明智光秀はなぜ織田信長を討った!戦国最大の謎に迫る

明智光秀はなぜ織田信長を討った!戦国最大の謎に迫る

織田家重臣の明智光秀(あけちみつひで)は、2020年の大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公です。天下統一を目前にした織田信長(おだのぶなが)が、京都の宿所で討たれた本能寺の変は、戦国史のみならず、その後の日本の歴史を変えた一大事件としてご存じの方も多いでしょう。

しかし、光秀がなぜ主君に謀叛(むほん)を起こしたのか、その動機は諸説あるもののいまだ明らかにされておらず、多くの謎に包まれています。

日本史3大ミステリーシリーズ・第2回

和樂Web「日本史3大ミステリーシリーズ」第2回は、本能寺の変の概略と最近の説を紹介しつつ、謎の核心に迫ってみたいと思います。ぜひ皆さんも推理してみてください。

織田信長が討たれた本能寺は京都のどこにあったのか

本能寺の信長公廟

天正10年(1582)6月2日は、太陽暦では6月21日にあたります。夏の夜がまだ明け初めぬ刻限、老(おい)の坂峠を下り、桂川を渡って七条口から京に入る軍勢がありました。旗印は「水色桔梗(ききょう)」。明智光秀率いる13,000の軍です。京に入った明智勢は数隊に分かれ、堀川通、油小路(あぶらのこうじ)通、西洞院(にしのとういん)通などを北上、目指すはさいかちの木に囲まれた本能寺でした。

同じ頃、本能寺。朝の早い信長はすでに起床していたようです。軍勢が寺に迫る喧騒を、信長や小姓たちは下々の者の喧嘩かと思いますが、騒ぎが収まるどころか鬨(とき)の声が上がり、鉄砲が撃ち込まれるに及んで、敵襲であることを知りました。「これは謀叛か。いかなる者の企(くわだ)てぞ」と信長が問うと、側近の森蘭丸(もりらんまる)が「明智の手勢と思われます」と応えます。信長は「是非に及ばず」とのみ口にしました・・・。

以上は太田牛一(おおたぎゅういち)『信長公記(しんちょうこうき)』などが記す、本能寺への襲撃が始まる様子です。まず事件の現場を確認しておきましょう。

本能寺は現在、京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町にあり、境内には信長公廟もありますが、実はこの地は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で、本能寺の変後に移転したもので、実際に本能寺の変が起きた場所とは異なります。

かつての場所は中京区元本能寺南町で、北は六角通、東は西洞院通に面した東西約110m、南北220mに及ぶ広大な寺域でした。しかも信長の命令で四方に堀と土塁をめぐらした城郭構えに改められ、土塁に沿ってさいかちの木が植えられていました。さいかちの幹にはとげがあり、侵入者を防ぐねらいがあったのでしょう。明智勢は、さいかちの木に囲まれた「本能寺の森」を襲撃の目印としました。現在、一帯は、京都市立堀川高等学校本能学舎や高齢者福祉施設となり、本能寺跡を示す碑が建てられています。

本能寺跡碑

明智光秀とは何者なのか? 本能寺の変直前の織田家の状況とは?

明智光秀像

次に事件の首謀者・明智光秀のプロフィールと、当時の織田家の状況を確認しておきます。

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