伊達氏も!六角氏も!「分国法」を見てみたら戦国大名の哀愁にびっくり!

伊達氏も!六角氏も!「分国法」を見てみたら戦国大名の哀愁にびっくり!

戦国大名ほど強い存在はいない。歯向かえば、即刻にして打ち首的な処遇が下される。皆が恐れおののき、ひれ伏すに違いない。そういう意味では、今の世の中、組織のトップになったところで、やれパワハラだ、働き方改革だと下から突き上げられ、さらに上の方々からは目標達成を求められる。「ホント、損な時代だよな」と思っていないだろうか。

全くもってそれは間違っている。断言しておこう。戦国大名ほど、様々な面で苦労した「地位」はない。なんといっても下剋上の世の中だ。謀反を起こして実力で勝ち取ったとしても、明日は我が身。いつ、逆の立場になるか分からない。安泰とは程遠い精神状態の中、物理的には隣国と常に戦をしながら領土を守り、自国内を安定させなければならない。まさにハードな人生だ。

実際、戦国大名を取り巻く環境は厳しく、領地や家臣、犯罪など、ありとあらゆるもめ事が混在していた。そんな戦国大名の苦悩が垣間見えるのが、「分国法(ぶんこくほう)」だ。現在の法律のようにきちんと整備されたものは少なく、中には条文の作成過程で、思わず心の声がダダ洩れしているものも。

これを読めば、傷心の管理職の方々には少しの励みになるやもしれぬ。
とくと、お聞きなされ。人間味溢れる戦国大名の「生の声」を。

分国法が制定されている方が珍しい?

じつは、分国法は必ずしも制定されるものではない。

というのも、戦国時代では各大名が統治する地域が「国」であり、国内での支配力強化のために、独自の「分国法」が制定されることが多かったからだ。逆をいえば、支配力の強化に努めなくとも問題のない大名は、分国法を制定していないといえる。
つまり、争いごとを回避するために成立した分国法は、当時の大名の抱える問題が透けて見える貴重な資料というわけだ。

現在伝わっている主な分国法は、十前後の数しかない。捉え方によっては、主君と家臣の間で取り決められたものや、子孫に対する家訓なども含まれているため、純粋な分国法は少数だろう。その中から、今回は特徴ある3つの分国法を取り上げる。

「同士討ち」の対処法を制定した画期的な『塵芥集(じんかいしゅう)』(伊達家)

まず、最初に紹介するのが、当時の陸奥国(むつこく)(現在の福島県など、時代により範囲が変わる)を支配していた伊達植宗(だてたねむね)の『塵芥集』である。1536年に制定され、完備したものだと171条からなる(伝本により異なる)。

この伊達植宗とは、伊達政宗(だてまさむね)の曾祖父に当たる人物だ。伊達政宗自身が、会ったことのない曾祖父を、他人にきつく当たり恨みを抱かない者はいなかったと評しているほど。結果的には、有力家臣が離れ、嫡子に身柄を幽閉されるに至る。

ただ、制定された『塵芥集』に関しては、様々な評価がなされるが、こと「同士討ち」に関しては画期的な条文と称されることが多い。

じつは、戦国時代において、戦国大名の多くが頭を悩ませていたのが「同士討ち」である。同士討ちとは、その名の通り、同士を誤って討ってしまうことである。当然、味方の顔をすべて把握しているわけではなく、乱戦になると、それぞれの装備だけで判別がつかない。目印の「袖印(そでじるし)」も戦いの中であえなくちぎれ、死ぬか生きるかの瀬戸際では予め決められた合言葉も出ないなどの状況。そのため、当時の戦場では、残念ながら同士討ちは避けられない事態であった。

同士討ちの取り扱いは、親族にとっては大いに影響する事柄。塵芥集は、この同士討ちを「名誉の戦死」と定めている。以後、全国的にもこの方針が主流となったようだ。

明らかに条文の文末が他と違う『六角氏式目(ろっかくししきもく)』(六角家)

一方で、近江源氏の嫡流、近江国(現在の滋賀県)の南半を治めていた六角承禎(ろっかくじょうてい)・義治(よしはる)父子の定めた分国法『六角氏式目』を見て頂こう。1567年に制定され、67条からなる。これは、説明する前に条文を見て頂く方がより分かりやすい。

「審理を行わずに一方的に御判や奉書を発給なさってはならない」(37条)

「荘園の段銭は今後も先例どおりにお命じになられよ。それに準じて国中の臨時の雑税も、つねに土民百姓らへの憐れみをお忘れなく賦課なされるように」(39条)
『戦国大名と分国法』 清水克行著より

