一方、親しみやすい人物と心を許した武将が、態度を一変させて虐殺を行ったとしたら!? ある意味こちらの方が「やばい」武将で、恐怖心も倍増となりそうです。そんな二重人格のような武将とは、さて誰だったのでしょう。
自虐満点の傑作な名言
いきなりですが、下記の名言を残したのは誰だと思いますか?
女狂いは慎め。決して我の真似をしてはならぬ。
1 上杉謙信
2 松永久秀
3 豊臣秀吉
答えは…。
3の豊臣秀吉です!
秀吉の女好きはよく知られていて、大勢の側室だけでは満足せずに、大名夫人や公家の娘にも手を出したという記録が残っているほどです。そんな自分のことを棚にあげて、まー何を言うのかという気もしないでもないですが…。これは、自分が養子にして関白を譲った甥の秀次に「俺の真似をするな」と、アドバイスした訳です。
一変した二人の関係
天正19(1591)年に、秀吉は弟であり右腕だった秀長と、長男の鶴松※を亡くします。そのため、秀次を養子にして関白の座を引き継ぎました。自分が築いた全てのものを、この秀次に託した訳ですから、その信頼は絶大だったことでしょう。秀次にしても、その思いに応えたいと決意していたはずです。
ところが、運命は思わぬ方向へと走り出してしまいます。文禄2(1593)年、秀吉と淀殿との間に、再び男子が誕生したのです。秀吉は実子の秀頼(ひでより)を溺愛し、後継者にしたいという思いが強くなります。そして次第に秀次との関係は悪化していきました。
元関白の切腹と妻子ら公開処刑の謎
文禄4(1595)年、秀次は謀反の疑いをかけられて、ついには関白の座を退くことに。秀吉との面会も許されず、高野山での監禁を余儀なくされ、最期は切腹という悲劇的な結末を迎えます。関白だった人物が、急転直下の切腹。これは秀吉が命じたとの説もありますが、身の潔白を証明するために、自ら自死を選んだのではないかとも言われています。
この後、秀吉は恐ろしい行動に出ます。秀次の妻子や家臣30人あまりを公開処刑にしたのです。京都三条河原にさらされた秀次の首の前で、一族は正室や側室1人残らず殺害されました。そのなかにはまだ幼い子どもも含まれていたそうです。
なぜ、秀吉はこれほどまでに残虐なことをしたのでしょう? 秀次が冤罪を訴えるために死を選んだと知れ渡ると、政権への信頼を失ってしまう。それを恐れて一族を処刑することで、謀反事件であると印象づけたかったのかもしれません。
秀次の正室・一の台は、公家である菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘でした。元々は父が秀吉に取り入ろうとして側室に差し出した経緯があったのです。ところが一の台は、病気になり治療のために実家へ戻されます。その後、秀吉から声がかからなかったので、秀次に出仕し、見初められて正室になりました。一の台は美しく、気品にあふれた女性だったそうです。まさかとは思いますが、「自分の女を盗った」という奥底にあった恨みを晴らす気持ちが、この蛮行に駆り立てたのでしょうか? もし、あのアドバイスが、自分自身に向けた言葉であったなら、その後の豊臣家の滅亡は防げたのかもしれません。
参考書籍:『戦国武将名言録』PHP研究所、『武将感状記』、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科全集』平凡社
アイキャッチ:『皇国二十四功 羽柴筑前守秀吉』 大蘇芳年 国立国会図書館デジタルコレクション

