Culture
2020.01.24

信長も家康も!みんな大好き「鷹狩り」の秘密。じつは出世のチャンスって本当?

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現世:「いやあ、また部長お付きの接待ゴルフ。参った…」
戦国:「いやあ、また御屋形様お付きの鷹狩り。参った!」

こんな愚痴など、今に始まったことではない。現在のサラリーマンだろうが、戦国時代の家臣だろうが。とどのつまりは、時代が変わっても同じ。上層部の彼らと共に行動しなければならない人間は、いつだって彼らに振り回される。

しかしそんな苦難を受けてまで同行をしたがる理由。それは、出世との関係が少なからずあるからだ。なんといっても徳川家康の重臣、本多正信(ほんだまさのぶ)は、もとは鷹を飼って育てる「鷹匠(たかじょう)」出身だったとか。家臣からすれば、戦の訓練にもなる「鷹狩り」。用意周到に準備を整え、いざ「鷹狩り」へ。自身の有能さをアピールしつつ、主君と意思疎通を図る絶好のチャンスともいえる。

今回は、この「鷹狩り」がテーマ。愛すべき大名のほっこり話も含めて、早速ご紹介しよう。

愛される理由に納得。「鷹狩り」には多くのメリットが!

そもそも「鷹狩り」とは、いかなるものか。

「鷹狩り」という名前から、つい「鷹を狩る」と思ってしまいそうだが、鷹は獲物ではない。正確には「鷹を使って獲物を狩る」。戦国武将のアウトドアの娯楽の一つである。その始まりは、仁徳天皇の頃からといわれ、宮廷の行事にもなっていたほど。平安時代に下火になる時期もあったが、武士が台頭してからは、再び人気となる。鷹の力強さなどが好まれたようだ。その後は、室町時代、戦国時代へと続いていく。なかでも、織田信長、徳川家康は大の鷹狩り好きとして知られている。

そんな「鷹狩り」のイメージはというと、「鵜飼い」の鷹バージョンといったところか。ただ、鵜飼いの場合とは異なり、鷹は放し飼いである。その上、獲物を持って戻ってくるなど、そんな気の利いたことはしない。ただ、鷹が動物の本能で獲物を狩るだけである。それを利用して、こちら人間側が違う餌を与え、鷹から捕獲した獲物を引き離すのだ。

意外にも「鷹狩り」の手順は複雑である。まずは獲物を見つけなければならない。獲物となるのは鶴や白鳥、雉(きじ)などの野鳥、兎(うさぎ)などの小動物である。これらを勢子(せこ)が見つけて、追い立てていく。他にも、犬などの動物を使って獲物を探す場合もあるのだとか。こうして発見され、追い詰められた獲物は次の行動を起こす。走るか飛び立つかだ。そこへ鷹を放ち、狙った獲物を捕獲させるというワケだ。だから、大名一人で鷹とたわむれ、悠々と狩りを楽しむという感じではない。実際は、結構な人数の家臣がお供をすることになる。また、鷹狩りに欠かせない「鷹匠(たかじょう)」の存在も重要だ。「鷹匠」とは、鷹を訓練して調教し、捕獲能力の高い鷹へと育て上げる専門家のことである。野生の鷹を調教するなら、なおさら長い年月を要するのだとか。

さて、娯楽といっても、鷹狩りには様々なメリットがある。
まず、戦の訓練となる。戦国時代は戦とは切っても切れない世の中だ。そのため、鷹狩りは軍事演習の一環として、それぞれの持ち場、役割、手順などを確認することができた。反対に、戦がめっきり減少した江戸時代でも、鷹狩りは重宝された。本物の戦に備え「鷹狩り」自体が戦の実地訓練になったからである。5代将軍綱吉のときに一度は禁止されるが、8代将軍吉宗の時代に復活できたのも、このような理由があったからだろう。

また、スポーツとしても「鷹狩り」は非常に優れていた。鷹狩りを行うには、その場所まで移動する必要がある。もちろん、現在のように交通機関が発達しておらず、移動に労力を使う。また、鷹狩りは獲物を探して野山を駆け巡るため、足腰が鍛えられる。特に、徳川家康は大の健康マニアで有名だが、そんな家康が晩年までずっと健康維持のために行っていたのが鷹狩りだ。なんなら、最後に食した「鯛の天ぷら」も、鷹狩りのあとに出された食事であったほど。最期まで鷹狩りに熱中していたといえる。

さらに、鷹狩りをすることで自分の領地の状況が把握できる。これは、自国を治める大名にとっては、魅力的なメリットである。移動する道中で、領民の生活の様子や所領の状況を自分の目で確かめることができる。他にも、鷹狩りで使う「鷹」は一種の外交手段としても活躍した。茶の湯の「茶器」と同様の扱いだ。諸国の大名たちが我先にと、織田信長に「鷹」を献上した話は有名である。

「鷹狩り」は娯楽といえども、多くのメリットが詰まった一種のスポーツなのだ。

織田信長も夢中の「鷹狩り」

「鷹狩り」とくれば、触れないわけにはいかないのが、織田信長であろう。織田信長の側近が書いたと思われる『信長公記(しんちょうこうき)』には、天正5年(1577年)11月に参内した様子が記されている。

十一月十八日、信長は鷹狩り装束で参内した。お供の衆はいずれも思い思いの服装をし、おもしろい形の頭巾をかぶって興を添えた。皆の狩杖(かりづえ)などまで金銀を塗ってあった。結構だったことはいうまでもない。
太田牛一著 中川太古訳 『現代語訳 信長公記』より一部抜粋

