今まで味わったことのない緊張感
会見の始めに、公益財団法人文楽協会業務執行理事、清水靖久さんが「竹本綱太夫は、江戸時代中期より260余年にわたり、受け継がれてきた浄瑠璃(じょうるり)※1界屈指の大名跡」と説明をされました。続いて独立行政法人日本芸術文化振興会理事、切替(きりかえ)浩子さんは、「新綱太夫さんが、今回の襲名を経て、名実ともに人形浄瑠璃文楽を背負って立つ存在になるよう、ご支援ください」と、会場の記者たちへ呼びかけられました。
織太夫さんは、「大変、大きな大きな名前。今朝は今まで感じたことのない緊張感に包まれました」と、率直に話します。大阪市出身の織太夫さんは、祖父は文楽三味線の名人、二代目鶴澤道八。周囲からは三味線弾きの道を期待されましたが、次第に祖父の三味線の横で語る太夫に憧れの気持ちを抱くように。思いが叶って8歳で人間国宝で八代目綱太夫を父に持つ豊竹咲太夫さん(令和6年死去)に入門し、豊竹咲甫太夫を名乗り、太夫としての人生をスタートさせました。

亡き師匠から託された襲名までの道のり
まず、竹本綱太夫の名跡について織太夫さんは咲太夫師匠との思い出を語られました。「九代目綱太夫を襲名される際に、九代目ご夫妻と八代目綱太夫家遺族が話し合いを持たれました。『これから話をすることは後世に繋がることだから』と、20歳の私も呼ばれ、録音用の120分のカセットテープを買って師匠宅へ上がったところ、玄関でいきなり師匠から『お前咲太夫と綱太夫とどっちを継ぎたい』と言われ、突然のことで身体が硬直して、立ち尽くしてしまいました」
襲名に関わる織太夫さんのエピソードは続きます。「そうすると師匠は『じゃあ綱太夫を継げるようにしといてやる』と言って、話し合いの場へ行かれました。その師匠の言葉通り、九代目の師匠が家名である竹本源太夫を襲名される際に、八代目綱太夫家へお返しに上がられまして、その数年後に私の六代目織太夫の襲名が決まりました」。このあたりのことは竹本源太夫・鶴澤藤蔵著『文楽の家』や、山川静夫著『綱大夫四季』にも書かれているそうです。
このような経緯もあり咲太夫師匠は、自らは生涯を咲太夫で通すと襲名をされませんでした。そして大名跡・綱太夫の前名である織太夫を、愛弟子に継ぐようにと度々懇願されたそうです。「他の名前の襲名をお願いしてみたりして2回断ったのですが、3回目は師匠の親心を感じて、お受けさせていただきました。今では感謝しています」。織太夫を六代目として襲名して8年が経過し、八代目綱太夫の織太夫時代は10年だったことに気がついたそうです。織太夫を襲名してちょうど10年に当たる令和10年に、「十代目竹本綱大夫」を継ぐのが絶好のタイミングと、決意したと話されました。
歴代の綱太夫は芸達者で多才
初代綱太夫は、明和5(1768)年に道頓堀の竹本座が80数年の歴史に幕を下ろした後、阿弥陀池和光寺前に竹本義太夫座再興座本(ざもと)※2として、竹本座を再興した人物なのだそうです。「今でいうプレイングマネージャーですよね。初代は技巧派で『わざ知り』と呼ばれて、その人気は『磁石が鉄を吸う如く』と言われたほどでした」と織太夫さん。
二代目綱太夫は初演から上演が途絶えていた『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』※3合邦住家の段に大きく手を入れて、今日上演される形を作ったそうです。織太夫さんは、自身の芸脈と関連する『摂州合邦辻』を、織太夫襲名披露公演で語りました。

「私が尊敬する、八代目綱太夫師匠は『曾根崎心中』天満屋の段を初演し、『女殺油地獄』豊島屋(てしまや)油店の段を作曲・初演しました。今、文楽や歌舞伎で世話物(せわもの)※4が上演されていますが、それは戦後の文楽を象徴する近松物のジャンルを確立した八代目の尽力のたまものだと思います」。後進の指導にも力を入れた八代目綱太夫は、門弟や若手育成の場として『大序会』を復活させました。これに倣い、織太夫さんも道頓堀播重の席を復活し、後輩やお弟子さんたちが出演する『大序会』を、開催されています。
綱太夫家の理念を大切にして、ご贔屓を増やしたい
八代目綱太夫は著書『でんでん虫』のなかで、「真剣に人生を見つめ、ひたむきに人間の生き方を追求する」これこそが、綱太夫家代々の目標だと書いています。「私自身、浄瑠璃を語る上で求めている生き方が、集約された文章です。これからも、人生と芸を一体化できるように、精進していきたいですね」と決意を話されました。
織太夫さんが目指すのは、芸の上達だけに留まりません。かつての浄瑠璃人気を、再び蘇らせたいとの希望があるそうです。「今から100年ぐらい前は、大阪市内に2軒の床本(ゆかほん)※5を発行する書店がありました。そこでは、2万冊から3万冊が、毎年売れていたそうです。お風呂屋さんで口ずさむ人がいたりと、それだけ浄瑠璃人口が多かった訳です。かつての浄瑠璃人気を復活させるために、ご贔屓やお客様を育てたいですね」
上方落語の演目には浄瑠璃をテーマにしたものがありますが、江戸後期の大坂には、浄瑠璃を習う稽古屋が500軒もあったそうです。素人の浄瑠璃語りが2万人いて、女流義太夫(女性の浄瑠璃語り)も活躍しました。その女流義太夫に素人弟子が習いに行き、浄瑠璃が広まったという歴史もあるのだとか。「現在文楽座の太夫は20人ほどしかいない状況で、なかなか素人の方々へ直接お稽古をするリソースを取ることは難しいです。私たちが女流の方々へお稽古をする。そして女流の方々が素人の文楽愛好家をお稽古するという好循環を作っていきたい」と、女流義太夫のサポートも、織太夫さんの構想に入っているようです。

