甲冑姿の武者を背に颯爽と駈け抜ける、すらりと美しい馬たちの風になびくたてがみ。トップモデルのようなスレンダーボディーと華奢な脚を見せつけるようなカメラアングル、そして力強く優雅な動き。時代劇などで見る大迫力の騎馬武者たちの姿には、子供心にもわくわくさせられたものでした。
あんなきれいな馬に乗って走ってみたい! そんな憧れを抱いたかたも多いのではないでしょうか。以前、とある乗馬施設で見せてもらった、大河ドラマ主人公の愛馬役を務めたという金色に輝く毛並の馬も、生きた芸術品と言われるサラブレッドでした。
しかし、絵巻物はじめ昔の日本画を見ていると、何やら違和感が。これは絶対、あの時代劇の馬たちじゃない……。
戦国武将たちは「ポニー」に乗っていた!
それもそのはず、時代劇などに出演している馬たちは、近代になって欧米からもたらされたサラブレッドなどがメイン。戦国時代の日本にはいなかった種類の馬なのです。
では、戦国武将たちは、どんな馬に乗っていたのでしょうか?
代表的な種類がこちら。今の長野県で多く飼育されていた、木曽馬(きそうま)です。トップモデルじゃない……けど、ずんぐりむっくりしていて、すごく可愛い……。性格も、繊細で敏感なサラブレッドに比べて、のんびり屋さんなのだそうです。
こんな小さな体ですが、けっこうパワフルで、甲冑を着た人を乗せて山越えなどもしていたとか。速く走ることに特化したサラブレッドより走るのは遅いですが、かなりの力持ちです。この素朴で愛らしい体型が、遺憾なく実力を発揮しているのかもしれませんね。
古くから日本にいた在来馬たち
日本に古くからいた馬たちを、日本在来馬(にほんざいらいば)と言います。古墳時代に朝鮮半島から持ち込まれ、長きに渡って日本人の生活を支えてきたのが、この在来馬たち。戦国時代には、馬借(ばしゃく)と呼ばれる、人や荷物を馬に乗せて運ぶ職業もあり、もちろん合戦でも馬たちは平安時代から活躍していました。
現在、在来馬は8種類が残っています。また、南部馬、三春駒、三河馬、甲斐馬など9種類も、かつては存在していました。
北海道和種(ほっかいどうわしゅ・「どさんこ」とも)
主な産地:北海道
木曽馬(きそうま)
主な産地:長野県
野間馬(のまうま)
主な産地:愛媛県
対州馬(たいしゅうば)
主な産地:長崎県対馬
御崎馬(みさきうま)
主な産地:宮崎県
トカラ馬
主な産地:鹿児島県トカラ列島
宮古馬(みやこうま)
主な産地:沖縄県宮古島
与那国馬(よなぐにうま)
主な産地:沖縄県与那国島
これらの馬たちはモウコノウマ系で、体高(地面から肩のあたりまで)が約120~140㎝程度(100~120㎝の種類もあり)の、小柄な種類です。現在の基準だと体高147㎝以下をポニーと呼ぶので、在来馬はポニー扱いになります。戦国武将たちはみんなポニーに乗っていたんですね。
ただ、「ポニー」に規定される範囲はかなり広く、小さな子どもが乗るようなごく小柄なものから、サラブレッドなどに迫るような大きさのものまでいるため、一般的にイメージする「ポニー」の大きさとは少し異なるかもしれません。
体の大きかった武将などは、馬に乗っても地面に足がついてしまったと伝えられています。多少の誇張があったかもしれませんが、それだけ馬が小さいのが当たり前だったということにもなりますね。
とはいえ、乗用馬として充分な大きさとがっしりした丈夫な骨格を持っていて、蹄は硬く、粗食にも耐えられた優秀な存在でした。そして、よい馬を持つことが武将たちのステータスともなっていました。山内一豊の妻が嫁入りの持参金をこつこつ貯金し、これぞと思った名馬に躊躇なく大金をつぎ込んで手に入れさせた逸話は有名ですね(創作だそうですが……)。
