山東京伝に頼んで草双紙にしてもらったのが『江戸生艶気樺焼』——という物語です。

「獅子鼻の男」は江戸庶民にお馴染みのキャラクターに成長
艶二郎にはモデルとなった実在の人物がいたと江戸町人たちが噂し、それがまたヒットの要因となりました。
例えば吉原の花魁・6代目瀬川(『べらぼう』で小芝風花さんが演じた5代目瀬川とは別人)を身請けした幕府の御用商人・浅田栄次郎がモデルだ、いや、江戸三十間堀川の材木商・和泉屋甚助も怪しい——など、いかにもゴシップ好きの人間が多い江戸らしいですね。
ただし結局特定はできず、現在では複数の者を組み合わせて放蕩息子像を創り上げたという説が一般的です。また、作中に太い円と斜線を引いたマークを刺繍した暖簾が登場し、このマークがオランダ東インド会社の社章と似ていることから、オランダ貿易で財を成した豪商を指しているという説も浮上しています。

一方、「獅子鼻の男」は、そもそも京伝が絵師の北尾政演名義で出した手拭いの図案集『志やれ染手拭合』(しゃれぞめたなぐいあわせ/天明4年)に描かれた男でしたが、『江戸生艶気樺焼』をきっかけに京伝著の作品に何度も登場する人気キャラクターになっていきます。
しまいには他の絵師が京伝を獅子鼻の人物に描きはじめ、京伝=獅子鼻のイメージまで定着します。例えば寛政5(1793)年の『堪忍袋緒〆善玉』(かんにんぶくろおじめのぜんだま/京伝作・北尾重政画)。京伝自身が「獅子鼻の男」として劇中に姿を見せますし、その後、曲亭馬琴の作品にも現れます。



このように、『江戸生艶気樺焼』は京伝の知名度と地位を飛躍的に高めました。
しかし松平定信が寛政の改革を断行しはじめた天明7年から出版への規制・弾圧が強まり、朋誠堂喜三二や恋川春町ら武士の戯作者たちの黄表紙が、相次いで発禁処分となりました。彼らは筆を折り、ヒット作を生み出す作家は京伝1人に頼るほかないという状況に陥ります。
その結果、弾圧は京伝にまで及び、自作3冊が発禁、手鎖50日の刑を受け、蔦重も深刻な打撃を受けます。
ただし、この事件は当時、こう評されてもいます。
童(わらべ)まで知らざるは無し(子どもまで事件を知っていた)
『伊波伝毛乃記』(いわでものき/曲亭馬琴が書いた京伝の伝記)
知名度は逆に高まったということでしょう。京伝は戯作者として、揺るぎない地位を得ることになったのです。
参考資料:『山東京伝 滑稽洒落第一の作者』佐藤至子著 ミネルヴァ書房、『山東京伝の黄表紙を読む』棚橋正博 ぺりかん社
アイキャッチ画像:『江戸生艶気樺焼』の表紙と巻頭。耕書堂の商標である「蔦の葉に富士」がある。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

