絢爛豪華な衣装を纏い、艶やかさを競う花街の宴。寝床から寝乱れ姿で出てきたにもかかわらず圧倒的な存在感を放った美女は若干18歳だったーー。
と、漫画の1シーンのような伝説を持つのが、江戸初期の京都を代表する遊女、二代目吉野太夫です。二代目、とついているのは実はこの名前は代々受け継がれているものだから。総じて10人の遊女が吉野太夫を名乗ったそうですよ。歴史に残っている有名な太夫は二代目であり、『色道大鏡』という江戸時代の遊里案内書にその人となりが記されています。あまりの美貌に明(中国)にまでその評判が轟いたという吉野太夫。その生涯はただの遊女の短い人生と呼ぶには濃厚でドラマチックなものでした。
技能と才能を持ち合わせた最高位の遊女!吉野太夫とは?
『色道大鏡』によれば、二代目吉野太夫は1606年生まれ。7歳で禿となり、14歳で島原と呼ばれる前の六条三筋町で太夫に昇進。たちまち廓内で評判となりました。あでやかな美貌を持ち、さわやかで知恵深い、香道の名手だったそうです。また、宴席の取り持ちが上手で、客の心を惹きつけて離さなかったのだとか。その贔屓筋には名だたる大名や公家が並び、明の皇帝までも彼女を夢見たそうです。
ちなみに元々「太夫」という言葉は、元々中国の官位「大夫」から来ています。その官位が宮中の芸事を仕切っていたことから転じて、例えば歌舞伎の女方の一番格上の人間をそう呼ぶなど、芸で生きる人の間で使われるようになりました。格が上になると芸事に長じていないといけないから遊女に転用したなど、諸説あるそうですが、とにかく、最高格の遊女のみが太夫と呼ばれます。美しいだけではなく、知性や芸も必要な地位。吉野太夫は和歌、連歌などの歌の才能、琴など楽器を演奏する音楽的素養も持ち、茶道や華道、書道に加えて、お客の相手をするための双六、囲碁まであらゆる事に秀でた才女として有名だったそうです。しかも性格まで良かったというのですから、ちょっと出来すぎな気もしますよね。実際に井原西鶴『好色一代男』には吉野太夫をモデルに更に脚色した話があります。当時から伝説の人だったのではないでしょうか。
傾国の美女を奪い合う貴族と豪商、一般人になった吉野太夫
吉野太夫の逸話で最も有名なのは、おそらく後陽成天皇の息子であり、名門貴族・近衛家の当主である近衛信尋(このえのぶひろ)と、京都の豪商・灰屋紹益(はいやじょうえき)が身請けを巡って激しく争ったことでしょう。勝ったのは豪商である灰屋紹益でした。紹益は名高き本阿弥光悦の縁戚。かつて着物の染色には灰が用いられました。「紺灰業」と呼ばれた仕事は生活と切っても切り離せない需要の高い商売で、屋号である「灰屋」はそこから取られたようです。莫大な富を築いた灰屋は、京都有数の商人となりました。天皇の子息でもある貴族に競り勝ったわけですから、いかに江戸時代商人が強大な力を持っていたかが察せます。
当主から跡継ぎに見込まれた紹益でしたが、商売よりも風雅に夢中。茶の湯や和歌、俳諧、蹴鞠などに通じた通人であり、随筆も残っています。中でも女遊びが大好き。前述の井原西鶴作『好色一代男』のモデルとも言われているほどです。最初の妻とは死別し、吉野太夫と出会って身請け合戦に参加しました。ときに紹益22歳、吉野太夫26歳。遊び人とはいえ太夫には心底惚れ込んでいたようで、身請けの折、遊女を娶るなんてけしからんと養父から絶縁されますが、それでも愛を貫き、家を追い出されながら二人でひっそりと暮らしていたそうです。(その後、吉野太夫の人柄に触れた養父が勘当を解きます)
吉野太夫は華やかな廓の世界とは打って変わってつつましく、紹益を支えていましたが、38歳という若さで亡くなりました。紹益が悲しみに暮れて詠んだ歌は今も碑に刻まれています。なんと、彼女の遺灰を墓に入れることなく、密かに持ち続け、日々酒に入れて飲み干したという逸話まで……。それほど深く愛していたのでしょう。
吉野門、吉野窓に吉野間道。今も残る彼女の名前
吉野太夫は法華経の信心深い女性だったようで、京都の洛北にある「常照寺」に赤門を寄進しています。23歳で贈ったとのことで、当時まだ身請け前。苦界と呼ばれる廓の世界では異例とも言える力を持っていたことが推し量れます。常照寺の開祖の一人は紹益の縁戚でもある本阿弥光悦!偶然なのでしょうか……。
常照寺では毎年4月に吉野太夫を偲ぶ「吉野太夫花供養」を行い、太夫道中には多くの人が訪れます。2020年は特例で11月開催に変更になったそうなので、タイミングが合えば見られるかもしれませんよ!先程の紹益が詠んだ歌の碑も寺院入り口の参道に掲げられています。
他にも、外から見ると丸(円)ですが、部屋の中から見ると下側が欠けた窓を「吉野窓」と呼び、町家や茶室に使われています。仏教で円は完璧なもの。芸事に完成はないとして、吉野太夫が好んだことからこの呼び名がついたそうです。
灰屋紹益も茶の湯に造詣が深かったことから、吉野太夫に贈った名物裂(めいぶつぎれ、貴重な布地のこと)は「吉野間道」(かんとう)と呼ばれ、ひとつの名称になっています。今も仕覆や帯に使われているのですよ。
また、彼女の命日8月25日は「吉野忌」「吉野太夫忌」と呼ばれ、俳句の季語(秋)になっています。命日が季語として使われているなんて、本当にすごい女性ですよね。
吉野太夫は時代を超えた「ミューズ」なのかもしれない?
今回改めて調べてみて、吉野太夫という女性が残したものの大きさを改めて感じました。吉川英治「宮本武蔵」にも吉野太夫は登場していますし、ゲームや漫画のキャラクターとして度々描かれています。
裏千家には、13代宗室圓能斎が考案した「吉野棚」があります。灰屋紹益が寄進した「遺芳庵」(いほうあん)と「鬼瓦席」が1922年、京都高台寺に移築されました。その折の献茶式の記念として、遺芳庵にある吉野窓から意匠された棚であり、今でもよく使われています。
38年という、現代から見ると短い一生だった吉野太夫ですが、彼女から広がった文化や影響は、400年経った今も人々を楽しませています。