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Culture
2020.01.29

戦国時代の一大スペクタクル「中国大返し」の真相とは?光秀と秀吉の共通点も見えてきた

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歴史上の人物に武勇伝はつきもの。なかでも、ハリーポッター顔負けの一大アドベンチャースペクタルを残したのが、やはり戦国時代を制した「豊臣秀吉」だろう。

まず、生い立ちからして、軽くシンデレラストーリーだ。庶民からプリンセスとなったシンデレラも、最初から貴族出身ではあそこまでウケなかったはず。同じ庶民だからこそ、人々は立身出生の物語に憧れる。そういう意味では、豊臣秀吉は格好の題材といえる。

そんな豊臣秀吉が最も輝いた瞬間。それは、やはり「中国大返し」だろう。織田信長が本能寺で討たれ、その弔い合戦として明智光秀と戦った天正10年(1582年)6月13日の「山崎の合戦」。そこに至るまでの秀吉の行軍が、のちに「奇跡」と評価されているからだ。

今回は、この「中国大返し」にスポットを当てる。「奇跡」は本当にあったのか。紐解けば、そこから意外な事実が見えてくるかもしれない。

「中国大返し」の真相とは?

まず「中国大返し」を簡単に説明しよう。
家臣である明智光秀が謀反を起こし、本能寺で織田信長を討ったのが天正10年(1582年)6月2日。そのとき、信長の他の家臣たちは何をしていたのかというと、各方面でそれぞれ反織田勢力と戦っていたのである。というのも、信長は各方面に軍司令官を置き、同時進行で周辺の敵対勢力を制圧しようとしていたからだ。

のちに豊臣秀吉と「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で激突する柴田勝家は北陸方面を任され、上杉軍との戦いに身を置いていた。関東の滝川一益(たきがわかずます)は、このあとの北条軍との戦いでそれどころではない状況。三男の織田信孝・丹羽長秀(にわながひで)は四国攻めに向かうためちょうど堺から出港するときだった。ただ、信長討死の一報で、多くの兵が混乱に陥り逃亡。収拾がつかない状況となる。そして徳川家康はというと、同じく堺にはいたものの、わずかな供しか連れておらず、自身も窮地に陥っていた。

ただ、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)だけが有利な状況だったのかというと、それも違う。秀吉は中国地方で毛利勢と戦っており、他の武将と同じような状況であったのだ。ちょうど清水宗治のいる備中高松城を包囲し、水攻めを行っていた最中のこと。場所が近いわけでも、状況が有利なわけでもない。しかし、秀吉は織田信長討死の一報を受け、すぐさま講和を調え、兵を反転させる。そうして、明智光秀を討つために京都へと急いだのである。

どうして「中国大返し」が奇跡といわれているのか。
『太閤記』では、6月6日に備中高松城を出発して8日に姫路到着、11日に尼崎、12日に山崎へ到着、13日より合戦が始まったとされている。じつに、全行程約200kmの距離をわずか1週間足らずで移動したことになる。それも大雨のなか、甲冑をつけた大軍の移動である。正直、人間業とは思えない。だからこそ、明智光秀との戦いに勝つよりも、「圧倒的に早く合戦の地へたどり着いた」事実に称賛が集まるのだ。

特に、焦点は備中高松城から姫路城までの移動である。実際はどうだったのだろうか。ちょうど4ヶ月後の天正十年(1582年)10月18日に作成された『浅野家文書』には以下のような記述がある。

「六日迄致逗留…(中略)…七日二廿七里之所を一日一夜に姫路へ内入」

つまり、『浅野家文書』によれば、6月6日まで秀吉は備中高松城に留まり、翌7日には姫路城へ駆け入ったとされているのだ。「二廿七里(27里)」とは約106kmのこと。備中高松城は現在の岡山県岡山市北区高松に、姫路城は兵庫県姫路市にある。ちなみに、グーグルによれば、その距離は国道2号経由で93.4km、徒歩だと19時間16分かかるようだ。そんな距離を、この資料によれば、秀吉は6日出発して1日で走破したことになる。

ただ、この『浅野家文書』は、秀吉が織田信孝へ宛てた書状だが、全て信頼することはできない。というのも、秀吉が織田家存続に対する自らの功績をアピールするために書いたからだ。つまり、秀吉からすれば、織田家の家督継承問題で自分(秀吉)を恨むべきではないと、この書状で信孝に理解させたかったといえる。そのため、秀吉側がある程度「盛って」書いたと判断すべきだろう。

一方で、6月5日に摂津茨木城主の中川清秀に宛てた書状(『梅林寺文書』)では、異なる状況が記されている。なお、この手紙は、秀吉が平然と中川清秀にウソをついたことでも有名だ。清秀に先駆けさせないために「信長・信忠父子は膳所(ぜぜ、滋賀県)に逃れて無事」などと虚偽の情報を混ぜた内容である。

ただ、実際に注目すべきは、この書状の尚々書(なおなおがき)である。「尚々書」とは、簡単にいえば、現在でいうところの追伸のようなものである。それによると、可能であれば今日(6月5日)は「沼」まで行くと記されている。「沼」は岡山県岡山市東区沼のこと。ちょうど備中高松城からは約35kmの距離である。つまり、6月5日に備中高松城を出発して約35kmの「沼」まで進むという内容なのだ。こうなると、5日出発説はそこまで無理な内容ではない。6日と7日の2日間で残り70kmを進めば、7日に姫路城へも到着できる。昭和初期の日本陸軍は1日24kmの行軍が基本だとか。これと比較しても、より現実的な移動範囲といえるだろう。ちなみに、この書状自体がフィクションとの説もあるが、一番説得力のある行程といえそうだ。

