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土偶って何のためにつくられたの?謎だらけの正体に迫る!

笛木 あみ

近年の縄文ブームで、「遮光器土偶」や「みみずく土偶」「ハート型土偶」なんかはすっかり市民権を得ましたね。現在までに出土している土偶の数は、なんとおよそ2万点。それもほんの一部で、日本列島の土の下にはまだまだ未発見の土偶がたくさん眠っているはずです。縄文人土偶ばっかり作りすぎだよ・・・なんてつっこんではいけません。なにせ縄文時代は長いのです。たとえ全ての土偶がその3倍あったとしても、ざっくり1万年で割ると、単純計算で年平均6点、それも「全国で」です。土器に比べれば、土偶は特別な機会にのみ作られる貴重な呪具だったはずなのです。しかも、その貴重な呪具を、1万年もの長きに渡って地道に作り続けたのです。縄文人にとって、土偶とはいったい何だったのでしょうか。

そこで今回は、2万点の土偶に共通する謎の数々から、土偶の正体について考えてみます。3000年の時を超えて、今私達の前に現れた土偶は、一体どんな思いを背負って土の中に眠っていたのか? 縄文人の込めたであろう切実な願いを紐解きます。


国宝 合掌土偶(青森県風張1遺跡出土・後期)(八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館提供)

土偶に共通する謎の数々

土偶と一口に言っても、時代や地域によってその造形は実に様々。なにせ1万年も作り続けたのですから、スタイルが変わっていくのは当然です。しかし、2万点出土している土偶のほとんど全てに共通する特徴もあります。これは、1万年間かたくなに守られ続けた「暗黙の了解」的ルール、あるいは常識が存在したということに他なりません。土偶とはなんだったのか? その謎を解く前に、土偶についてまわる不思議な特徴の数々をご紹介します。

土偶の謎(1)ほとんどの土偶が意図的に壊されている

現在までに出土している2万点の土偶のうち、ほぼ破損がなく、完全体のまま出土した土偶は全体の5%にも満たないと言われています。しかも不可解なのは、経年劣化や土の圧力によって「壊れてしまった」のではなく、「意図的に」壊されてから埋められたとみられることです。中には見る影もないほどバラバラに壊された後、わざわざ230mも離れた別々の場所に分配されたケースもあります。

国宝 仮面の女神(長野県茅野市中ッ原遺跡出土・後期)(尖石縄文考古館保管)中空の体内には、偶然とは思えない量の土がいっぱいに詰められ、また切り離された足と胴体をつなぐ部品が不自然な向きで見つかったことから、右足は埋める前に意図的に切り離されたと見られています。

しかし、わずかではありますが破損のない完全体で出土するケースもあります。壊される土偶と壊されない土偶、あるいは、体の一部のみ壊される土偶と、バラバラにされる土偶、これらは用途が違ったのでしょうか?


長野県坂上遺跡出土・中期(田枝幹宏撮影・井戸尻考古館提供)ほぼ完全形の形で見つかった土偶。両手を広げて顔を斜め上に上げたスタイルは、中期の後半に中部から関東で多く作られましたが、こんなに整った個体は他に類を見ません。それにしてもこの表情、短足胴長のフォルム、すごく癒やされる・・・。

土偶の謎(2)女性、それも妊娠した女性を象ったものが多い

多くの土偶が乳房やくびれを有し、女性を象ったと見られるのはよく知られたところです。中には臀部や腹部が膨らみ、妊娠した女性に表れる正中線の表現さえある土偶もあります。


秋田県漆下遺跡出土・後期(北秋田市伊勢堂岱縄文館提供)大きな胸と妊娠女性を表すお腹の正中線が表現されています。肩周りの文様がオシャレな、なんとも言えない素敵な土偶です。

最古の土偶は草創期後半(BC11,000)のものですが、これらの土偶には顔や手足の表現がないのにもかかわらず、乳房やくびれがはっきりしていることから、明確に女性とわかる造形になっています。土偶は始まりから最後まで、女性性を意識して作られていたのです。一方、後期・晩期の土偶の中には、北海道の国宝土偶に代表されるように、男女両性の表現を併せ持つ性別不明の土偶も存在します。


