「屁」が大好きな「中学生」のように無邪気な男
5月25日の放送で、蔦重の兄・次郎兵衛が放屁すると「オレたちは屁だぁ」と叫び、踊りながら狂歌(下記)を詠んだ大田南畝。狂歌師の号は「四方赤良」(よものあから)といいます。“四方の赤”という味噌からとった号という説があります。
七へ八へ へをこき井出の山吹の ミのひとつだに 出ぬぞきよけれ
7〜8回も屁をこいたが、山吹色のミ(う○こ)は出なかったので良しとしよう。
南畝の狂歌のコンセプトは「めでたし」。さらにそこに笑いを込める——その精神が凝縮されています。しかし、ただのお笑いではなく、実は『後拾遺集』にある和歌をパロっており、博学ぶりもうかがえるのです。
七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき
兼明(かねあきら)親王/後拾遺集
また、南畝の狂歌に「井出」とあります。これは山城国綴喜郡(つづきぐん/京都府)にある地名です。清流で知られる地であることから、いつしか和歌の歌枕となり、『古今集』にも登場します。その井出を「屁をこき井出」にかけ、さらに山吹の実をう○こに喩えるなど、「中学生か!」と突っ込みたくなるほど無邪気に見えますが、確かな知識の裏付けがあるわけです。
南畝が編集した『万載狂歌集』(まんざいきょうかしゅう)では、この屁の狂歌は『放屁百首哥』(「ほうひひゃくしゅか」と読むと思われる)の「款冬」(かんとう/山吹の別名)としています。そんな歌集が南畝の生きた時代にあったのか怪しいものです。文政11(1828)年に『放屁百首』という書の写本が確認できますが、南畝とは無関係と考えられ、つまり『放屁百首哥』の款冬などというのも、そもそもでっちあげの冗談なのでしょう。
屁を題材にするのが好きなだけに、こんな狂歌も詠んでいます。
しつか屋の けふりをふすへこく時ハ ふゝとなくかの よりもつかれす
「しつか屋」は賤が屋(しずがや)=貧しい住まい、「けふりをふす」は榧(かや)や杉を焚べて煙を出すことです。蚊遣り火(かやりび)といい、防虫に役立ちました。南畝はそれを「ふすへ」=音のない屁、つまり“すかしっ屁”に置き換え、蚊の羽音を「ふゝ」というすかしっ屁の静かな音にかけています。隙間だらけのボロ屋なのに、屁が臭くて蚊も寄りつきゃしねぇ——という意味です。
屁にまつわるエピソードは他にもあります。安永2(1773)年、南畝は「宝合わせ」という会を催しました(南畝自身は開催を安永2年とも翌年とも言っており、正確には不明)。
参加者各自が「お宝」を持ち寄り、由緒を語って自慢しようという主旨でしたが、まともなお宝など、あるはずもありません。適当な物に言葉遊びで名称をつけ、由緒は屁理屈。そんな中、好腹万図伎(すきはらのまずき)という狂歌師が出品したのが、中国伝来「屁ひりの神」の化身『放屁玉』(ほうひのたま)でした。
南畝は大爆笑したでしょう。あげく出品物を絵入りで解説した小冊子を出版する無茶をやってのけます。南畝は『玩世音紺紙金泥御詠歌』(ぐはんぜおんしこんでいごえいか)なる珍品を出品しました。浅草海苔の上に狂歌を書いただけのいかがわしさ極まれりの代物でした。
貧乏御家人のリアルな暮らし
狂歌の定義は難しいですが、近世文学研究者の宇田敏彦は京都の王朝文化で育まれた雅な和歌の形式に似せて、いかに滑稽な言葉を選んで詠むかの「戯れ」としています。反古典的なパロディです。
これが田沼意次の治世((1751〜89)の自由な風潮の下、江戸で花開きました。家柄やカネに縁のない者たちが担い手となり、和歌の意義やあるべき姿など屁で吹き飛ばしてしまえとばかりの奔放さで、ブームを巻き起こします。その中心にいたのが南畝でした。
これには南畝の生い立ちが関係しているでしょう。彼は御徒(おかち)でした。御徒衆は江戸時代初期には「歩行衆」と書く文献もあり、騎乗を許されていない下級武士です。禄は70俵5人扶持で、現在の価値に換算すると約330万円。給料として米をもらい、それを札差(ふださし)で換金します。札差から割り引かれたり手数料を徴収されたりしましたから、手取りはもっと低かったでしょう。
『べらぼう』の南畝初登場のシーンで、彼の家は畳が擦り切れ、障子が破れていました。
くれ竹の 世の人なミに松立てゝ やふれ障子を春ハ来にけり 南畝
松立てず しめかざりせず餅つかず かゝる家にも春は来にけり 深草元政
深草元政は17世紀、京都の瑞光寺を再興した僧で、南畝が敬愛する歌人でした。その元政が詠った「正月を迎えるのに何の準備もできない」という和歌を真似たのです。尊敬する人の歌ですからパロディは控えめ。それでも「春」を「(破れ障子を)貼る」にかけています。言葉の選び方が巧みです。
そんな才能がありながら、御徒にはなかなか出世の機会がありません。その鬱憤を慰めてくれたのが狂歌だったのです。町人も同じで、だからこそ狂歌は南畝と蔦重を結びつける媒介となったのでしょう。
金回りのいい旗本・土山宗次郎との交流
