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2020.05.05

「多資忠殺人事件」の真相とは?親子殺害の背景に2つの秘曲?平安時代の雅楽ミステリー

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平安時代も終わりに近づきつつあった1100(康和2)年6月のある夜、二人の男が殺された。“ガイシャ”は、宮中でも名を馳せた有名雅楽家・多資忠(おおのすけただ)とその息子。親子共々、凶刃に倒れるという事件に、宮中に衝撃が走る。
犯人は――。
動機は――。
事件の背後には平安貴族の「雅楽」にかける深い思惑があった……。

残酷無残!被害者は堀河天皇の「師範」

……書き出しで煽りすぎでしょうか。

一見、優雅で雅やかな世界に思われる平安時代。実は全然優雅じゃない事件も起きていました。その一つが、この「多資忠殺人事件」です。

フィクションではなく、実際に起こったこの事件。紐解いてみると、雅な世界の中で平安貴族にとって「雅楽」がどのような意味を持っていたのかが見えてきます。いまに伝わる雅楽の見え方が変わるかもしれませんよ。

待って待って、雅楽って何? という方は「世界最古のオーケストラは日本にあった!ONE TEAMで奏でる「雅楽」の魅力」で詳しく説明していますのでご覧くださいね。

さて、被害者の名前は、多資忠とその息子、節方(ときかた)といいます。この多氏一族は、奈良時代から続く楽家(がっけ)の一つ。雅楽の演奏や、雅楽の演奏に合わせて舞を踊る「舞楽」を代々受け継ぐ家系です。

雅楽は奈良時代から宮中の儀式や宴などで演奏されてきました。そのため、平城宮には雅楽の国家機関「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が設置され、都が平安京に移って後も、雅楽のプロ集団として宮中での演奏を担っていました。

舞楽「打球楽」の様子。宮内庁楽部は現代における「雅楽寮」といえるかもしれない(宮内庁HPより)

時代を経るにつれ、雅楽寮の中でも演奏の技術を父から子へと伝える「父子相伝」の習慣ができていったようです。
「舞は〇〇家」「我らの一族は龍笛」といったように、それぞれの“お家芸”ができていきました。成田屋の「歌舞伎十八番」のようなものですね。歌舞伎が始まる500年以上も前のことです。

多氏は代々、神前で奏する神楽(かぐら)に伴って歌われる日本古来の歌謡「神楽歌」と「舞楽」を、父子相伝で守り伝えてきました。

殺された資忠は、特に歌にも舞楽にも優れ、当代随一の立場である「右舞(うまい)」の「一者(いちのもの)」を13年にわたって務めていました。
この「一者」は、資忠の実父・時資(ときすけ)、伯父・政資(まさすけ)らも務めてきました。多氏はまさに雅楽のエリート一族。その中にあって、資忠は時の堀河天皇の「御神楽歌師範」であったともされています。

事件が起きたのは、1100(康和2)年6月。1046(永承元年)年生まれの資忠は55歳。息子の節方の生年は定かではありませんが、おそらく30代前後でしょう。
天皇の師匠であり、当時全盛期を迎えていた雅楽のエリート父子がなぜ殺されねばならなかったのでしょうか。

そこには「秘曲」という謎が隠されていました……。

雅楽の伝統は、父から子へと受け継がれてきた

門外不出!代々伝わる「秘曲」とは?

この多氏一族には、代々親から子へと伝わる演目がありました。
これは、他家には教えてはならない秘密の曲、「秘曲」と呼ばれるもので、普通は一つの楽家が一つの曲を守り伝えますが、多氏には2曲の舞が伝わっていました。

それが「胡飲酒(こんじゅ)」と「採桑老(さいそうろう)」という二つの演目。
多氏一族は、本家筋と分家筋で1曲ずつを父子相伝してきたようで、資忠の伯父・政資は「胡飲酒」を、資忠の実父・時資は「採桑老」をそれぞれ伝承していたようです。

