『逃げ若』では最強の武士を「作る」ために人体実験を繰り返すマッドサイエンティストなんだが……もちろん実際はそんなことはない。
実際は室町幕府の鎌倉支部長である「鎌倉公方(かまくら くぼう)」を支える「関東管領(かんとう かんりょう)」を務めるシゴデキ男だ。
なぜマッドサイエンティストになったのかはわからんが、松井作品にマッドサイエンティストは毎回出てくるし……、たぶんそのままだと「ど真面目」「頭脳派」って感じだから漫画的に足利直義とキャラが被ると思ったんじゃないかな……。
というわけで今回も、上杉憲顕を先祖から見てみよう。
上杉氏は元々藤原氏
藤原氏といってもピンからキリまであるが、上杉氏の祖の藤原氏は、藤原氏の本家である摂関家(せっかんけ)の家司(けいし/いえのつかさ)を代々務めていた。
家司とは親王や上流貴族の家政を務める役職なんだが、藤原盛実(ふじわらの もりざね)は娘を摂関家に嫁がせて、かの悪左府・藤原頼長(ふじわら よりなが)卿が産まれた。憲顕は頼長の母の同母兄弟・藤原顕憲(ふじわらの あきのり)の子孫だ。

保元の乱で1敗目
藤原頼長卿といえば、保元(ほうげん)の乱で首に矢を受けて重傷を負い、瀕死の状態で奈良に隠れていた父・忠実(ただざね)の元へ訪れるも門前払いを食らい、失意の中絶命したという壮絶な最期が有名だ。

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頼長卿の母の同母兄弟である藤原顕憲は保元の乱より前に亡くなっていたが、その跡を継いだ息子の盛憲(もりのり)は、頼長卿の味方をしていた。乱の時は頼長卿と行動を共にし、その最期も看取った。
頼長卿の死後に出家するが許されず、拷問の末に佐渡へ流罪となってしまったのだった。
承久の乱で2敗目
藤原盛憲は二条天皇の時代(1158年~1165年)になると許され、佐渡から帰って来たようだが、一族は没落してしまった。盛憲の没年は定かではないが、そのままひっそりと暮らしていたのだろう。
しかし鎌倉時代に入り、盛憲の姪・源在子(みなもとの ありこ / ざいこ)が後鳥羽天皇に入内し、盛憲の息子・清房(きよふさ)は後鳥羽院の側近となったことで再興を果たした。

しかし……承久の乱で後鳥羽院が隠岐島に流罪となると、清房も出家して隠岐島について行った。そして後鳥羽院の死後に京に戻ったようだ。
宮将軍と鎌倉へ
清房の後を継いだ重房(しげふさ)はしばらく特に目立たずに暮らしていたようだが、弘長3(1263)年に、後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・宗尊(むねたか)親王が鎌倉へ下向し、征夷大将軍となる。俗に言う「宮将軍(みやしょうぐん)」の誕生だ。

その時に、宗尊親王と一緒に鎌倉にやってきたらしい。そして丹波国(現京都府)の上杉庄を賜り、上杉を名乗る。宮将軍と共に上杉氏も爆誕だ。
もっとも、下向した当時は「宗尊親王のお供」というより、「宗尊親王のお供のお供」といった立場で、村上源氏の家人だったという指摘もある。
摂関家の家司をやってる頃からずいぶん落ちぶれてしまったが、大きな戦を敗者側について2回も乗り越えられたのだから、上手くやっている方だとも思う。
鎌倉下向から13年経った文永3(1266)年。幼かった宗尊親王も成人し、政治に口を挟めるようになったが、謀反を疑われて京へ返されてしまった。重房はそのまま鎌倉に留まる。
そして重房は足利氏4代当主の泰氏(やすうじ)に仕え、重房の娘(または妹)は5代当主の頼氏(よりうじ)に嫁いだ。当時、鎌倉へ下向した貴族が有力御家人と姻戚関係を結ぶのはよくあることだった。
その後、子が産まれ、それが6代当主家時(いえとき)となる。尊氏の祖父にあたる人物だ。
さらに、家時の息子は重房の孫娘を側室として迎え、生まれたのが足利尊氏・直義兄弟というわけだ。
『逃げ若』に登場する上杉憲顕は重房のひ孫なので、憲顕と足利兄弟は従兄弟ということになるな。