ちなみに、サラブレッドはアラビア原産のアラブ種やイギリスのハンター種を掛け合わせた改良品種。祖先を辿っていくと、必ず「バイアリー・ターク」「ダーレイ・アラビアン」「ゴドルフィン・アラビアン」の3頭のどれかにたどり着きます。
日本在来馬の毛色
在来馬の毛色には、いろいろな種類があります。その中から、戦国武将の馬の名前として残っている毛色をご紹介します。
鹿毛(かげ)
最も一般的な毛色。体毛が茶色で、たてがみや尾が黒いもの。四肢の先が黒くなるのも特徴の1つです。
栗毛(くりげ)
こちらもポピュラーな毛色。体毛もたてがみや尾なども茶色の馬。濃淡によって、名前が細分化されています。
葦毛(あしげ)
生まれた時には黒や茶色の体毛で、次第に白くなっていく毛色。丸い模様が連続して浮き出てくる「連銭葦毛(れんぜんあしげ)」などもいます。サラブレッドだと、オグリキャップやクロフネなどが有名。
黒毛(くろげ)
文献に残されている毛色です。現在の区分にはありませんが、青毛(あおげ)という、真っ黒い体毛の馬や、黒味の強い鹿毛の青鹿毛(あおかげ)、黒鹿毛(くろかげ)などに該当するものを纏めてこう呼んでいたのかもしれません。
河原毛(かわらげ)
体毛が黄色みを帯びた薄褐色で、たてがみや尾などが暗褐色となります。
月毛(つきげ)
ごく薄い茶色の体毛に、体毛と同色、あるいはそれより白っぽいたてがみや尾を持ちます。西洋では、パロミノとも呼ばれます。
粕毛(かすげ)
茶色や黒の体毛の中に、白い差し毛が混ざるもの。
佐目毛(さめげ)
体毛が白く、目が青い馬。神社で神馬となっていることも多い毛色です。
馼毛(ぶちげ)
大きな白いまだら模様がある毛色。
戦国武将たちの愛馬
もちろん、写真などは残っていませんが、文字の記録として、戦国武将たちの愛馬の名前や逸話が伝えられています。
この時代の馬の名前には、毛色や大きさなどの特徴を基本にしているものが多く見られ、同じ名前で別個体の馬の記録が残っていることも珍しくありません。
織田信長
織田信長は特に馬好きで、たくさんの愛馬の名が知られています。
鬼葦毛(おにあしげ)
天正9(1581)年、織田信長が家臣団を総動員して内裏で行った軍事パレード「京都馬揃え」において一番入りした、信長のお気に入りの馬。
小鹿毛(こかげ)
京都馬揃え二番入り。
大葦毛(おおあしげ)
京都馬揃え三番入り。
遠江鹿毛(とおとうみかげ)
京都馬揃え四番入り。
小雲雀(こひばり)
京都馬揃え五番入り。
河原毛(かわらげ)
京都馬揃え六番入り。
大黒(おおぐろ)
京都馬揃えで信長が騎乗。
白石鹿毛(しろいしかげ)
伊達輝宗より献上された、奥州の名馬。
がんぜき黒(がんぜきぐろ)
白石鹿毛同様、伊達輝宗より献上された、奥州の名馬。
馼(ぶち)の馬
奥州より献上された馬。
ものかは
天文23(1554)年の村木攻めの際に騎乗。
やばかげ
鹿毛の馬か。天正10(1582)年の爆竹馬場入りの際に、馼の馬、遠江鹿毛とともに乗られた名馬。
愛相馼(あいそうぶち)
蘆名盛隆が献上した馬。
星河原毛(ほしかわらげ)
常陸より献上された、30里にも耐えるとされた名馬。
織田信忠
雲雀毛(ひばりげ)
信長秘蔵の名馬を拝領。
武田信虎
鬼鹿毛(おにかげ)
「甲陽軍鑑」には、子の信玄が強く望むも、決して渡さなかったといいます。
武田信玄
黒雲(くろくも)
非常に気性が激しく、信玄以外は扱えなかったという黒毛の馬。
武田勝頼
大鹿毛(おおかげ)
武田氏滅亡後は、織田信忠の愛馬となりました。
