そこで、ドラマをもっと楽しむべく歴史的な「戦い」や「出来事」をまとめます。今回は「姉川(あねがわ)の戦い」です!
姉川の戦いの経緯
まず姉川がどこにあるかというと、近江国(おうみのくに)……現代の滋賀県です。岐阜県と滋賀県にまたがる伊吹(いぶき)山地から琵琶湖に注いでいます。
その姉川の川岸で、元亀元(1570)年6月に勃発した、織田信長(おだ のぶなが)・徳川家康(とくがわ いえやす)連合軍と、浅井長政(あざい ながまさ)・朝倉(あさくら)一族の連合軍の戦いを「姉川の戦い」といいます。

なぜこの戦いが勃発したかというと……10年前に遡ります。永禄3(1560)年の5月。織田信長が今川義元(いまがわ よしもと)を討ち取った「桶狭間(おけはざま)の戦い」がありました。東海地方を統治していた今川義元が討ち死にしたとこで、戦国時代の勢力図が一気に書き換わった大事件でした。
急激に勢力を拡大した織田信長に対抗したのが、美濃国(みののくに)を統治していた斎藤龍興(さいとう たつおき)です。龍興は信長の正室の濃姫(のうひめ)の甥にあたる人物ですが……領地の争いとなると親戚のよしみとか関係なく、むしろ親戚だからこそややこしく・激しくなるのはいつの世もあるあるですね。
この時信長は桶狭間の時のように、龍興と一気に決着をつけるというわけにはいかなかったようです。美濃国の守りが固すぎたので、まずはそれを崩すために近隣の城主を傘下に引き込んだり、小谷(おだに)城の浅井長政に妹の市を嫁がせて姻戚関係を結んだりして、じわじわと時間をかけて圧力を加えました。
永禄8(1865)年、京の室町幕府では将軍・足利義輝(あしかが よしてる)が暗殺され、次期将軍有力候補となりうる弟であり、奈良の興福寺(こうふくじ)の僧となっていた覚慶(かくけい)が幽閉されるという大事件が起こっていました。
覚慶はどうにかこうにか脱出に成功し、近江国にある義輝旧臣の館に身を置いて、足利家の当主になる宣言をしました。そして還俗(げんぞく)して義昭(よしあき)と名乗ります。しかし義昭が将軍となるのをよく思わない人もいるので、東海地方で一番ノリにノっていた織田信長に「上洛(じょうらく=京へ行くこと)させて将軍にならせてくれ」と交渉しました。
永禄9(1566)年、義昭は上洛するために織田信長と斎藤龍興に和睦するように命じました。しかし信長がわざとなのか、それとも交渉が決裂したのかは不明ですが、信長は美濃国の国境へ兵を差し向けます。
この戦いについての細かい経過は省きますが、信長は永禄10(1567)年に龍興の居城・稲葉山(いなばやま)城(のちの岐阜城)を落とし、龍興は亡命しました。
そして永禄11(1568)年に義昭を奉じて上洛を目指す途中、立ちはだかった近江国守護の六角氏を敗走させ、義昭は無事上洛を果たしたのでした。

上洛後の織田信長
足利義昭は信長の助けを借りて無事京へと辿り着き、将軍となりましたとさ。めでたしめでたし……で済めば、戦国時代は戦国時代なんて呼ばれません。足利義昭は将軍の威光を示し、織田信長はそれを支えなければなりません。
「権力者としての威光を示す」のに手っ取り早い方法は「命令を出してそれに応じさせる」ことです。そこで義昭は周辺諸国の大名に「京に来て将軍にアイサツしろ」と命令を出します。ところが、越前国(えちぜんのくに)の朝倉氏はそれに応じません。よって信長は朝倉氏を攻めることにしました。
しかし当時、信長、妹の嫁ぎ先である浅井長政との同盟で、「朝倉とは戦わない」と約束していました。朝倉氏は進軍中の信長軍を攻めます。そして浅井長政も苦渋の決断として朝倉氏に味方することにしました。
信長は越前国の金ヶ崎城(かねがさき)で浅井長政に背後を突かれ、撤退を余儀なくされました。この時、決死の殿(しんがり=最後尾)をつとめたのが木下藤吉郎(きのした とうきちろう)。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)でした。この「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」の戦によって秀吉は頭角を現していきます。