『逃げ若』までの上杉憲顕
鎌倉幕府滅亡までの上杉憲顕の動向は明らかになっていない。おそらく京と鎌倉を行き来していたんじゃないかと言われているが、まぁ当時としてはごく普通の働き方だ。
歴史に現れるのは、鎌倉幕府滅亡後のことだ。足利直義が後醍醐(ごだいご)天皇の皇子、成良(なりよし/なりなが)親王を奉じて鎌倉を拠点とした。その時に、成良親王の護衛として関東廂番(かんとう ひさしばん)が置かれた。
当時の公的記録文書である『建武記(けんむき)』に、庇番の中に上杉憲顕の名がみえる。これが歴史上に現れた最初の記録だ。
上杉憲顕と越後国
細かい流れは省略するが、建武2(1335)年に足利尊氏が新田義貞軍を追い詰めて京へ上る際、満5歳になる息子の足利義詮(あしかが よしあきら)を鎌倉に留めて関東を取りまとめさせた。上杉氏の多くは足利尊氏についていったが憲顕は鎌倉に留り、義詮の補佐をした。
新田義貞との戦いの中で、憲顕の親兄弟が亡くなり、憲顕は上野国守護を継承した。そして建武4(1337)年、奥州から進軍する北畠顕家軍と戦うこととなる。
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結果は散々に負けてしまったが、義詮ともども辛くも逃げ延びたようだ。そんな苦労を共にしたからだろうか、義詮から強い信頼を受けていたようだ。
建武5(1338)年に新田義貞が討死した後、義貞が担っていた越後守・守護のポストが空いてしまい、憲顕は守護代として越後国での対応に追われた。暦応4(1341)年に越後国で南朝の勢力が強くなったため、憲顕は平定するために出陣し、南朝の勢力を追い払った。
憲顕はしばらく越後に留まり、その間正式に越後守護となったようだ。「上杉」と「越後」でピンと来る戦国時代好きもいるだろうが、一旦ここでおいておく。
その後、なんやかんやあって足利直義と高師直(こうのもろなお)が対立し、その後尊氏直義兄弟の対立があった。正平7(1352)年の「観応の擾乱(かんのうの じょうらん)」と呼ばれる事件だ。
上杉憲顕は足利直義の下についたが、直義が亡くなり、憲顕も尊氏と折り合いが悪くなり、活躍の場がなくなってしまうんだが……延文3(1358)年に尊氏が没すると、室町幕府2代将軍となった義詮によって政治の場に復帰するんだ。義詮の人事は父・尊氏の体制から一新するものだった。
鎌倉公方となった基氏も、それまで関東管領を務めていた畠山国清を追放し、そのポストに上杉憲顕を抜擢した。
しかし急激な変化によって、憲顕に役職を奪われた形となってしまった人々からは恨みを買ってしまい、武蔵平一揆(むさし へいいっき)の乱と呼ばれる反乱がおこってしまう。
憲顕はその陣中、反乱の中心にいた宇都宮氏の城・宇都宮城が落城するのを見届けて亡くなった。激動すぎる62年の生涯だった。

その後の上杉氏
初代鎌倉公方は義詮の弟・基氏(もとうじ)で、室町将軍とも良好な関係を築いてたんだが……。それぞれの子・孫世代になると、だんだん室町将軍と鎌倉公方の仲が悪くなってきてなぁ……。代々関東管領を務めた上杉氏は板挟みとなる。

中でも、憲顕のひ孫にあたる上杉憲実(うえすぎ のりざね)は、4代鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)と対立していた。そこに6代将軍足利義教(あしかが よしのり)が関東の武士に「上杉の味方をしろ(≒持氏を倒せ)」とお触れをだしたんだ。
それに「将軍の命令だからネ! 仕方ないネ!」とばかりに意気揚々と乗っかったのが、オレの兄上(三浦義村)の子孫である三浦時高(みうら ときたか)で……鎌倉を火の海にして持氏を追い出してしまった……。これが時高積年の恨みアタック……もとい「永享(えいきょう)の乱」と呼ばれる事件だ。

持氏はその後自害し、子孫は鎌倉には戻らず、鎌倉公方は永享の乱をもって実質的に無くなってしまった。
当の上杉憲実は、対立はあったものの足利持氏のことは主として忠義の心はあったようで、このできごとを悔やんで出家し、政治の場から離れるようになった。
そして上杉謙信へ
上杉氏は子孫は養子を取って後を継がす、という事をよくやる。まぁそれ自体は珍しいことではないが……家系図がややこしいんだよな……。
憲顕の子は鎌倉で関東管領になった筋や、越後で守護をやっている筋もあるんだが、それぞれ養子を取り合っている。
しかし越後守護をしていた筋が室町後期に断絶してしまったので、本家と一本化する。そして憲実のひ孫にあたる憲政(のりまさ)は、家臣の長尾為景(ながお ためかげ)の息子・景虎(かげとら)を養子に取った。

そうこの景虎こそ、戦国時代に「越後の龍」と名を馳せた上杉謙信だ!!

平安の負け組貴族から、戦国の雄……個人単位で見ても一族全体で見てもアップダウンの激しい家だな。だから『逃げ若』の上杉憲顕があんなに必死に「最強の武士を作る!」と息巻いているのも、絶対に揺るがない土台を作るためだということがわかる。
このように漫画で興味を持った人物ができたら、その人物だけでなく家系図を辿るのもおススメしたい。
アイキャッチ画像:『探幽/龍図』 「ColBase」をもとに加工
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参考文献
『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
『国史大辞典』吉川弘文館
上田真平『対決の東国史4 鎌倉公方と関東管領』吉川弘文館
久保田順一『中世武士選書13 上杉憲顕』戎光祥出版

