寛政9(1797)年、これを挿絵入りの小説として内容もパワーアップして出版したのが『絵本太閤記』である。江戸時代から現代に至るまで、この絵本が秀吉のイメージを決定づけている。
“人たらし”の達人・秀吉の出世物語
『太閤記』の著者・小瀬甫庵は(1564〜1640)は、儒学者・軍学者など多彩な顔を持っていた人物で、織田信長の伝記『信長記(しんちょうき)』と、秀吉の『太閤記』を著したことで知られています。秀吉の配下で松江藩を興した堀尾吉晴(ほりお・よしはる)に仕えていたといいますから、秀吉・秀長兄弟と同時代を生きています。
『太閤記』の執筆に取りかかったのは、戦国時代も終わった寛永5(1628)年からでした。
伝記といっても脚色が多く、秀吉の実像を正確に伝えているとはいえません。しかし、低い身分から国の頂点まで駆け上った男の英雄譚(えいゆうたん)・出世物語であり、また“人たらし”の達人といわれた秀吉の愛嬌ある魅力が、いかんなく描かれています。
さらに寛政9(1797)年、『太閤記』をベースとした挿絵入りの読本(よみぼん)である『絵本太閤記』が、大坂で出版されました。読本とはひと口でいうなら歴史小説で、昨年の大河ドラマ『べらぼう』の登場人物・山東京伝も、寛政年間から執筆に力を入れたジャンルでした。『絵本太閤記』は武内確斎(たけうち・かくさい)の作、岡田玉山(おかだ・ぎょくざん)が挿絵。2人は共に大坂在住でした。
享和2(1802)年までに7編84巻を刊行、大好評を博します。やはり上方では、太閤秀吉の人気は絶大だったのでしょう。そして、ここに所収された秀吉に関するエピソードが抜群に面白かったため、あたかも秀吉の実像を物語る歴史書のように認知され、令和の現在にまで伝わることになるのです。
寛政9(1797)年の刊行から約200年以上、人々の心を捕らえて離さないベストセラーといえるでしょう。
日吉丸は「日輪の生まれ変わり」
では、具体的にどんなエピソードが載っているのかを、国文学研究資料館/国書データベースが所蔵している初版本から画像を引用し、見ていきましょう。

絵の右上に「日吉丸誕生」と書かれています。秀吉が誕生した場面です。父は弥助、母はなか。
男児が欲しかったなかは、日吉権現(日吉神社に祀られた天台宗比叡山の守護神)に祈願しました。すると体内に日輪(太陽/左上に日の出が描かれています)が入ってくる不思議な夢を見て妊娠します。そうして授かった子を、夫婦は日吉権現の生まれ変わりであると考え、日吉丸と名づけます。
つまり、秀吉を神格化しているわけです。
平成8(1996)年のNHK大河ドラマ『秀吉』では、竹中直人さん演じる秀吉の幼名が、「日吉」でした。しかも、ドラマ第1回のタイトルは「太陽の子」。神聖視された秀吉のイメージを、平成のドラマは踏襲していたといえます。
実際の秀吉の幼名は不明です。その一方、神格化する風潮は秀吉の存命中からあったようで、秀吉自身が諸外国に宛てた書簡に「私は神(日吉権現)の子である」と記しています。よほどこの逸話を気に入っていたのでしょう。
野盗の頭目・蜂須賀小六との「矢作橋の出会い」
「日吉丸誕生」の絵は、よく見ると父の弥助が帯刀しています。これは弥助が織田信長の父・信秀に仕えていた足軽で、戦で負傷したためやむを得ず帰農(農業に戻る)したという設定だったからです。つまり、日吉丸の家系は、下級ではあるものの武士であると印象づけています。
『絵本太閤記』では、弥助はのちに筑阿弥と名を変えます(他の書では父が死去し、母のなかが筑阿弥と再婚するという物語もある)。
ところが、日吉丸は父と折り合いが悪く寺に預けられます。寺でも喧嘩したり、悪さばかり働いたりするので追い出されしまい、立身出世を夢見て故郷を飛び出します。
織田が支配する清洲の城下にやって来た日吉丸は、行くあてもなく矢作橋(やはぎばし)で寝ていました。それを野盗の頭目・蜂須賀小六(はちすか・ころく)が、邪魔だとばかりに蹴飛ばします。幼いながらに「無礼だぞ!」と食ってかかる日吉丸を小六が気に入ったのが縁で、日吉丸は一時、小六の元に身を寄せるのです。