国宝 中空土偶(北海道著保内野遺跡出土・後期)(函館市縄文文化交流センター提供)ヒゲや腹毛のような文様が入っているし、女性とは思えぬほどガッチリした体型をしていますが、乳房や妊娠女性を表す正中線もあります。性器は・・・うーんどっちとも言えない感じ。

土偶の謎(3)あえて写実表現をしない

かの有名な東北の「遮光器土偶」は、一時期「宇宙人説」が囁かれたほど、奇妙な姿をしています。これは遮光器土偶に限ったことではなく、特に後期〜晩期にかけての土偶は、とても人間とは思えない顔つきのものが多いのです。

遮光器土偶(青森県野口貝塚出土・晩期)(小川忠博撮影・三沢市教育委員会提供)

写実的な表現を避けていたのは後期〜晩期だけではありません。草創期〜前期には、全国的に執拗に顔表現が避けられ、まるでそれが「人間ではない」ことを主張しているかのようです。またもっとも表現が豊かだった中期でも、お尻が極端に大きかったり腕は省略されていたり、とても「写実的」とは言えません。しかし写実表現をする技術がなかったとは考えられません。縄文人の脳の構造は現代人と同じですから、現代人にできることは彼らにもできたはず。ではなぜ、あえて写実的な人形を作らなかったのか、この謎もまた、土偶の正体を知るキーワードになるかと思います。

笑う岩偶(白坂遺跡出土・晩期)(北秋田市伊勢堂岱縄文館提供)とってもかわいいですが、人間というよりは、「優しい怪物」ですよね。

土偶の謎(4)多くの土偶が、赤く塗られていた可能性大

縄文人は、赤色顔料(ベンガラや朱)を効果的に用いていました。赤色顔料は土の中で剥げ落ちてしまうために、現在私達が目にする土偶にはほとんど残っていませんが、よく見てみると、一部に赤彩の残りが認められる土偶が大量にあります。

縄文時代の遺物で、土偶以外に赤く塗られていたものとしては、儀礼に使われた特別な土器、あるいは耳飾りやネックレスなど、いずれも生活道具というよりは縄文人の精神世界に関わるものばかりです。赤という色は、古今東西、血や太陽を象徴する特別な色とされてきました。縄文人が赤い土偶に何を見ていたか? これも、土偶の正体を探る上ではとても大切な問題です。


漆塗りの木製腕輪(青森県是川中居遺跡出土・晩期)(八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館提供)

土偶って結局なんなん?メジャーな仮説をご紹介!

お待たせしました! ここからは、全国の研究者の頭を悩ませている、「結局のところ、土偶って何?」問題について考えてみたいと思います。様々な人が様々なことを言いますが、ここでご紹介するのは、比較的支持者の多い、メジャーな仮説3説です。ではまいります。

仮説(1):再生の祈り・豊穣祈願説

まずは縄文時代についてわからないことがあると、切り札的に何かと出てくる「再生への祈り」説。縄文時代の死生観について、よく囁かれるキーワードに「円環する命」という考え方があります。森羅万象は山(または海)から生まれ、役目を終えた時に故郷へ還っていき、時が満ちればまた命を伴って「この世」に帰ってくる、という考え方です。この死生観に則し、土偶を「命を生む(=再生させる)女性性」の象徴として捉えたのが、「再生への祈り説」です。

ここで重要なのは、命が巡るのは人間だけではないということです。我が国最古の書物「古事記」には、穀物を司る女神「オオゲツヒメ」を殺すことによって、その遺体から稲や粟、麦などの穀物が生まれるというシーンがあります。これは日本に限った話ではなく、女神殺しが食物を生むお話は世界中で見ることができます。つまり土偶は、再生を象徴する女神であり、それを壊すことによって、あらゆるもの(人の命や食物など)の再生を促したというわけです。この説でいくと、壊される場所として腹部が多い理由も納得です。腹部は赤子が宿る場所であり、分散することで増えていくと考えられるからです。


