宝くじの売店の店先に大きく掲げられた「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」。『報恩経(ほうおんきょう)』によれば、一粒の籾(もみ)が万倍の米になるという意味なのだとか。縁起の良い「吉日」とされ、月に数回の割合でこの一粒万倍日がやってくる。確かに、少額の投資で高額の当選金を狙う宝くじの購入には、もってこいの日なのかもしれない。
こうして科学技術が発達した現代でも、私たちは「吉日」や「凶日」など「日の良し悪し」を気にする傾向にある。もはや無神論者かどうかなど関係ない。これらは既に生活の一部となり、区別することさえ難しいのだ。だとすれば、未だ科学が発達していなかった中世ではどうだったのか。特に、戦乱が明けても暮れても行われる戦国時代には、その依存度が増していたはず。
そこで今回は、戦国時代、特に戦において最重要事項である「合戦の決め方」に絞って、話を進めたい。多くの戦国大名が難儀した「合戦の日時」。驚くべき決断がその後を大きく左右することになる。
易・占で合戦にベストを尽くす軍配者としての軍師たち
公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の日記には、現代からみれば無分別極まりない記述がある。その『実隆公記』によると、屋敷で働いていた女性が死にかけた際、外に放り出したというのだ。理由は至ってシンプル。「死穢(しえ)で屋敷がけがれる」からだとか。三条西実隆といえば、戦国時代きっての知識人の一人である。そんな彼でも、非科学的な部分に重きを置いていたことが分かる。
これほどまで科学技術が発達した現代でも、易や占の類(たぐい)は廃ることがない。まして、病気すらまともに治療方法が確立していなかった戦国時代である。命を懸ける合戦において、「吉日」「悪日」を意識するのはごく自然なことだろう。この役割を担ったのが軍配者としての軍師。ちなみに、主君を補佐する軍師には、その得意とする能力で幾つかのタイプに分類することができる。
なかでも呪術的なスキルを体得し、易や占に通じた「軍配者」タイプの軍師が、「吉」や「凶」を判断した。のみならず、兵法や天文学、気象学にも通じている者など、多くのスキルを併せ持つ場合も。実際に、僧侶や修験山伏(しゅげんやまぶし)、祈祷師、陰陽師(おんみょうじ)などを、「軍配者」的な軍師として召し抱える戦国大名もいたという。
さて、合戦において重要なのは、やはり日時や方角である。当時は、これを易や占で判断した。ただの「吉日」「悪日」の区別だけではなく、「十死日」や「絶命日」など、出陣に適さない「大悪日」と呼ばれるものも。正直、ネーミングからして、こんな日に合戦をすれば勝てるとは到底思えない。いかに強靭な精神力であってもムリ。まず絶対にムリ。先入観からして「負け」のイメージ一色だろう。もちろん、当時も、このような大悪日は避けるようにしていた。のみならず、陰陽五行説によって、大将の生年月日などから、合戦に最も適した日を割り出していたようだ。
ただ、どうしても「吉日」に出陣や合戦ができるとは限らない。事の次第によっては、攻め込まれてやむなく応戦する場合もあるだろう。逆になりふり構わず出陣することも。そこで、このような事態に備えて「凶」を回避する方法も存在した。例えば、諸事情で「吉日」に出陣できない場合には、軍師が「調伏の矢」を行っていたという。弓の呪力で邪悪なものを撃ち払う儀式である。こうして、現状に合わせて「吉」や「凶」をコントロールしていたのだ。
また「悪日」に合戦を行わなければならない場合は、「扇」を使う。
『中原高忠軍陣聞書(なかはらたかただぐんじんききがき)』によれば、「扇」の使い方で、「悪日」から「吉日」に変えるというのだ。
「悪日に合戦をする時は、ひるは月の方を面へなしてつかふべし。よるは日のかたを面へなしてつかふべし」
具体的には、表に「日輪」、裏には「月」が描かれた軍扇を使う。表の日輪は「昼」、裏の月は「夜」を意味するのだとか。実際に毛利元就(もうりもとなり)が使用していた軍扇などは有名だ。このような軍扇を「昼」と「夜」を逆に使って、「悪日」から「吉日」に変えるのだ。
ここで注意すべきは、ただ逆に使用すればいいというわけではない。
「左様の悪日には、月の方をおもてそとへなしてつかいて、夜に入てあすの吉日に成たりと、心中にねんくわん(念願)してつかふへし」
悪日であれば、心の中で唱えるのだ。「夜になって明日の吉日になった!」と。念願することこそが重要なのだ。こうなると、結局は「思い」の強さなのか。なかなか、戦国時代の常識は不思議なところが多いといえる。
ええっ?あの島津家はくじ引きが好き?
