修行僧、仕方なく結婚する

出典:Art Institute of Chicago
(https://www.artic.edu/artworks/24963/li-bai-japanese-ri-haku-from-the-series-a-true-mirror-of-japanese-and-chinese-poems-shiika-shashin-kyo)
『今昔物語集』には幸せ太りに悩む男が登場する。主人公は仏道修行にいそしむ旅の僧である。
飛騨国の山で道に迷った僧は、大きな滝に行きあった。その滝の中へ、笠をつけて荷をかついだ男が消えていくのを見た。
「あれは鬼にちがいない」
滝に入ると、道が続いていた。歩いていくと人里があった。
するとさきほどの荷を背負っていた男が、こちらに向かって走ってきた。後ろから、浅黄の上下を着た男も走って来た。浅黄の上下を着た男は、僧をつかまえるなり言った。
「私の家へおいでください」
僧は、戸惑いながらも浅黄上下を着た男について行くことにした。男は言った。
「心配ありません。ここはとても良い所です。ゆたかに暮らせるでしょう」
僧の出会った男たちは何者なのか。僧はなぜつかまったのか。男たちは、鬼なのだろうか。だとしたら目的はなんなのか。謎は深まるばかりだ。
浅黄の上下を着た男は僧を立派な家に招くと、豪華な料理でもてなした。男は僧に食べるように促した。
「私は幼くして法師になりました。このようなものを食べたことがありません」
「なるほど。しかし今はこちらにいるのです。食べなくては生きていけませんよ。ところで私には娘がひとりあります。どうか、もらっていただけませんか」
逆らえば殺されるかもしれない。それに、逃げることもできそうにない。僧は答えた。
「今はただ、仰せにしたがいます」
僧は戒律を破り、魚も鳥も食べ、夜になると若くて美しい女が入ってきたので、約束通り娘と契った。
幸せ太りには理由がある

出典:Art Institute of Chicago
(https://www.artic.edu/artworks/21168/monkey-saru-from-the-series-fashionable-twelve-signs-of-the-zodiac-furyu-juni-shi)
魚や鳥の肉を喰らい、美しく着飾った若い娘と契る。食べることと交わることが交錯する、エロティックな夜が過ぎていった。ふたりはめでたく夫婦になったので、甘美な夜はまだまだ続いていくことだろう。
好きな衣服を着て、好きなものを好きなだけ食べて、髪だって結えるほどに伸びた。破戒を無理強い(?)された僧は、かくして、ぶくぶく太っていく。が、愛に満ちた日々である。体重の増加は気になるが、こんなに楽しい日々は人生ではじめてだったにちがいない。
さて、話がおもしろくなるのは、ここからだ。
僧は、恰好も男らしくなり以前とは別人である。これがたんなる幸せ太りなら問題なかった。でも、さすがの僧も里の人たちの様子がおかしいことに気がついていた。
たとえば、浅黄の上下を着た男は「男は肉がついているほうがいい。もっと太りなさい」と言って日に何度も食事をすすめてくる。妻も隠し事をしているようだった。ある日、僧は浅黄の上下を着た男と客人の世間話を聞いてしまう。
「思いがけぬ人を得ましたね。娘さんが幸せになられて嬉しいでしょう」
「あの人がいなかったら、どうなっていたことか。でも来年はまだわかりません」僧が問いつめると、口を閉ざしていた妻が答えた。
「この国の神様は毎年、人を生贄にして食べるのです。あなたが来たとき皆が『我が家に来てくれ』と欲しがりました。生贄にするためです。あなたがいなければ私が差し出されるところでした。でも私がかわりになるつもりです。愛しております。」
そう言って妻は泣いた。妻の話によれば、生贄は裸でまな板に乗せられて、瑞籬(神聖な場所にめぐらせた垣のこと)の内に入れられる。神が自ら生贄を調理して食べるのだという。神は、猿の姿をしているという。痩せた生贄では神が荒れる。僧が肥え太らされたのは里の平和のためだった。
戦う食材