他の分国法と異なり、文末が明らかに敬語である。というのも、これは家臣が六角承禎・義治父子に対して草案したものだからだ。

家臣が叛逆(はんぎゃく)した「観音寺騒動」の4年後に制定された六角氏式目。つまり、この分国法は、六角家父子と家臣たちが新たな関係を結ぶ誓約書であり、家臣たちから突き付けられた願いだったと解されている。そのため、戦国大名に対してあまりに身勝手な振る舞いを戒めるような条文の内容となっている。

日本は「タテ社会」と揶揄されるが、家臣から、大名をも縛る法律の制定を迫られるとは、なんとも不憫な境遇といえよう。

家臣に苦労したことが丸わかり『結城氏新法度(ゆうきうじしんはっと)』(結城家)

どれほど部下に苦労していたとしても、下総国(しもうさのくに)の結城地方(現在の茨城県結城市)を治めていた結城政勝(ゆうきまさかつ)と比べれば、マシな方だと慰められる。最後に紹介するのが、かの有名な『結城氏新法度』だろう。1556年に制定され、全104条、追加2条からなる分国法だ。どうしてこの法律を定めたのか、その理由を書いた前文を一部抜粋する。

「縁者親類の訴訟が起きると、まるでサギをカラスと言いくるめるような横車を押して、縁者親類や配下の者たちなどから頼もしがられようとしているのではないか。とても死ぬ気などないくせに、目を怒らせ、刀を突きたて、無理な言い分を押し通し、多くもない同僚のあいだで不似合いなけしからんことが行われるのは、理由があることにしても頭の痛いことである。だからこそ、個人的にこの法度を定めるのである。おのおのよく心得ておくように」(同上)

ひどい。ひどすぎる。同情を禁じ得ない有様だ。
この時代、結城家の家臣に限らず、親類縁者が集団となって一族を守る風潮があった。どうやら、結城家の家臣はその結束力が強い傾向にあったようだ。それに上乗せして、結城政勝をあまり主君と思っていない節がある。それが以下の条文である。

「他人から頼まれたからといって、酒に酔って私の目の前に現れて、いいかげんなことを申してはならない。よく酔いをさまして素面(しらふ)のときに参上して、何事も言上(ごんじょう)するように」(78条)(同上)

このような内容を法律に載せなければならないほど、家臣の統率は取れていなかったのだろうか。統率というか、単に礼節が守られていないだけという気もする。もともと、戦国時代は「ウェルカム実力主義」という背景の中で形成されたものなので、自分の主張や手柄を強気で押す必要があったのかもしれない。

やりたい放題の家臣の行為はまだまだ続く。最後に、戦の場面での家臣の行為を規制する条文をご覧頂こう。

「実城(みじょう=本丸のこと)で合図のほら貝が鳴ったら、無分別にただやたらと出撃するのは、とても始末の悪いことである。ほら貝が鳴ったら、まず町に出て、一人の悴者(かせもの)でも下人(げにん)でも実城に走らせ、どこへ出撃するのか問い合わせてから出撃せよ」(67条)

「どんなに急な事態であったとしても、鎧(よろい)を身につけずに出撃してはならない。機敏なさまを見せようと、一騎駆けで出撃してはならない。全軍が揃うのを待って出撃せよ」(68条)

「命じられてもいないのに偵察に出かけるというのは、まるで他人事(ひとごと)のような振る舞いだな」(69条)
(同上)

信じ難い内容だ。規制するのであるから、実際にこのような行動が多く見受けられたのだろう。それにしてもコントのような状況である。どこに行くか分からない、鎧もつけない中での出撃とは。結城政勝の苦悩が、切々と表現されている69条の文末は、もう個人の感想である。条文を作成しながら、気持ちが乗り始め、勢い余って書いたとしか思えない。非常に、戦国大名、結城政勝の人間像がよく分かる分国法である。

戦国大名の哀愁が漂う「分国法」。強大な権力を持つとイメージされがちだが、意外と、彼らも家臣に苦労している生身の人間なのだということが分かる。いつの世も悩みは同じ。尽きない人間関係の苦労に翻弄されるよりも、多くのストレス発散のツールが揃っている現代に生きていることに感謝するべきだろう。

参考文献
『戦国大名と分国法』 清水克行著 岩波書店 2018年7月
『戦国 戦の作法』 小和田哲男監修 株式会社G.B.2018年6月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充晃著 彩図社 2015年1月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
『戦国武将の明暗』 本郷和人著 新潮社 2015年3月

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