縄文時代の土偶がかわいい!1万2000年の歴史を5分で解説!

縄文時代の土偶がかわいい!1万2000年の歴史を5分で解説!

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縄文時代のスターといえば、現代の「ゆるかわ」キャラクターとも比較されちゃう土偶ですね。しかし、1万年の間に作られた大量の作品は、「土偶」と一括にはできないほど多種多様。国宝級の土偶があると思えば、粘土遊びのような稚拙なものもあるし、手のひらサイズの小さな土偶があれば、30cmを超える大型のものもあります。しかしこれら土偶は、決してはじめから多種多様だったわけではありません。1万年の歴史の中には、培われた伝統があり、変遷があり、大きな革命があったのです。

そこで今回は、縄文人のクリエイティビティの代名詞とも言える土偶の歩みを振り返ります。時代や地域によって、土偶のスタイルはどのように変わっていったか? あの有名な土偶は、いつ時代のどこで、どんな背景の元に作られたものなのか? 1万2000年の歴史を、さらっと5分でおさらいします!


縄文時代の時代区分。一般的に、「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の6つの区分に分けます。草創期のまあ長いこと!

【草創期】土偶の初現は、定住をはじめてから

土偶の初現は今からおよそ1万3000年前、縄文草創期後半にまで遡ります。縄文時代の幕開けからおよそ2000年後、ちょうど定住生活が板についたあたりです。それまでは、一定期間同じ場所に住んだとしても、季節毎に場所を変えるなど、とても緩やかな定住でした。つまり、生涯に渡って住む家が決まり、「ここが私達の属す場所」という帰属意識が生まれてはじめて、土偶は作られはじめたということです。


最古の土偶(滋賀県相谷熊原遺跡出土・草創期)(滋賀県教育委員会提供)「はじめにして完成形」という言葉がふさわしい、シンプルかつ美しいフォルムです。首らしき部分に穴が空いている理由はまだ解明されていませんが、これは伝統としてその後作られる数多くの土偶に引き継がれていく特徴の一つです。

この頃の土偶で現在見つかっているのは、滋賀県の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡と、三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡の2体のみ。特筆すべきなのは、この2つの遺跡がどちらも、草創期にしてはかなり大きな集落だったこと。土偶はムラを守る女神的な存在だったのかもしれません。


最古の土偶(三重県粥見井尻遺跡出土・草創期)(三重県埋蔵文化財センター提供)どちらの土偶も女性の胸部を象ったトルソー型で、大きさは手のひらに収まる「お守り」サイズ。

【早期】北は北海道から南は九州まで!みんなで同じ土偶を作る

やがて早期になって、全国的に定住が本格化してくると、土偶も北海道から九州まで、広い範囲で作られるようになります。見た目は草創期のものとほとんど同じ。しかも、全国的にとてもよく似ています。北海道から九州なんて、ずいぶんと離れているのに、全部の土偶が同じ姿というのは不思議ではないですか。顔を描く集落があってもいいし、脚をつける集落があってもいいと思うのです。早期にはすでに、縄文ネットワークでつながった結束力が働いていたのでしょうか?


早期の土偶。左から千葉県小室上台遺跡出土(船橋市飛ノ台史跡公園博物館提供)、青森県根井沼(1)遺跡出土(三沢市教育委員会提供)、鹿児島上野原遺跡出土(重文・鹿児島県立埋蔵文化財センター提供)

【前期】豊かな植生の中でスタートした本格的土偶祭祀

前期になると急に日本列島の気温が暖かくなります。縄文前期の海面は、現在より3mほど高かったと言われています。(これを「縄文海進」といいます)現在、日本人が世界に向かって自慢する「自然豊かな日本」はこの時期に育まれたわけです。

さて、気候が温暖かつ安定してくると、爆発的に人口が増えていきます。それに伴い、東日本を中心に土偶の数も増えます。前期も後半になってくるとプチ革命が起こり、頭部・腕部・脚部の表現が出てきますが、しかしここでもまだ顔表現はありませんでした。


青森県三内丸山遺跡出土・前期(三内丸山遺跡センター提供)

顔など問題ではない!大事なのはエロスの集まる体幹部分!