政資の子供には男子がおらず、政資は娘に婿をもらいます。それが、山村吉貞という人物。この吉貞も優秀で、「右舞一者」を務めています。

吉貞には子があり、その子を山村政連(まさつら)といいます。政資から見ると、娘の子=孫ですね。

ここから話は、現代にもありそうな「身内のもめごと的」な要素を帯びてきます。

多氏一族と山村一族の関係。ちょっと複雑

政資の娘と結婚した吉貞は、しばらくは「多吉貞」を名乗っていたようですが、記録では山村姓となっています。
またその子、政連は秘曲である「胡飲酒」を政資から伝承されています。けれども、記録では「山村」姓となっています。

時を同じくして、時資の実子・資忠は、政資の養子に入っています。伯父さんの家に養子に出されたんですね。

資忠は、その伯父から秘曲「胡飲酒」を相伝されます。すでに実父・時資から「採桑老」も伝授されていましたから、代々本家と分家でそれぞれ伝承されてきた秘曲を2曲とも知る人間が一族に誕生したのです。

ここまでを政資目線で整理してみましょう。政資は、自分の娘に婿をもらい、その子に門外不出の秘曲を教えたにもかかわらず、弟の息子も自分の養子にもらった。
そして、一時「多」の名字を名乗っていた吉貞は、旧姓の山村に戻っている。

……少し見えてきたのではないでしょうか?山村吉貞とその子・政連は、一時は多氏の本家筋の秘曲を受け継いでいくかに見えたけれども、何らかの理由で多氏一族から排斥されているのです。

画像は舞楽「抜頭(ばとう)」。奈良時代にベトナム(林邑)から伝えられた「林邑八楽」の一つで、秘曲の舞楽「胡飲酒」もこの一つに分類される(画像提供:雅楽団体「うたまいのつかさ」

犯人確保!事件は身内の犯行だった

そして、事件は起きます。旧暦6月の15日とも16日とも言われていますが、きっと今で言う夏の盛りだったでしょう。

「私にも、採桑老を伝授していただきたい」

多資忠の屋敷を訪ね、こう願い出た人物がいました。そう、山村政連です。

「できぬ」

資忠は断ります。

秘曲「採桑老」は、実父・時資より資忠が相伝されたものです。政資よりすでに秘曲「胡飲酒」を相伝されている政連に対し、分家に伝わる「採桑老」を教える筋合いはない、とも言えます。

あるいは、多氏一族で唯一秘曲を2曲とも相伝されている自分の立場を、資忠は譲りたくないと考えたのかもしれません。
政連に「採桑老」を伝えてしまえば、政連も秘曲を2曲とも相伝することになる。しかも、政連はもはや多氏一族の者ではない。

「……」

にべもなく断られた政連の心に沸く、怒りとも悲しみともつかない思い。
それは、多氏一族の当主として自分が受け継いでいくはずだった未来を、突然奪われた怒りだったかもしれませんし、あるいは雅楽の道を究めたいという一雅楽家として想いを閉ざされた悲しみだったかもしれません。

政連は刀を抜きます。気づいたときには、資忠の子・節方まで――。

画像はイメージです。裸に深い意味はありません

平安時代末期に記された『今鏡』、また、鎌倉時代の雅楽書『教訓抄』は、政連が資忠と節方殺害の罪で「出雲に流された」と記しています。また、『続群書類従』は政連をこう説明します。
「兵衛尉。山村吉貞子。正資外孫。右兵衛志。殺害資忠之間。被配流出雲国了。」

いずれも、犯行に及んだ人物として政連以外を挙げているものはなく(一部、政連の父・吉貞が「獄死」したと記す資料があります)、おそらく政連はその場で捕らえられたのでしょう。

塙保己一『続群書類従』より抜粋。(「政連」は「正連」とも。また「時資」は「節資」とも書く)

立身出世!雅楽は出世を目指すツールだった

ただ、事件の経緯はあくまで推測。資忠がなぜ秘曲を教えなかったのか、政連はなぜ排斥されたのか。詳しいことはまったく分かっていません。
一説によれば、資忠の実父・時資が政連を嫌い、排斥に追いやったとも言われます。