信長は大の鷹狩り好きで、『信長公記』には三河の吉良(きら、現在の愛知県西尾市)での鷹狩りの様子が何度も出てくる。極めつけは、京へ上洛して参内した際の衣装も、なんと小洒落た(こじゃれた)鷹狩り装束。確かに、そのあと東山へ鷹狩りに向かったため、効率的な衣装といえばそれまでなのだが。それでも、天皇の前で鷹狩り装束とは恐れ入る。好きのレベルが振り切れている。

織田信長像

そんな織田信長の鷹狩りは独特だったといわれている。『信長公記』には、天台宗の高僧である天沢(てんたく)和尚が、信長の鷹狩りの様子を武田信玄に語ったシーンがある。

まず獲物を見つける段階から。20名ほどに「鳥見(とりみ)の衆」を命じて2人1組で組ませる。そして、雁や鶴などの獲物を見つければ一方が見張りをし、片方がその場を離れて報告に行く。なんとも独創的な方法だ。また弓と槍を持った「六人衆」が信長の身辺に控えているのだとか。最終的に狙う獲物を定めれば、騎馬のものが、藁(わら)に虻(あぶ)をつけて回しながら近寄り、鳥の注意を引き付ける。その馬の陰に隠れて、信長自身が鷹を持って馬の陰に隠れて近づくという。飛び立つところへ、信長は走り出て鷹を放ち、狩りをさせるという流れである。それだけではない。鷹が獲物を捕獲して着地する地点近くに、予め農夫を装った「向かい待ち」が待機している。最後にはこの向かい待ちが、獲物である鳥を押さえるのだ。

なんだか「鷹狩り」というよりは、さながら信長の戦闘訓練といったところか。獲物を発見したところから報告するまでの流れ、まさしく密偵のような動きである。報告までの時間や獲物の様子などから狙いを決めるのであろう。また、鷹匠ではなく、信長自ら鷹を放つなど、鷹に対してもある程度精通し、知識を持っていたと予測される。これを聞いた武田信玄も、信長が合戦上手であることを納得した様子だったという。

特に、信長は家臣に対して実力主義を掲げていた。出自にこだわりを持たず、能力が高ければ重用することを実践した。豊臣秀吉がいい例である。そういう意味では、信長の「鷹狩り」は、家臣からすれば絶好の出世のチャンスだったともいえよう。

「鷹狩り」であわや大騒動に!伊達政宗と徳川家康の珍事件

さて、鷹狩りにまつわるもう一つの逸話は、24歳の年の差の伊達政宗と古狸の徳川家康が起こした珍事件。

徳川家康は「鷹場」を伊達政宗に与えている。鷹場とは、鷹狩りが許可された場所のこと。この二人の鷹場はちょうど隣り合っていたという。じつは、鷹狩りでは獲物を求め捜索範囲を広げ、結果的に自分の鷹場を超えてしまうことも。しかし、他の鷹場での鷹狩りはご法度(はっと)。厳禁なのである。もちろん、これが発覚すれば罰せられることになる。

そんな中、事件は起こる。伊達政宗が隣の徳川家康の鷹場へと侵入してしまったのである。その上、徳川家康の鷹場と知りつつ獲物の鶴を取っていたのだとか。ちょうどそのとき、近くでせわしない人の気配が。慌てて政宗が竹林に隠れていると、目の前を家康一行が通り過ぎたのだ。間一髪で、鷹場を越境したことがバレず、政宗は事なきを得たのである。ちなみに、このときの家康は、何やら急いでいるようにも見えたという。

伊達政宗像

そして、後日の江戸城。
伊達政宗は、登城の際に予想外の話を聞かされる。それは先日の鷹狩りでの話だった。

家康が「先日は、その方の鷹場に無断で入って鷹狩りをしてしまった」と、告白してきたのである。つまり、政宗からすれば、自分だけが鷹場を越境していたつもりが、まさかの家康も越境していたことを知る。その話を聞いて、政宗も自身の行動を暴露する。「じつは自分も上様(徳川家康のこと)の鷹場で鷹狩りをしてしまった」のだと。しかし、それだけではなく、家康が自分の鷹場へ入ってきたことを知っていたが、あえて見逃したことも付け加えた。つまり、将軍である徳川家康に恩を売ったわけである。

これに対し、家康はさらにその上をいく。
「ああして見て見ぬふりをしてくれたので、騒動にならずに済んだ」と。非常にややこしい話なのだが、政宗が家康を見かけたときに、家康自身も政宗がいることを知っていたことにしたのである。つまり、こちらも政宗の存在を知っていて、政宗に見逃してもらったわけではないとアピールしたのだ。

こうして、結果的に知っていれば息せき切って逃げなくてもよかったと。どちらも禁を犯して慌ててしまったと、笑い話になったのである。年の差があったからか、なんともほっこりする逸話である。鷹狩りならではのエピソードであろう。ちなみに、政宗の死後、伊達家は与えられた鷹場を将軍家に返上したという。

信長も家康も、多くの大名がこぞって楽しんだ鷹狩り。娯楽として大名には人気があったが、農民はというと、じつは非常に迷惑をしていたのだとか。特に鷹場の近くの農民はことさら被害に遭っていた。というのも、単なる娯楽の鷹狩りがスムーズに行えるように、農民の日常の生活が制限されたからだ。例えば、鷹場の近くでの小動物の捕獲の禁止や、祭りの囃子など獲物が逃げる可能性のある音はなるべく出さないようにと命じられていたという。確かに、遠い鷹場までいって獲物が一羽もいなければ、家臣の面目も立たない。他の場所で捕獲した獲物を鷹場に連れてきて放ったという「やらせ」もあったのだとか。どちらにしろ、立場が違えば、憎き「鷹狩り」となったのである。

ただ、一番の被害者は、いつも獲物を横取りされる「鷹」なのかもしれない。

参考文献
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
『地図と読む 現代語訳 信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月