その後の秀吉はというと、無理をした行軍によりいったん姫路に留まって身支度を整えている。こうして9日に約35km離れた明石へ到着。10日午後より出発し兵庫を抜けて、11日の朝に尼崎に到着したようだ(『広田文書』『金井文書』)。12日に池田恒興(いけだつねおき)、中川清秀、高山右近(たかやまうこん)らと共に富田へ向かう。以降、織田信孝・丹羽長秀らと合流して、13日の山崎の合戦を迎えるのである。

なぜか「中国大返し」がヒーローもののアドベンチャーに⁈

ただでさえ200㎞近くの移動を短期間で終えたのだから、もう十分ではないか。そう思うのがただの人、思わないのが天下人。そこに違いがあるのかもしれない。「中国大返し」をさらに上塗りして、インディージョーンズを彷彿とさせるドキドキハラハラな展開にしてしまうのが『太閤真顕記(たいこうしんけんき)』だ。

『太閤真顕記』は、豊臣秀吉の一生を綴った『太閤記』の異本で、そもそもがドラマティックな仕立てとなっている。例えば「中国大返し」では、主君が討たれたとあって、秀吉は居ても立っても居られず一騎掛けする。そんなまさか。反対に討たれちまうぞ。危機管理なさすぎだろ?などと思わないのが、当時の人たちなのだろう。

さて、一騎駆け絶賛真っ最中の秀吉は、西宮(兵庫県)付近で異変に気付く。秀吉の中国大返しに対して、光秀が慌てて伏兵を置いたというのだ。やはり、スリル満点の展開だ。秀吉は、百姓の格好をした伏兵たちにいったんは囲まれるも、細い道を抜けて広徳寺に逃げ込む。しかし、寺に追手が乱入し、逃げ場をなくすのだ。

窮地に陥った秀吉は、浴室があったため、いったんはそこに避難する。そして、あろうことか僧にまぎれて入浴へ。発想の転換がこれまたすごい。他の僧があがったところで、タイミングよく剃髪を行う。それからうまく僧の姿に化けると、他の僧とともに、何食わぬ顔をして台所で味噌なんかすする始末。インディージョーンズから一転、吉本新喜劇へ方向転換したようだ。結果的に、追手は秀吉に気付かず、反対に、追いついた加藤清正らに討ち取られるのだった。秀吉は事なきを得るというストーリーだ。

剃髪するのも織田信長を偲んでの弔い合戦とうまく符合する。広徳寺は、信長の法要を行った京都の大徳寺の末寺であり、ここでもうまく伏線が張られている。そういう意味では、なかなか奥が深いストーリーだ。ちなみに、『太閤真顕記』はこれだけでは終わらない。ネタばらしとなってしまうのだが、終盤のどんでん返しが見もの。じつは、最後の最後に、秀吉の馬の口取りが「自分こそが秀吉」と主張。光秀の策略を予め見切った上での「替え玉作戦」であったというのだ。秀吉は、やはり「ただモノ」ではないという強調がことさら目立った『太閤真顕記』であった。

豊臣秀吉も明智光秀も言うことは同じ?

天正十年(1582年)6月13日。「山崎の合戦」にて秀吉と光秀は戦った。じつは、この山崎の合戦の前に、秀吉は光秀に対して使者を送っている。使者は、医者の施薬院全宗(やくいんぜんそう)である。全宗は信長の比叡山焼き討ち後に還俗し、戦国時代の名医である曲直瀬道三(まなせどうさん)より医学を学んだ人物だ。

伝言の内容は、2、3日のうちに上京するということ、大将同士、直の太刀打ちで勝負を決しようというものである。このとき秀吉は、一本の槍を全宗に与えている。道中用心せよということだ。また、全宗のことを「幸せ者」だとして、「天下を取るのは自分か光秀のいずれかだから、双方に挨拶ができるのは良いことだ」と話したという。

その後、全宗は、下鳥羽(京都府)の光秀のところに無事たどり着き、伝言を届けることとなる。じつは、このとき光秀も全宗のことを「そなたは幸せじゃ」と話したという。「天下は自分か秀吉が取る。両方に挨拶しているから良いことではないか」と。そうして、立ち去る全宗を引き留め、「洛中は騒がしい。用心のために槍を一本」と渡したのだとか。

秀吉も光秀も「気付き」の達人でありながら、運やタイミングで両者の明暗が分かれた。その後の二人の結末を知っている身としては、いかんともしがたい逸話である。

豊臣秀吉という人物は、話題に事欠かない。「墨俣(すのまた)一夜城」伝説から「中国攻め」、そして天下人となってからの「朝鮮出兵」。また、その前後に起こる「千利休の切腹」「秀次謀反」など、スキャンダラスな匂いを漂わせることも忘れない。下世話な女性関係のネタも豊富で、キャラ立ちも半端ない。

ただ、秀吉に関する伝説や逸話には真相が不明なものも多い。なかでも、これほど「中国大返し」は有名でありながら、その出発日時や移動距離が確定していない。研究者が主張する説も諸説あり、書物に関していえば後世での脚色の疑いがある。だからこそ、現在でも、その興味は尽きないのだろう。

何が真実かは分からない。しかし、秀吉と信長のある種独特の関係性を考えれば、計算づくだけの行動ではなかったように思う。自分をここまで引き上げてくれた信長の討死。ひょっとしたら、秀吉の一騎駆けは、案外本当だったのかもしれない。

参考文献
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『大図解戦国史』 小和田哲男ら著 平凡社 20014年1月
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。