師匠の突然の代役を勤めた『義経千本桜』を、襲名披露狂言に
令和10年初春文楽公演での襲名披露狂言は、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』道行初音旅(みちゆきはつねのたび)、河連法眼館(かわづらほうげんやかた)の段と発表されました。この作品は、織太夫さんにとって、忘れられない思い出があります。「令和4年、4月の咲太夫師匠の文化功労者顕彰記念公演の演目も、『四の切(河連法眼館の段)』でした。初日から17日まで無事に勤めておられたのが、体調を崩されてその後は休演となり、急遽私が代役をすることになったのです」
織太夫さんの話は続きます。「この日はテレビ収録日だったので、師匠は『這うてでも出る』とおっしゃっていたのです。『道行初音旅』で忠信を語って舞台を降りたら、その場で代役を伝えられました。着物を着替える暇もないので、肩衣だけ替えるような状態で。ものすごく緊張しましたね」と、当時を振り返ります。

筆者はたまたま、その急な代役の舞台を観劇していたのですが、今でも鮮やかな記憶として残っています。ロビーに代役を知らせる貼り紙がなかったのに、つい先ほど語り終えた織太夫さんが現れたのには驚きました。「道行初音旅」に続いて「河連法眼館の段」が上演されますが、咲太夫師匠は「河連法眼館の段」の切(きり)※6にご出演予定でした。直前に代役を告げられた織太夫さんは、前半のわずか20分の間に準備を整えたことになります。
床(ゆか)※7に近い席だったので、緊張の面持ちなのも、ひしと伝わりました。ドキドキしながら見守っていると、詞章(ししょう・せりふ)を、よく通る声で語る、普段の織太夫さんのモードになり、次第に物語のなかへと誘われていきました。幕切れは、床へ向かって観客からものすごい拍手が送られたのも覚えています。
東京公演でも連日の大入りで、織太夫さんは千穐楽まで代役を勤められました。「この経験は、私の舞台生活のなかで、大きな自信になりましたね」。二代目古靱太夫(こうつぼだゆう 後の山城少掾)の代役を、急遽つばめ太夫(後の八代目綱太夫)が勤めたというエピソードも、縁を感じます。また「道行初音旅」は、祖父の二代目道八襲名の披露狂言としても上演され、伯父の鶴澤清治が文化功労者記念公演を行った時にも、上演されています。
芸の力でお客様に喜んでいただきたい
「歴史観とか現代との違いを埋めるのは、芸の力しかないと思っています」と、織太夫さん。「江戸時代の話なんでしょ、親のために子どもが犠牲になるなんて、といった感覚を埋めるのは、芸の力です。ですから、弟子たちにも、今徹底的に技術を教え込もうと思っています」と力強く語ります。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』や、『義経千本桜』を、ていねいに説明しなくてはいけない時代になったことを憂いつつ、でもやはり作品の魅力を伝えるのは、芸の力だと繰り返します。
「映画や演劇でもそうですよね。演じる人の技術力によって、名作にならない場合がある。演者が作品とどう向き合うか、私たちにできることは、常に技術を磨く。そうすれば、お客様は喜んでくださる。認めてくださると思っています」

撮影/瓦谷登貴子
参考書籍:『でんでん虫』八世竹本綱太夫著 布井書房、『ビジネスパーソンのための文楽のすゝめ』竹本織太夫監修 実業之日本社
竹本織太夫さん出演情報
令和8年 9月国立劇場第58回文楽鑑賞教室
『仮名手本忠臣蔵』Aプロに出演
※『二人三番叟(ににんさんばそう)』と、解説・文楽の魅力を同時上演
■期間:2026年9月10日(木)~9月20日(日)
※14日(月)は休演
■開演時間:Aプロ 午前11時開演(午後1時45分終演予定)
Bプロ 午後2時半開演(午後5時15分終演予定)
■観劇料:一般 6000円(学生2000円)
■会場:江東区文化センター ホール(東京メトロ東西線「東陽町駅」1番出口から徒歩約5分)
公演の詳細な内容:日本芸術文化振興会
https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2026/0809/
チケットの申し込み:国立劇場チケットセンター
https://ticket.ntj.jac.go.jp/
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