いずれにせよ、残された記録から分かるのは、当時の宮中において雅楽は、殺し合いに発展するほど「生きるか死ぬか」を掛けた一大事だったということです。

というのも、当時、貴族にとって雅楽や舞は、必須の教養でした。もちろん、天皇も幼い頃から習います。中でも、堀河天皇は龍笛の名手でもあったとも言われています。

必須の教養ということは、誰かが天皇に(あるいはのちの天皇になる人物)に雅楽や舞を教えなければならないということ。つまり、教える人間はうまくいけば「天皇の師匠」になることができます。堀河天皇の「御神楽歌師範」であった資忠は、まさにそうした立場にいました。

『源氏物語絵巻』にも雅楽を奏する貴族はたびたび描かれている。画像は世尊寺(藤原)伊房詞書の『源氏物語絵巻』の一部(国立国会図書館デジタルコレクションより)

このポジションは、誰がみても“おいしい”。なぜなら、天皇といえども「師匠」の言うことを無下にするわけにはいかないからです。

つまり、音楽の素養によって政治に影響力を持つことができる。うまくすれば、絶大な地位を築くことも夢ではないかもしれない。

加えて、秘曲を知っている、ということはその人にしか教えられないということで、さらに影響力は高まります。

政連もそのことを狙っていたのかもしれません。彼の起こしたことはいつの世にあっても許されるものではありませんが、そのチャンスを奪われた恨み、と考えれば情状酌量の余地はあるのかもしれません。

悲傷憔悴!資忠の死後 堀河天皇が……

資忠親子の死を最も嘆いたのは、堀河天皇でした。1079(承暦3)年生まれの堀河天皇は、事件当時21歳。幼い頃から自らに「神楽歌」を教えてくれた資忠がいまはもういない。

堀河天皇は、自身の外叔父であり舞楽にも長じていた源雅実(まさざね)を呼びます。実は、雅実は多氏の秘曲「胡飲酒」を伝授されていました。堀河天皇は雅実に、遺された資忠の息子・忠方と近方に「胡飲酒」を伝授するよう命じます。

舞楽「胡飲酒」は、いまでも各所の雅楽演奏会で披露されています。それは、絶えかけた舞楽の火を、堀河天皇が直々に守ったからなのです。

堀河天皇の勅命によって、絶えかけた秘曲「胡飲酒」は今に伝わっている

怨敵退散!失われた秘曲「採桑老」

では、資忠が政連の頼みを断り、ついに教えることのなかったもう一つの秘曲、「採桑老」はどうなったのでしょうか。

この舞楽は、資忠の死によって断絶してしまいました。曲の内容は、以下のようなものであったと伝えられています。

死を目前にした老人が、長寿の妙薬といわれる桑の葉を求めて、山野を彷徨い歩く。白装束に、老人の面を付け、鳩の止まっている杖と薬袋を持ち、薬草を探し求めるような仕草で、歩くようにゆっくりと舞う――。

「採桑老」は「さいしょうろう」とも。舞には「呪い」がかかっているという

実はこの曲には不吉な言い伝えがあるのです。それは、

「舞うと、数年以内に舞人が必ず死ぬ」

というもの。
資忠の死は、その言い伝えに一層真実味を持たせたようです。
踊り方を示した「舞譜」は残されているようですが、資忠の死以来、長く封印されてきたそうです。
近年、舞も復活させる取り組みがあったようですが、その後舞人がどうなったのかは……ご自分で調べてみてください。

雅楽は政治の重要なツールでもあった(画像は、舞楽「蘭陵王」の様子。画像提供:雅楽団体「うたまいのつかさ」

いまでは、文化と政治とは切り離して考えることがスタンダードですが、平安時代は「雅楽=政治」と言ってよいほど、両者は密接に関連していました。
それがときには、悲しい事件を引き起こすことにもなり、あるいは天皇の判断によって文化が守られるなど、いまとは異なったあり方を見せます。

1000年以上の時のなかで、さまざまなエピソードを歴史に刻んできた雅楽。
そうした歴史を踏まえつつ鑑賞すると、なお一層味わい深く感じられるかもしれません。

書いた人

1986年生まれ。何かを書いたり書いてもらったりする仕事をして10年。「雅楽×インバウンド」を主な事業とする小さな会社もやっていますが、日々戦う相手は家に勝手に住み着いている猫や鳩です。最近は妙な友情まで感じるようになってきました。