南畝のような下級武士が狂歌会を開いたり、吉原で宴会したりできたのは、旗本の土山宗次郎がパトロンだったからです。土山は田沼意次の側近として勘定組頭に抜擢され金回りが良く、その派手な暮らしぶりは評判でした。
南畝も土山も屋敷は牛込にあったことから、盛んに交流がありました。南畝が狂歌会を開催した恵光寺(現・瑞光寺)も近く、前述の宝合わせの場所も恵光寺です。
土山の屋敷の宴を詠んだ狂歌もあります。
盃の うかむ趣向にまかせたる 狂歌は何の曲水もなし
古(いにしえ)より開催されていた曲水宴(きょくすいのうたげ)をもじり、この会には曲(変化)がなく面白くないと詠っています。バトロン主催の会でさえ皮肉るところが、南畝の真骨頂でしょう。金持ちに対する反感があったのかもしれません。
米や少女などの題材を自在に操る
南畝らしい狂歌を、あと2首紹介しましょう。
世の中は いつも月夜に米の飯 さてまた申しかねのほしさよ
近世文学研究者の小林ふみ子は、この狂歌は南畝晩年の作と見ています。「いつも月夜に米の飯」は当時のことわざにあり、米がある以上は平穏無事という意味です。しかし、カネがなければ無事では済みません。天明7(1787)年に打ち壊しなどが頻発した米騒動を振り返り、憂いた歌である可能性もあるでしょう。この米騒動の鎮圧に活躍したのが長谷川平蔵です。いずれ『べらぼう』で描かれるはずです。
十三て はつかりはれし空われに 月のさハりの雲もかゝらず
少女の第2次性徴を指す「十三ぱっかり毛十六」ということわざがありました。これを十五夜の後の「十三夜」にかけ、さらに女性器が「はつかり」「空われ」=ぱっくりと割れ、「はれし」=腫れたように真っ赤に熟し、「月のさわり」=月経が順調に訪れるなら、「雲もかからす」=月見を妨げる雲のような邪魔な存在にならない。
個人的な推測ですが、この狂歌は吉原の遊女見習い・禿(かむろ)が成長し、新造となったのを指しているのではないでしょうか。新造は初潮が訪れると、10代半ばには客をとる宿命にありました。月経が始まり、女性として成熟する——当時の吉原にとっては「めでたい」ことだったのでしょう。
南畝ゆかりの史跡は東京に数多い
前述のように、南畝は『べらぼう』の時代の著名な知識人でした。ゆかりの史跡が数多く残っています。例えば長崎には南畝の歌碑がいくつかあります。
松平定信が寛政の改革に着手すると、南畝は出版統制に嫌気がさしたのか狂歌界から離れ、武士として生きる道を模索しました。40代で試験に合格し、勘定所に勤め、文化元(1804)年には56歳で長崎支配勘定に任じられます。長崎は南畝の感性をおおいに刺激し、狂歌も詠んだことでしょう。その歌碑が現存しています。
しかし、南畝は江戸っ子です。地方に赴任しても江戸を忘れなかったと思われ、文化4(1807)年頃には江戸に戻っています。江戸の人々も歓迎したようです。そうしたことが背景にあり、都内、特に新宿区には生地の牛込がある関係で、ゆかりの史跡が残っています。そのうち2つを取り上げましょう。
新宿駅南口から徒歩5分、青梅街道沿いに立つ常圓寺(じょうえんじ)の参道にある石は「便々館湖鯉鮒狂歌碑」(べんべんかんこりふ・きょうかひ)という新宿区指定文化財です。狂歌師の便々館湖鯉鮒の死後に建てられたもので、碑文は風化によって読みづらくなっているものの、脇に立つ案内板にこう記されています。
三度たく 米さへこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中
日に3度炊く米でさえ、固かったり柔らかかったり出来が違うように、世の中は思うようにならない——詠んだのは湖鯉鮒。揮毫(きごう/依頼されて書を寄せること)が南畝でした。
新宿中央公園に隣接した十二社熊野神社本殿脇に水鉢があります。刻まれた銘は南畝の揮毫で、これも新宿区の指定文化財です。
熊野三山十二叢祠 洋洋神徳 監於斯池 大田覃
(くまのさんざんじゅうにそうほこら ようようしんとく しちにかんがみ/おおたふかし)
新宿中央公園一帯は江戸時代は水の名所で、滝や池(斯池)がありました。明治時代に淀橋貯水場となり、貯水場が移設した跡地に新宿副都心が出現します。「大田覃」は南畝の本名です。
なお、東京・上野公園にも歌碑が建立されているほか、墓は文京区白山の本念寺にあります。
近代的な東京に、南畝の足跡がひっそりと息づいています。彼には今の東京、いや日本は、どう見えるでしょう。
世知辛く、ユーモアに欠け、めでたくもない社会に見えるかもしれません。
参考資料:『万載狂歌集』大田南畝編・宇田敏彦校注 角川ソフィア文庫、『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』小林ふみ子 岩波書店、 『法制大学学術機関リポジトリ 大田南畝晩年の狂歌』小林ふみ子、 『人物叢書 大田南畝』浜田義一郎 吉川弘文館、 『大田南畝 詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ』沓掛良彦 ミネルヴァ書房
アイキャッチ画像:『古今狂歌袋』(右)四方赤良(南畝)、(左)南畝が関わり耕書堂が刊行した狂歌関連書一覧 国立国会図書館所蔵