壺を持つ妊婦土偶(長野県目切遺跡出土・中期)(市立岡谷美術考古館提供)

また土偶が出土する場所を考えてみると、墓、盛土(もりど)、貝塚などが一般的です。盛土とは、文字通り土を何世代にも渡って積み上げていく縄文人のモニュメントの一つで、彼らの祖先信仰に関わると考えられています。また貝塚は、動物の骨や壊れた道具だけでなく、時には人の亡骸まで葬られていることから、縄文人の「再生への祈り」を凝縮したような遺物だとする説が有力です。そう、これらはどれも、再生する力を必要とする場所なのです。


千葉県取掛西貝塚(早期)(船橋市教育委員会提供)

ところで縄文人は、土器もまた「命を再生させる女性性」=子宮のメタファーだと考えていたようです。縄文時代は、子供が亡くなると土器の中に埋葬していましたが、ここには「もう一度生まれてくるように」という願いが込められていたのかもしれません。

子供の墓(青森県三内丸山遺跡出土・中期)(三内丸山遺跡センター提供)

この説では、あえて写実表現をしなかった理由を、土偶は女神であり、人間ではないからだと説明されます。執拗に顔表現を避けたり、わざわざ奇妙な造形にすることで、「人間らしく」見えてしまうことを避けたというわけです。

縄文人は、人が亡くなった時、あるいは食物の少ない冬などにきっと祭を行ったでしょう。毎日生まれては死んでいく太陽の色、あるいは生命力の象徴である血の色に塗った土偶に呪力を込めた上で、再生を祈って土の下に埋めたのかもしれません。

仮説(2):鎮魂説

弥生時代以降、もっとも純粋な形で縄文的習俗を引き継いだと言われるアイヌ民族は、役目を終えたモノを廃棄する際、必ずどこかを傷つけてから捨てたといいます。アイヌの世界観によると、森羅万象に魂があり、目に見える姿はその「衣装」に他なりません。亡くなった人、動物、道具が無事に「あの世」へ行くためには、その「衣装」を脱がしてやらなければなりません。あの世へ行けるのは魂だけだからです。

多くの研究者が、このアイヌの習俗を縄文的習俗の名残だと考えています。この「壊さないとあの世へ行けない」という死生観から論じられるのが「鎮魂説」です。縄文人は、人が亡くなると故人を象徴する精霊の像「土偶」を作り、あの世へ持たせるために壊してから埋めたのではないか、というのです。


青森県三内丸山遺跡出土・中期(三内丸山遺跡センター提供)

これなら、土偶にわずかながら女性像ではないものが存在する理由はクリアしています。亡くなるのは当然、女性だけではないからです。では逆に女性像が圧倒的に多いのはなぜか? それは、縄文時代の女性の死因として、出産というのがとても多かったからです。たとえ無事に出産できたとしても、出産経験者の約85%が若くして亡くなっていたそうです。現代人は忘れていますが、新しい命を産むのは、とてもリスキーなことなのです。


長野県花上寺遺跡出土・中期(市立岡谷美術考古館提供)画像だとわかりませんが、体長約4cmの超小型土偶です。小さいけれど、顔の部品や手指などの細部もしっかり表現されています。これが鎮魂のために作られたのなら、亡くなったのは子供でしょうか。

この説では、「奇妙な」見た目の土偶が多いのは「ハレの日(出産の日)」の特別なお化粧、あるいは入れ墨を表すからだといいます。お化粧やタトウーというと、オシャレのように感じますが、縄文時代にはもっと呪術的意味合いが強かったと思われます。縄文人は、新しい命が無事に生まれてくるように、母子ともに健康であるように、呪術を施したのかもしれません。そしてその願い虚しく叶わなかったとき、鎮魂の意味を込めて土偶を作ったのかもしれません。

東京都稲城市多摩ニュータウンNo.471遺跡出土・中期(東京都埋蔵文化財センター提供)