姉川の戦い~直前までの動き
元亀元(1570)年4月30日、織田信長は危機一髪のところ京へと戻ってきました。そしてすぐに体制を立て直すため、美濃国の岐阜城へ戻ろうと、5月9日京を出発します。
そして浅井勢力圏のさらに南、伊勢国へ向かう「千草越え」を経て、5月21日に岐阜城へ到着できました。

さて、ここから信長の反撃が始まります。
朝倉も織田の反撃に備えて準備を整えますが、時を同じくして信長は美濃国と近江国の境にある「長比城(たけくらべじょう)」を自軍へと寝返らせ、近江国進軍の拠点としました。
6月19日に信長は長比城へと入り、21日に浅井長政の居城である小谷城の城下を焼き払います。そして24日には重要な拠点となる「横山城(よこやまじょう)」を包囲しました。
そして織田信長の元に徳川家康が合流し、浅井長政の元にも朝倉景健が合流しました。

姉川の戦い~勃発!
こうして見ると、織田信長の「やらかした後のリカバリー」がすごい。素早さもさることながら、その判断の速度に対応できるほど下々まで指揮系統が行き届いていたのでしょうね。なるほど「織田信長の恐ろしさ」というのが少し分かってきました。
ここからがいわゆる「姉川の戦い」となりますので、動きを見てみましょう。
6月28日の未明。織田信長と徳川家康が姉川沿いに布陣しました。どの場所に布陣したかは「姉川合戦図」に残されています。
姉川の流れは現在と少し違うのでしょうか。地図の方向も北が上になってないようです。現在の地図に落とし込むとこんな感じです。が、家康の陣以外は「ここ!」とピンポイントで伝わってはいないようですので、あくまで参考イメージです。

そして夜が明けると、徳川軍が朝倉軍へ攻撃をしかけました。初めは朝倉軍が優勢だったようですが、家康の家臣である榊原康政(さかきばら やすまさ)が朝倉軍を側面から突き、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が単騎突撃をしかけました。NHK大河ドラマ『どうする家康』を観ていた人にはお馴染み、小平太(榊原康政)・平八郎(本多忠勝)の「へいへいコンビ」ですね。二人の活躍により、勝負は五分五分の展開となります。
続いて、浅井軍も織田軍に向けて進軍しました。この時、浅井軍は13段構えていた織田軍の防御を、11段まで突破したという逸話が残されています。(後世の研究では織田軍の防御はもともと13段もなかったのではという説もあります)
ここに来て織田信長、最大のピンチです。
……しかし、ここで終わったら、信長が後世で魔王キャラになったりしません。魔王……もとい信長は、横山城包囲に割いていた人員を、姉川の戦いに投入し、浅井軍の側面を突きます。ここでも驚異の判断の速さ×リカバリー能力×統率のとれた練度の高い軍隊=魔王力が見えますね。
これにより戦況がガラリと変わり、織田軍が一気に優勢になりました。一時は信長の喉元まで迫った浅井軍の進軍も、援軍によって押し返され、朝倉軍も徳川軍に押され敗走し、浅井軍も撤退しました。
こうして織田信長・徳川家康連合軍の勝利となりました。朝倉・浅井連合軍の被害は甚大で、朝倉家の豪傑で知られている家臣、真柄直隆(まがら なおたか)・直澄(なおすみ)兄弟や浅井長政の実弟・政之(まさゆき)など、多くの逸材が戦死してしまいました。
しかし朝倉・浅井はここで戦意喪失したわけではありません。織田・徳川にも追撃する余裕はありませんでした。そして今後も朝倉・浅井が信長に挑んでいくのでした。
アイキャッチ画像:
松林伯知『姉川合戦 : 織田・徳川・浅井・朝倉』(古今堂) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献:
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
小和田哲男監修『[図解]戦国名合戦 時々刻々』(メディアファクトリー新書)
小和田哲男監修『戦況図解 信長戦記』(サンエイ新書)
佐藤圭「姉川合戦の事実に関する史料的考察」(『若越郷土研究』59巻)