前期までの土偶には、それがまるでお約束事であるかのように、顔面の表現がありません。その理由は縄文人に聞いてみないとわかりませんが、確実に言えるのは、顔より体幹が大事だったということです。個性を尊ぶ現代においては、顔はその人らしさを表す大事な部分ですが、新たな生命の誕生を最も尊ぶ縄文時代に大切にされたのは、性を象徴する体幹部分であったはずだからです。

縄文時代の遺物には、性を象徴したものが多いという特徴があります。縄文人は確実に「男性性と女性性が交わることで新たな生命を生む」ことを意識していました。これは人間や動物に限ったことではありません。縄文人は「太陽と月」「生と死」「山と海」などこの世のあらゆるものに男性性と女性性の二項対立概念を適用していたとみられています。この考え方でいくと、土偶は「この世のあらゆるものの」女性性、つまり「命を生むもの」の象徴だったのかもしれません。


顔面把手付深鉢形土器(長野県榎垣外遺跡出土・中期)(市立岡谷美術考古館提供)こちらは中期の土器ですが、女性性と男性性が非常に上手く表現されています。文様として施された蛇は男性性の象徴、また土器は子宮のメタファーだと考えられています。

【中期】ゴールデンエイジに起きた大革命!

土偶にはじめて顔が現れたのは、初現からおよそ6000年後の中期です。中期は、縄文文化が最も創造性と生命力にあふれていた「ゴールデンエイジ」で、土偶にも各地で様々な革命が起きています。顔表現がされるにとどまらず、今まで小さかった土偶が自立できる大きなサイズになったり、土偶の中を空洞にしてみたり、ポーズをとらせてみたり、土器に土偶のような顔をつけてみたりと、表現も技術もぐんと広がります。


山梨県鋳物師屋遺跡出土・中期(山梨県南アルプス市教育委員会提供)こちらは中が空洞のポーズ土偶。腰とお腹に手を当てた妊婦さんです。中には何か内容物(土球など)が入っていたと考えられています。


新潟県長者ヶ原遺跡出土・中期(糸魚川市教育委員会提供)こちらも中空土偶。これだけのフォルムを作るだけで大変なのに、中を空洞にするなんてものすごい技術です。空洞の中には、魂や、なんらかのエネルギーが籠もると考えたのでしょうか。

表現が豊かになると、当然地域的な特色も出てきます。北海道〜東北地方では、早期の伝統を引き継いだ板状の土偶が大流行。青森県三内丸山遺跡では、さすが大集落、ことあるごとに作っていたのか大量に出土しました。


青森県三内丸山遺跡出土・中期(三内丸山遺跡センター提供)

一方、関東から中部にかけては、国宝「縄文のビーナス」に代表されるような腹部がふくよかでお尻が大きい、より女性的な表現が好まれます。


国宝 縄文のビーナス(長野県茅野市棚畑遺跡出土・中期)(尖石縄文考古館保管)

憧れのビーナスは、みんな欲しかった

おもしろいのは、国宝に指定されている「縄文のビーナス」(長野県)や「縄文の女神」(山形県)は、縄文人にとっても、どうやら傑作だったらしいということです。


国宝 縄文の女神(山形県西ノ前遺跡出土・中期)(山形県立博物館提供)

現在見つかっている2万点の土偶のほとんどが、「意図的に」壊されて出土する中、長野県の「縄文のビーナス」はほぼ完全形のまま、破損のない状態で発見されました。これだけでも「特別扱い」のにおいがプンプンしますが、さらに驚きなのは、どうやらこれら「傑作」をマネして作ろうとしたらしい土偶がたくさんあるということです。


山形県西ノ前遺跡出土・中期(山形県立博物館提供)国宝の「縄文の女神」にそっくりです。

たとえば、山形県の「縄文の女神」は、国宝となっている傑作以外にも様々な種類が見つかっています。また長野県の「縄文のビーナス」に顔やフォルムが似ている土偶は、山梨県、東京都、さらに茨城県でも出土しています。おそらく、祭か何かでやってきた人々が、これら傑作に出会って感動し、うちに戻って再現しようとしたけれど、技術が足りなくてあんまりうまくいかなかった、とまあ、そんなところでしょうか。

【後期】何があった!?奇妙奇天烈な土偶が大流行!