仮説(3):人形(ひとがた)説

続いてご紹介するのは、昨今多くの支持を集めている「人形(ひとがた)説」です。ヒトガタとは、古代から続く日本の文化で、形代(かたしろ)とも言われます。人の形を象った草などに、穢れや厄を移すという習俗です。

その昔、早乙女(さおとめ・田植えを担う女性)のいる家庭では、草で「ひとがた」の人形を作り、体に篭った穢れを移して、川に流していました。田植えというのは、人の命となる米を植えるとても神聖な行事ですから、それを担う早乙女は、心と体をすっかりきれいにしておく必要があったからです。もっとも、時代が下るとお人形は草に代わって紙で作るようになり、やがてはとてもかわいらしいお人形を作るようになります。これでは川に流すのはもったいない、ということで飾り始めたのが「雛人形」の始まりです。今でも、お雛様は女の子の厄をしょってくれる、なんていいますね。

土偶がこの雛人形と同じような役割を持っていたと考えるのが「ひとがた説」です。この説では、縄文人は人に憑く「悪霊(病気や怪我)」を、身代わりになる土偶に移し、悪霊がついていると思われる部分を壊した上で、埋めたのだと説明されます。つまり、呪術的「治療」というわけです。女性像が多いのは、無事に出産できる可能性が低かった縄文時代、妊婦の腹部に悪霊がついている、と考えたからかもしれません。


青森県風張1遺跡出土・後期(八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館提供)左手で左頬を押さえるサザエさん・・・ではなく、ポーズ土偶。まさか、虫歯の身代わり土偶・・・? いやいや、きっとなんらかの呪術を行っているポーズなんでしょうね。

ところで、これも古いお話ですが、その昔アイヌ民族は子供に人形遊びをさせるのを嫌ったといいます。人形には悪霊が憑きやすいと考えられていたからです。ところがそんなアイヌも、人が病気になると、人形を作ってそれを身代わりとし、悪霊を移したんだそうです。そして人が亡くなると、人形も壊してあの世へ送るのです。

しかし、土偶が年平均1個か2個しか作られていなかったことは、明記するに値します。もしも病気やケガのたびに作られていたのなら、とんでもない量になっていたはずなのです。もしかしたら、土偶は早乙女のような特別な人(シャーマンや首長など)のためのみに、作られたのかもしれませんね。土偶の「奇妙な姿」は、シャーマンの仮面や入れ墨だったのかもしれません。


長野県平出遺跡出土・中期(塩尻市立平出博物館提供)「ドラえもん土偶」の愛称で親しまれていますが、顔に施されているのは、ヒゲではなく、たぶん入れ墨です。

縄文人の心に直接触れる

土偶って、結局なんだったの? その答えは、「縄文人のみぞ知る」ですが、比較的支持者の多いメジャーな仮説をご紹介しました。もちろん、現在までに囁かれている仮説はこれだけではありません。ムラの守り神説・子供のおもちゃ説・安産祈願説など、土偶にまつわる仮説はたくさんあります。また、2万点出土している土偶の全てが、全く同じ目的で作られたとはちょっと考えにくいことでもあります。

ぜひ、お近くの考古館に足を運び、土偶と対面してみてください。そして、対面した土偶がなんのために作られたのか、想像を巡らせてみてください。3000年以上の時を超えて、縄文人の祈りの形がまさにここにあるのだと思うと、感動もひとしおですよ。

前編はこちら!
1万年以上作られていた! 土偶が語る縄文ネットワーク事情が濃い!

笛木 あみ

横浜生まれ。お金を貯めては旅に出るか、半年くらい引きこもって小説を書いたり映画を撮ったりする人生。モノを持たず未来を持たない江戸町民の身軽さに激しく憧れる。趣味は苦行と瞑想と一人ダンスパーティ。尊敬する人は縄文人。縄文時代と江戸時代の長い平和(a.k.a.ヒマ)が生み出した無用の産物が、日本文化の真骨頂なのだと固く信じている。