出典:Art Institute of Chicago
(https://www.artic.edu/artworks/90452/young-woman-with-a-caged-monkey-calendar-print-for-new-year-1776)
幸せ太りには裏があったのだ。僧が里の人たちに受け入れられたのは、生贄として差し出すためだった。肥え太った脂肪と肉の塊をつくり、猿神に食べてもらうためだった。
そう聞かされて「はい、わかりました」と素直にまな板に登るなんてできない。僧は妻に刀を用意するように申しつけると、以前にもましてよく食べ、よく太った。それを見た里の者たちは大喜び。
祭りの日。僧は山の中の大きな神殿へ連れて行かれた。妻は泣いている。僧はまな板に寝転んだ。しかし股の間には刀を隠していた。
神殿の扉が音をたてて開かれる。人ほどの大きさの猿が鳴いた。猿は一匹ではなかった。猿は、用意してある箸と刀で生贄を切りきざもうとした。その瞬間、僧は刀を猿の腹に突き立てた。
「おまえは猿だ。神といつわり生贄を求めて毎年人を食っていた。ほかの猿も召し出せ。そうでなければ突き殺すぞ」
そう言うと、僧は次から次へと猿を縛りあげた。「おまえたちは長年、神だといつわり毎年人を食い、命を奪った。改心せよ」
僧は、刀で猿の腹をえぐった。鬼を怖がっていた僧はもうどこにもいない。たくさん食べて腕力もついて、ついでに度胸もついたのだろうか。やっぱり肉食の生活がよかったのか。あるいは、愛の力か。太った僧は以前とは別人である。なんと勇ましい。
生きて戻った僧の姿を見た人たちはさぞ動揺したにちがいない。神にも勝る者を生贄に差し出してしまったのだから。里の行く末を案じたかもしれない。しかし妻だけは夫の帰還を喜んだ。
僧は、神殿に火を放った。そうして里へ戻ると、人々に告げた。これは神でなく猿丸といって人の家につないで飼うことができること、そして私がここにいるかぎりはこんなものに大きな顔はさせないとも言った。
その後、生贄となった僧は里の長者となり妻とともに幸せに暮らしたという。
(『今昔物語集』「巻第二十六 飛騨の国の猿神、生贄を止めたる語」)
おいしい昔話
この話を読んでいると宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思い出す。宮沢賢治が『今昔物語集』を好んで読んでいたかどうかは知らないけれど、もしかするとなんらかの着想をもらっていたかも、と思えてならない。
ちなみに『今昔物語集』には、もうひとつ猿神退治譚がある。娘を生贄に指名されて悲しみにくれる夫婦のもとにひとりの旅人が現れ、例のごとく生贄にするために肥え太らされる、というもの。
この話の魅力はなんといっても、細やかな食事の描写にある。
夫婦の話によれば、たったひとりの愛娘は生贄として差し出されたあと、膾(なます)にされるらしい。どうして、膾?と思った読者は私だけではないはずだ。膾とは、魚や肉を細かく刻み、酢にあえたり漬けたりする料理。猿神は若い娘の柔らかい肉を削いで、刺身のようにしてから食べるつもりらしい。グルメな神である。
俎(まないた)に大(おおき)なる刀置たり。酢塩・酒塩など皆居(す)へたり。人の鹿などを下(おろ)して食(くわ)んずる様也。
と本文にはあるから、どうやらまな板には包丁代わりの刀が置かれ、味付けに使うと思われる酢塩と酒塩もしっかり用意されている。準備万端だ。やはり娘を魚のようにさばき、酢に漬けるつもりなのだろう。なんてことを……と思いながらも、ずいぶん手の込んだ食べかたをするなあと感心してしまう。
こういう言いかたは生贄に失礼だけど、こんなにおいしそうに生贄を食べる昔話は、そうない。
生贄というのは「ひと口でパクリ」といくのがふつう(?)なのではないだろうか。踊り食いするみたいに。
これほど臨場感たっぷりな語り口で生贄料理の説明をするのは読み手の関心をそそるためだろうか。いや、理由はほかにもあるはずだ。
肉食の禁忌
私の知る限り、人間を料理して食べる神様の話というのはそう多くない。
猿神は、人間が生きものを料理して食べるみたいに生贄を自ら調理して食べようとする。包丁と箸とを持って人間をほじくったり、つついたり、さばいたり、酢に漬けたり。そんなことをするのは、もはやただの猿ではない。
生贄を裸にして差し出すのも、きっと神様が料理しやすいようにとの配慮からだろう(魚や鶏肉が裸で売られているみたいに)。せっせと調理に勤しむ猿には、やはり神としての残影がある(料理人としての面影もちょっとある)。
この物語を読んでいると、腹の内側の、なにか根源的なものが揺さぶられるのを感じる。
人間が喰われていく様子が、魚や獣たちの痛みや苦悩と重なるからだろう。しかも生贄にされるのは、脂肪と脂がたっぷりのった肉の塊でなくてはいけないのだ。
これらの物語が仏教説話集に収められた一篇であることを考えれば、肉食への禁忌が生贄譚という語りのなかで問われていると考えることもできる。
件の僧は、猿神を縛りつけたあとで神殿に火をつけて燃やしている。この火も、料理をイメージさせる。神が人を料理して喰らう姿は、人が生きものを喰らう姿の写し鏡なのかもしれない。
おわりに
旅の僧は結婚して太った。
しかも美味しいものと珍味をたらふく食べて、肥え太った。それも、ただ太ったのではない。僧には、妻との幸せな時間を差し出してもありあまるほどの不幸が用意されていたのだ。
寝て食べて契って、もはや修行僧の暮らしではないが、人間としては夢のような生きかたではある。
しかしどれほど怠惰な暮らしを送っていても、心までは怠けていなかった。さすが修行僧というべきか。あるいは美しい妻と一緒になって、心根も逞しくなったのかも。なんにせよ、生きものの食い意地というのは、人間でも神でも獣でも恐ろしいものである。
【参考文献】
「日本古典文学大系 今昔物語集」岩波書店、1961年