上杉謙信
放生月毛(ほうしょうつきげ)
川中島の戦いで騎乗していたとされる名馬。
豊臣秀吉
奥州黒(おうしゅうぐろ)
中国大返しの際に騎乗したとされ、25里を駈けたという名馬。
豊臣秀頼
太平樂(たいへいらく)
天下一と評された名馬でしたが、秀頼がこの馬に乗って大坂の陣に参戦することはありませんでした。
徳川家康
白石(しらいし)
毛色は黒。白石という名前は、毛の色とは関係なかったのかもしれません。
黒馼(くろぶち)の馬
粟田口吉光の脇差、一文字の長刀とともに信長から拝領した名馬。
徳川秀忠
桜野(さくらの)
大阪の陣で活躍した、栗毛に白い差し色が混じった名馬。
本多忠朝
百里黒(ひゃくりぐろ)
駈ければ瞬時に目的地に着いたと言われる、俊足の名馬。
蒲生氏郷
小雲雀(こひばり)
信長より拝領した名馬。
明智左馬介秀満
大鹿毛(おおかげ)
山崎の合戦で敗走した際、秀満を乗せたまま琵琶湖を泳ぎ切って、無事坂本城に帰還させたと伝わっています。
山内一豊
鏡栗毛(かがみくりげ)
妻の千代(見性院)の持参金で購入した、東国一の名馬。
加藤清正
帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)
6尺3寸(約190cm)と伝わる清正の愛馬。
長宗我部元親
内記黒(ないきぐろ)
豊臣秀吉より拝領した、葦毛馬。葦毛は黒や茶などの毛が年齢とともに白く変化する毛色であるため、当初は黒かったのかもしれません。窮地に陥った主を救ったとされ、元親の墓の近くに内記黒の墓も佇んでいます。
森長可
百段(ひゃくだん)
長可の居城である金山城の石段100段を駈け上ったという名馬。長可の末弟の忠政が死を悼んで神社を建立しました。
島津義弘
膝突栗毛(ひざつきくりげ)
長寿院栗毛(ちょうじゅいんくりげ)とも。木崎原の戦いで一騎打ちの際、膝を折り曲げて義弘の危機を救ったとされます。
前田利家
京水(※読みは不明)
陸奥平定の際に、増水した川を渡った強靭な名馬。
前田利益
松風(まつかぜ)
利家を謀って奪ったとされる、強靭で俊足な名馬。巨体の利益を乗せてもびくともしなかったといいます。
本多忠勝
三国黒(みくにぐろ)
主君秀忠より拝領した、巨体の馬。関ヶ原の戦いで戦死。
真田信繫
真田栗毛(さなだくりげ)
後に、松平忠直の愛馬となり、忠直の改易の際にも連れていかれた名馬。
滝川一益
えび鹿毛(えびかげ)
一益が上野入国の際に、信長より拝領した馬。
藤堂高虎
賀古黒(かこぐろ)
中国一の大力、賀古六郎衛門を討ち取った際に戦利品とした馬。
軍馬は噛みつくのがいい?
軍馬は噛み付くくらい気性の激しいものがよい、とされた時代もありました。源頼朝の愛馬で、後に家臣佐々木高綱に下賜された名馬生唼(いけずき・池月、生食とも)は、誰にでも噛みついていく攻撃的な性格だったので、そのことから名前が付けられたという逸話が残っています。
のんびり屋さんが多い在来馬も、人によく慣れさせていないとこうなるのだとか。多くの時間を放し飼いで育てるなど、意図的にそんな風に育てていたのだそうです。
ただ、そうした気性が好まれたのは南北朝時代くらいまでと言われています。戦国時代の馬たちは、今に近いような穏やかな性格だったのかもしれませんね。
戦国時代はまだ夢がいっぱい
現在、戦国時代の定説が覆りはじめています。騎馬武者の戦法についても研究段階で、 有名な武田の騎馬隊がどのような戦い方をしていたのかも諸説紛々です。ずんぐり馬くんたちが頑張っていた姿を、タイムマシンが発明されたら見に行ってみたいものです。