この逸話も、もちろんフィクションですが、やがて小六が蜂須賀正勝(まさかつ)と名乗り秀吉の家臣となるのは史実です。その2人の出会いを「矢作橋の出会い」は、劇的に演出しています。
小六は前述の『秀吉』では大仁田厚さん、平成26(2014)年『軍師官兵衛』ではピエール瀧さん、そして『豊臣兄弟!』では高橋努さんが演じます。いずれも無骨な荒武者という印象ですね。小六は、後述する「墨俣(すのまた)一夜城」の築城にも参加することになります。
『絵本太閤記』が生んだ「草履を温めるエピソード」
秀吉が織田信長に仕えたのは天文23(1554)年が定説です。『絵本太閤記』は「日吉丸18歳のとき」としています。秀吉は天文6(1537)年の誕生といわれていますから、天文23年は確かに数え18歳です。最初は小者(こもの/召使い)でしたが、よく働くので信長は「猿」という愛称で呼び、重用しました。
ある冬の日、信長が外へ出ると草履がありません。「猿、草履は?」と問われると、「温めておきました」と懐から差し出します(この記事一番上のアイキャッチ画像を参照)。
数ある秀吉のエピソードの中でも、有名な1つでしょう。この草履の話の初出こそ『絵本太閤記』なのです。他の史料には見られないため実話とは断言できませんが、信頼を得るための細やかな配慮、小さな役目でも絶対に手抜きしないなど、“人たらし”の天才・秀吉の真骨頂が琴線に触れる面白いシーンです。
こうして日吉丸は次第に頭角を現わします。「木下藤吉郎」と名を改め、信長とともに桶狭間の戦いにのぞみ、勝利後には寧々と結婚するなど、キャリアを積んでいく——『絵本太閤記』はそのように展開していきます。
藤吉郎の名声を高めた墨俣一夜城
永禄6(1563)年、信長は隣国の美濃の攻略にかかり、居城を小牧山城(愛知県小牧市)へ移します。さらに敵地の墨俣(岐阜県大垣市)に砦を築くよう柴田勝家らに命じますが、敵の支配下にある地に築こうとしていたため、工事は難航しました。それを藤吉郎は「私なら短期間で築いてみせます」と申し出ます。
ここで蜂須賀小六、再登場。わざと美濃勢と小競り合いを演じる一方で、山と川に通じた蜂須賀党が山中から竹や木材を切り出し、あらかじめ柱や梁(はり)などを組み立てておく。そして雨で増水した川に流して墨俣まで運び込む——砦は一夜にして完成します。
藤吉郎の名声を高めた「墨俣一夜城」です。

しかし、墨俣一夜城の記録は他の史料には見られません。信頼性に乏しいと評判の『武功夜話(ぶこうやわ)』と、『絵本太閤記』に記載されているのみで、つまり創作だろうという意見も多く、現時点では真相不明の城なのです。
ただし、墨俣は木曽川など複数の河川の合流点にあり、江戸時代に入ると木材を筏(いかだ)に組んで下流に流す運材法が普及した地でした。戦国時代にこの手法があったかはわかりませんが、輸送法としては納得できるものだったからこそ、『絵本太閤記』は創作の題材としたのかもしれません。
竹中半兵衛への「三顧の礼」は本当にあったのか?
一夜城に続き、藤吉郎は美濃・斎藤家の家臣・竹中重治(たけなか・しげはる)、通称・半兵衛(はんべえ)を、「三顧(さんこ)の礼」をもって味方に引き入れる功績をあげます。

「三顧の礼」は『三国志』で劉備(りゅうび)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を軍師として迎え入れるため、礼を尽くして3度訪ねた故事に由来します。今でも人をスカウトする際などに用いられる言葉です。『絵本太閤記』では、誠意を込めて交渉すれば必ず相手を口説き落とせるという教訓となっています。
しかし、残念ながら秀吉と半兵衛が実際に交渉したという記録はありません。それどころか、半兵衛は実像がほとんどわかっていない人物なのです。主君・斎藤家にわずかな手勢で反乱を起こし、城を乗っ取ることに成功した有能な知将だったようですが、黒田官兵衛と共に「二兵衛(にへえ)」と呼ばれ、病弱ながら秀吉の軍師として活躍するのも、実は作り話ではないかといわれています。
だからこそ大河ドラマでは、戦場での槍働きより頭脳戦に長けた策略家として描かれ、演じる俳優は知的でクールな印象でした。例えば『秀吉』では古谷一行さん、『功名が辻』(平成18/2006年)では筒井道隆さん、『軍師官兵衛』では谷原章介さんでした。
『豊臣兄弟!』では菅田将暉さんが演じます。人一倍クセが強そうな半兵衛を、藤吉郎・小一郎の兄弟がどう調略するか、楽しみですね。
参考資料:『太閤記解剖図鑑』エクスナレッジ/柴裕之監修、かみゆ歴史編集部編著
画像:すべて国文学研究資料館/国書データベース所蔵

