忠興は戦乱の世で勝つために、時には家族も切り捨てる冷徹な人間。最強の外様大名として恐れられていたのだろう。そんな“ストロング忠興”でも、うっかりミスをすることがあった。そんな歴史の新発見をお伝えしよう。
※1:『綿考輯録』巻十七より
家の存続を第一に考える忠興、息子にも容赦なし!
まずは忠興がいかに無慈悲で強かったかを振り返ろう。明智光秀が織田信長を殺した本能寺の変。光秀の娘(細川ガラシャ)を妻にしていた忠興は、光秀から味方になるように頼まれた。しかし父と共に情勢を冷静に見極め、光秀に味方しなかったのは有名な話だ。たとえ家族や親族であろうとも、細川家の存続を邪魔する者は切り捨てていく。忠興のストロングスタイルは常に揺るがない。

たとえば長男の細川忠隆へのトラブル対応をみてみよう。関ヶ原の戦いの際、忠興は屋敷に残る妻ガラシャや、長男の妻に約束をさせた。忠興や長男が戦に出ている間、万が一、屋敷が襲われた場合は名誉を守るため死んでほしい、と。こんな凄まじい約束を考える忠興は無慈悲マックス! そして、残念ながら本当に悲劇は起こってしまう。石田三成が率いる西軍に屋敷を襲われ、ガラシャは家臣に胸を突かせ死んだ。
しかし長男の妻、千世(ちよ)は約束を破り、屋敷から逃げて生き延びた。この態度に忠興は怒り、長男に妻と離縁しろと迫る。長男が離縁を拒んでいると、忠興の怒りは増し、絶縁を切り出したそうだ。長男は関ヶ原の戦いで活躍したにもかかわらず、自分に近づいてきたら切腹を申し付けるとまで言い出す忠興のストロング・スタイル徹底ぶり。結局、長男・忠隆は武士を辞めて僧侶にさせられたのだった。
新たに重要文化財に追加指定された細川家関連の手紙、その数9000点以上!
家族にも容赦しない忠興は、戦乱が起こるたびに的確な判断を行い、最強の外様大名として家を存続させた。そして細川家は熊本藩主になり240年も続いた。安定した熊本時代に、長い年月保管されてきた書状が細川家にはたくさんある。

そして細川家が持ちつづけた書状をはじめとする古文書9000点以上が新たに重要文化財に追加指定されたのだ! なかでも特に面白いのが、1615年・大坂夏の陣で細川忠興が現地から息子たちへ送った自筆の書状である。決戦の只中、燃え盛る大坂城天守を仰ぎ見て書かれた一通には、心にずっしりくる歴史的パワーワードとともに、忠興らしからぬ焦りの痕跡が残っている。戦国時代、数々の修羅場を生き抜いた忠興でさえ動揺した大坂夏の陣。忠興の人間味を、書状から感じ取ってほしい。
大坂城、燃える。その瞬間、忠興が書いた歴史的パワーワードとは
1615年5月7日。大坂夏の陣のまっただ中で書かれた細川忠興の自筆書状。宛先は三男の細川忠利と、家老、番頭、物頭などたくさんある。要するに「現場から全員に一斉送信」した緊急連絡である。夕刻、大坂城天守に火がかかり、城はあっけなく炎に包まれた。忠興はその場で、こう書いている。「大坂城攻めはすべてけりが付いた。」

大坂城攻めはすべてけりが付いた
大坂城攻めはすべてけりが付いた
大坂城攻めはすべてけりが付いた……
豊臣家滅亡、戦国時代の終焉。その決定的瞬間を目の前で見た忠興の気持ち、想像を絶する!
歴史の変わり目をしたためた忠興の手紙! しかし日付が一日ズレている?
忠興自筆の書状、原本を見ると日付が「五月八日」と書かれている。大坂城が落ちたのは、どう考えても七日である。なぜ八日なのか。

自筆書状をよく見ると、上段左上に墨移りがみられる。墨が乾かないうちに、慌てて紙を折った痕跡だ。忠興は、燃え盛る大坂城天守を目の前にしながら、急いで書いた可能性が高いという。(※2)戦国最強クラスのサバイバーも日付をうっかり間違える、まさかの展開!
忠興は、信長、秀吉、家康に仕えて戦乱の世を生き残る。豊臣秀吉の死後は、石田三成と対立し、すばやく徳川家康を支持した。権力構造の変化を見極め、常にうまく立ち回ってきた忠興。そんな彼でさえ、大坂城炎上の瞬間には動揺して書状の日付も間違えたとは、なんとも印象的だ。「大坂城攻めはすべてけりが付いた」という一文からは、喜びというより、生まれてからずっとずっと続いていた戦乱が、あっけなく終わったという衝撃が感じられる。
燃える大坂城でセンチメンタルになりすぎず、すぐ仕事モードに戻る忠興
しかし忠興は、感傷に浸るだけの人物ではない。自筆書状の後半では、三男の忠利や家臣たちに明確な指示を出している。
「もう軍勢はいらない。途中まで来ていても引き返せ。国元に戻れ。ただし忠利、お前だけは将軍に挨拶に来い」。
戦後処理を見据えた、きわめて現実的な判断である。この直後、江戸幕府は新政策を矢継ぎ早に出す。忠興は、その始まりを誰よりも早く察知していた。さすが”ストロング忠興”!
重要文化財に指定された9000点以上の古文書の中で、忠興の書状は1,900通以上あるらしい! 1600年から1645年まで、後継者に発し続けたものだそうだ。細川家の所蔵品を展示する永青文庫では不定期で忠興が書いた書状が展示されることもある。ぜひ美術品の展示とともに、忠興の書状も見てほしい。
永青文庫からのお知らせ
令和7年度早春展「アジアの仏たち―永青文庫の東洋彫刻コレクションー」
2026年1月17日(土)〜2026年3月29日(日)

永青文庫の設立者・細川護立(もりたつ、1883~1970)は東洋美術に広く関心を持ち、中国考古や陶磁器ばかりではなく、中国の石仏・金銅仏、インドや東南アジアの彫刻をもコレクションに加えました。本展では「菩薩半跏思惟像」や「如来坐像」(いずれも重要文化財)をはじめとする中国彫刻のほか、多種多様なインド彫刻を7年ぶりに紹介しています。
https://www.eiseibunko.com/exhibition.html#2025fuyu
令和8年度春季展「熊本城――守り継がれた名城400年の軌跡―」
2026年4月11日(土)〜2026年6月7日(日)

2026年は熊本地震から10年という節目の年。加藤清正によって築かれた熊本城は、加藤家のあとを受け熊本に入国した細川家が約240年にわたり居城とした名城です。熊本と深いつながりのある永青文庫では、震災からのさらなる復興を祈念し、2025年に重要文化財に追加指定されたばかりの「細川家文書」やゆかりの美術工芸品をとおして、細川家の視点から熊本城の歴史をたどります。
https://www.eiseibunko.com/exhibition.html#2026haru