縄文文化の黄金時代とも言える中期ですが、中期終末になると、どういうわけか東北地方南部を除き、いったん土偶が日本列島から消滅します。この時期に何があったのかはわかりませんが、本当に、全く、消えてしまうのです。次に東日本で土偶が出現するのは後期の前半ですが、やっぱり間が空いているからか、この時期の土偶は中期までの伝統からちょっぴり逸脱しています。後期に流行ったスタイルは、ずばり、「奇妙な土偶」です。仮面をかぶっていたり、顔の輪郭が変だったり、目が大きすぎたり、なんだかアニメキャラのようなのです。現代人に大人気の「みみずく土偶」「ハート型土偶」などは、この時期に流行ったスタイルです。


国宝 仮面の女神(長野県茅野市中ッ原遺跡出土・後期)(尖石縄文考古館保管)


左:みみずく土偶(千葉県遺跡出土・後期)(佐倉市教育委員会提供) 右:ハート型土偶(福島県荒小路遺跡出土・後期)(福島県文化財センター白河館提供)

さらに後期には、動物型の土偶も登場します。縄文人の命綱、イノシシはもちろん、クマ、ムササビ、鳥、カメ、そして大切なビジネスパートナーかつ家族の一員であった犬たちも。


イヌ形土製品(栃木県藤岡神社遺跡出土・後期)(栃木県教育委員会提供)縄文人は犬を家族として特別扱いしていました。縄文遺跡では、人間と同じように大事に埋葬された犬の墓が見つかることがあります。

【晩期】縄文を途絶えさせてはならない!各地に広がる遮光器土偶ムーブメント

そして水田稲作が日本列島へ到達する晩期になると、東北地方で「遮光器土偶」が登場します。歴史の教科書に登場する、おそらく日本でもっとも有名な土偶です。遮光器土偶の大きなゴーグルを着けたような目は突然現れたものではなく、後期の「奇妙な土偶」たちが変化したものと見られています。


遮光器土偶(青森県野口貝塚出土・晩期)(小川忠博撮影・三沢市教育委員会提供)

遮光器土偶を有す東北地方の文化を「亀ケ岡文化」といいますが、どうやらこれは縄文最後の大きなムーブメントだったようで、その影響を受けていると思われる土偶のスタイルは、北は北海道から南は近畿地方まで広がりを見せています。


遮光器土偶(秋田県星宮遺跡出土・晩期)(秋田県大仙市教育委員会提供)

その後、遮光器土偶は北海道〜東北地方にて、「結髪(けっぱつ)土偶」と呼ばれる髪を結んだようなスタイルへと変化していきます。また関東・中部・東海エリアでは、顔に入れ墨を施した「黥面(げいめん)土偶」といわれる土偶が現れます。


結髪土偶(山形県釜淵C遺跡出土・晩期)(山形県立博物館提供)

土偶は、縄文時代が終わってもしばらく作られていたようですが、数は圧倒的に減少し、祭祀における役割も変化していきます。九州を玄関口に押し寄せた水田稲作という文化は、人々の生活を変えるだけでなく、1万年続いた信仰の形もガラリと変えてしまったわけです。


黥面土偶形容器(長野県下境沢遺跡出土・弥生時代前半)(塩尻市立平出博物館提供)弥生時代に入ると、土偶形の容器が出てきます。映画「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシみたいでかわいい!

土偶って、結局なんなんだ?

以上、1万年の土偶の歴史を駆け足で追ってきました。地域や時代ごとに、実に多種多様な変化を遂げた土偶ですが、よくよく考えてみると、全ての時代、全ての地域におしなべて共通する特徴もあります。たとえば、意図的に体の一部を壊してから埋めるということ、女性を象ったと思われる土偶が圧倒的に多いこと、などなど、縄文土偶が地域や時代を超えて守り続けた「ルール」はたくさんあるのです。これは列島を縦横無尽に行き来する「縄文ネットワーク」の凄まじい結束力を語るだけでなく、土偶が1万年という途方もない時間の中、ある共通の意義・目的を持って作られ続けていた可能性をも示唆します。

さて、縄文人が1万年もの間作り続けた土偶には、いったいどんな意味があったのでしょうか? 次回は、土偶とは結局何だったのか、縄文人は、土偶にどんな祈りを込めたのか、その謎と仮説をご紹介します。お楽しみに!

後編はこちら!
土偶は縄文人の雛人形?謎しかないその正体に迫る!

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