戦国最強といわれる九州の島津軍団。そんな彼らが合戦について決断をする際に、おみくじが好きだったと知れば、驚くだろうか。島津義久の重臣である上井覚兼(うわいかくけん)が記した『上井覚兼日記』には、島津軍団がおみくじで決める様子が何度も出てくる。
そもそもおみくじとは、神仏に祈願して、そのうえで吉凶を占う「鬮(くじ)」を指す。どちらかといえば、現在のように事柄を決めない予言的な使い方ではなく、判断に迷った時に神仏のお告げを受けるという趣旨であった。つまり、具体的な「検討事項ありき」が前提なのである。
天正14(1586)年11月の「戸次川(へつぎがわ)の戦い」。島津義久が大友宗麟(おおともそうりん)と戦った豊後(大分県)攻めのことである。この戦いに際して、どうやら島津家は進軍の方角をおみくじで決めたというのだ。方角の選択肢としては、「肥後(熊本県)へ出てから豊後に入る」「日向(宮崎県)へ出てから豊後に入る」というもの。話し合いの末、神意を問うことになったのだとか。
こうして、おみくじですんなりと決着するかと思いきや、じつは再度、おみくじを引き直している。一度は「肥後経由」と決まった事項について、再検討となったのだ。これは、その後に情勢の変化があったせいだと考えられる。もともと島津勢と大友勢との戦いであったものが、後日に豊臣秀吉が参戦することになるからだ。状況の変化に伴い、引き直しとなったようだ。
そうして、ようやくというところで、さらなる引き直し。
天正14(1586)年9月7日、新しく3枚のおみくじを用意して引いたとの記述がある。3枚のおみくじとは「一」「二」「白紙」というもの。このときは、霧島社の社前で吉田美作守清存(きよあり)に引かせたという。「一」であれば「すぐ豊後へ出陣」、「二」であれば「今回の出陣は取りやめ」、「三」であれば「どの方角から攻めたらよいか、もう一度考える」。つまり、本当に白紙に戻すということである。『上井覚兼日記』によれば、「一」の紙を引き当てたようだ。こうしてようやく、島津軍の出陣が決まり、「肥後」のみならず「日向」からも豊後へ攻め入ることに。結果、戸次川の戦いでは島津軍が勝利することになる。
あの島津軍がおみくじ?と、少し解せない気持ちも。確かに、島津軍がおみくじに頼っていた事実はある。しかし、どちらかというと、検討に検討を重ね、最終段階で「神意」を問う。つまり、神の権威づけをして、結論に合理性を持たせようとしたともいえるのではないか。「神意」だからこそ、反対していたものも納得せざるを得ない。意に反して従う場合でも、引きずらず、腹にストンと落ちる。そういう意味で「おみくじ」は、究極の意思統一の方法なのかもしれない。
豊臣秀吉は悪日を逆手に取った?
一方で、易や占というよりは、縁起にこだわった戦国大名も。豊臣秀吉の吉日は「3月1日」。天正15(1587)年の九州攻めのときに、3月1日に出陣して勝利を上げている。天正18(1590)年の小田原攻めの際も、3月1日。ここでも勝利したことを踏まえ、文禄元(1592)年の第一次朝鮮出兵の出陣日も、例に漏れず3月1日が予定されていたのだとか。ただ、秀吉が眼を患っていた事情より、出陣の日はずれている。
天下人となるには、到底、縁起を担ぐだけでは足りない。やはり、臨機応変に自身の判断を変えられる柔軟性が必要なのだろう。主君、織田信長が自刃した本能寺の変では、弔い合戦をするべく「中国大返し」を実現させた秀吉。じつは、このときの出陣の日に関して、『川角太閤記(かわすみたいこうき)』に、反対を押してまで貫いた秀吉の強い意思が記録されている。
「常々御祈祷など仰せ付けられ候 真言の護摩堂の僧申し上げられ候。其の様子は、明日の御出陣、殊の外、日柄あしく御座候。出でて二度帰らざる悪日と申し上げら候」
つまり、姫路城で出陣の支度をしていた秀吉に、真言宗の僧が「明日は日が悪い」と申し入れたというのだ。なんでも、出陣すれば、二度と帰ることができない日なのだとか。
これに対し、秀吉は即答する。「それならかえって良い日である」と。もともと主君、織田信長の弔い合戦への覚悟はできている。生きてこの城には二度と帰ってこない。討死も上等というワケだ。一方で、勝ち戦となれば、思いのままどの城にも居城できるのだから、それはそれでこの城に戻る必要もない。だから吉日だという理論武装である。
太閤記にはフィクションが往々にして混在しているが、それにしても、うまい転換の仕方だと感心する。もちろん、この話が全体に伝われば、兵の士気も一段とあがったに違いない。易や占を生かすも殺すも、結局は武将次第ということか。
戦国大名の悲喜こもごも。
易に頼りすぎて、合戦の攻め時を失って敗れた厳島の戦いの「陶晴賢(すえはるかた)」。逆に、軍配者が導き出した内容に従うと判断して勝利した耳川の戦いの「島津義久」。全てはあとのまつり。どの判断が適切だったのか、それは、ただの結果論となってしまうだろう。ただ一ついえるのは、易や占も手段にしかすぎないということ。最終的には、合戦の日時も思いのままに動かせる、そんな器が戦国大名には必要なのかもしれない。
ある程度は易や占に頼りつつ、時と場合によっては、易や占の結果に反してでも自分の直感を信じて判断を下す。言い訳などしない。全ては自身の判断のみ。因果を引き受ける度量のデカさが、何より合戦の行方を左右するのだ。
参考文献
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
一個人2011年12月号『戦国軍師の知略』高橋信幸編 KKベストセラーズ 2011年10月
歴史人2016年10月号『戦国合戦の一部始終』岩瀬佳弘編 KKベストセラーズ 2016年9月