虫の音に耳を傾けて

秋の思い出といえば、氏神である久保市(くぼいち)神社(久保市乙剣宮)の祭礼です。10月初め、お囃子や露店に胸を躍らせたものでした。私は祭りの最終日に生まれ、久保市神社の「久」をとって、久司(本名)と名付けられたのです。幼いころ、そのにぎわいが忘れられず、家を抜け出してひとりで神社へ。家中が大騒ぎになったこともあります。
祭りが過ぎると、朝夕の空気が澄み、虫の音がよく聞こえるようになります。ところが10月末から11月にかけて、急に寒くなった日を境に、あれほど鳴いていた虫がぴたりと静かになる。そのころから木々も色づきはじめます。「ああ、また雪の季節が来るのか」と、この時期になると感じます。
けれど、茶の湯にとっては実によい季節。月は冴え、草花の色はしっとり落ち着いてきますしね。道具の取り合わせにも、自然と奥行きが加わりますから。

秋が深まるほど蒔絵の艶が際立つ
今回ご紹介するのは、加賀蒔絵の硯箱「寝覚め」(下)です。硯箱の表に、絵に紛れるように、仮名文字が散らし書きされているのがわかりますか。加賀蒔絵の礎は、加賀前田家3代・前田利常が京都から五十嵐道甫(どうほ)、江戸から清水九兵衛を招き、藩の御用を担わせたことで築かれました。京都と江戸の技が金沢で出合い、武家文化のなかで磨かれていったのです。
蒔絵は、漆で模様を描き、乾かないうちに金銀の粉を蒔く技法です。とはいえ、金を多く使えばよいというものではありません。この硯箱では、金の梨地が月のまわりに一面に広がっています。
秋草を緻密に表す一方で、上方には模様を描き込まず、梨地そのものを見せる空間を大きくとる。華やかなのに、騒がしくない。その加減に、加賀蒔絵らしい品のよさを感じます。だからこそ漆の艶も金の輝きも、ひときわ美しく見えるのでしょう。
また「寝覚め」という作品の名称は、『新古今和歌集』の藤原俊成女の歌を思わせます。
「露はらふ寝覚めは秋の昔にて 見はてぬ夢に残る面影」
──夢から覚めても、恋しい人の姿だけが残っている。そんな歌です。硯箱を前にすると、華やかな秋草の向こうに、涙や夢の名残まで見えてくるような。
茶席に飾れば、月、露、そして長い夜へ。思いはゆっくり広がっていきます。
私にとって月は、月心寺(げっしんじ)というお寺を思い出させるものでもあります。月心寺は、加賀藩に仕えた裏千家4代仙叟居士ゆかりの寺。毎月23日には、居士を偲ぶ茶道隆茗会の月釜が真夏も続いています。仙叟居士は、初代大樋長左衛門を京都から金沢へ伴い、作陶にあたらせました。本堂脇の一室には、仙叟居士夫妻と今日庵歴代、そして大樋家初代の位牌が並びます。見るたびに、お茶を通じて人と家が長くつながってきたことを感じるんですね。
私は時折、「月の心の月心寺」と口にします。秋の月を眺めると、先祖や茶の湯に尽くした方々へ、思いが重なっていく。蒔絵の艶が美しく見えるのも、そんな静かな時間を楽しめる季節だからかもしれません。


奈良宗久(なら・そうきゅう)
裏千家今日庵業躰(正教授方)1969年金沢生まれ。父である10代大樋陶冶斎に師事し、大学時代より日展などに出品。現在は、国内外で茶道の普及、後進の指導に努める。また工芸やアートの領域にも積極的に関わり、その活動が注目を集めている。
茶道教場「好古庵」kokoan-kanazawa.com
※本記事は雑誌『和樂(2026年10・11月号)』の転載です。

