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2020.05.23

ピンチをチャンスに変える方法とは?吉田松陰と大杉栄の獄中生活に学ぶ、人生を変える事例

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コロナはチャンスだ。
不謹慎とは重々承知した上でと断っておくが、ボクは密かにほくそ笑んでいる。

新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言が約1ヶ月間の延長。あちこちで悲鳴が聞こえるが、今はただ外出を控えて自宅に籠もるのが最良の方法だろう。医療関係者や外に出なければ仕事にならない人たちに感謝しつつ、今できることは家に籠もることに尽きる。

チャーシューを茹でてるばかりじゃない、この情勢

この外出が制限された息詰まる時間をどうするか。ボクの界隈では肉の塊を買ってきてチャーシューを作り始める人がなぜか多い。
料理をしたりネットで映画やドラマを観たり、気分が落ち込まないように、気分転換を図ることは欠かせない。

一心不乱にチャーシューをつくっては食べる。黒酢をベースにしたネギダレは美味い。でも、このままじゃいけない気がする

だが、それでは無為に過ごしているだけではないか。そう、映画にもなった『復活の日』とは違うので、このまま人類が滅亡するということはない。
となれば、どんな形になるにせよコロナ禍が去った後の世の中はやってくる。その時になにができるか……外出制限とはそのための準備期間といえる。

ピンチにも学習をやめなかった吉田松陰

コロナ禍の日常を無為に過ごさないために、まず見習いたいのが、幕末の思想家・吉田松陰(よしだしょういん)のエピソードだ。

1853(嘉永6)年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航すると、これを聞きつけた松陰は師の佐久間象山(さくましょうざん)とさっそく見物に駆けた。

蒸気船を含む黒船を見て西洋との差に驚いた松陰は外国留学を決意。とはいえ、まだ国外への渡航が禁止されている時代。方法といえば船に乗り込んで自力で交渉することしかない。最初は、長崎に来港していたロシアの軍艦に目を付けた松陰だったが、その軍艦が予定より早く出港してしまったために果たせなかった。

再びチャンスが巡ってきたのが、翌1854(嘉永7)年。ペリーが日米和親条約締結のために再びやってきたことを聞いた松陰は、仲間の金子重之輔と共に、ペリーの乗るポーハタン号に漕ぎ寄せた。時刻は深夜、漕ぎ寄せる船もそのへんにあった漁師の小舟を、ちょっと拝借しての完全な密航である。

ホントかウソか知らないが、昭和の終わり頃にアメリカに憧れた学生が、格安航空券というものを知らなくてバイトで必死にためた100万円を手に成田空港で「ニューヨークまで、大人1枚」とやったという都市伝説がある。それくらいに松陰の行為は無茶である。

いきなり乗り込んできた日本人にペリーたちは驚いた。条約の交渉そのものがかなり強引だったことから、幕府をこれ以上刺激することを恐れたペリーは、松陰たちの申し出を断るが『ペリー提督日本遠征記』の中では、このことを称賛している。

獄中で知識を蓄え松下村塾へ

こうして企てに失敗した松陰は、そのまま捕らえられ伝馬町牢屋敷に投獄されてしまった。

狭い牢の中で、松陰は悔しさに涙を流す……だけではなかった。牢に入った松陰は、まず牢番に「なにか書物を拝借したい」と申し出た。

これを聞いた牢番は驚いた。松陰は密航を企てたことで死罪になることは確実だったからだ。

「重い仕置きになるのだから、なにも牢の中で勉強をしなくてもよかろう」

牢番の言葉に松陰はこう返した。

およそ人一日この世にあれば、一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。
なんぞ一日の学問、一日の事業に励まざるべけんや。

感じ入った牢番は手持ちの『赤穂義士伝』や『真田三代記』などを貸したという。後に死罪を逃れた松陰は国許蟄居となり長州で幽閉される。
ここでも読書を欠かさず、ついには牢の者たちに講義をするようになった。

出獄した松陰が松下村塾に多くの若者たちを集めたのは、こんな学問の背景があったのである。

活動の合間にあの名著も翻訳した大杉栄

ほかになにもできない時にこそ読書と学問に時間を費やす……その最高峰とも言うべき人物が、大杉栄(おおすぎさかえ)である。
興味のない人には関東大震災のドサクサに甘粕正彦(あまかすまさひこ)に殺されたアナーキストくらいにしか記憶されていないだろうが、先鋭的な活動家として何度も逮捕されて下獄する間に『種の起源』や『ファーブル昆虫記』の翻訳なんかもしている。

刑期が長いから次はロシア語

当時、先端の思想というものは海外から入ってくるものだったし、海外の同志と交流しようと思えば外国語の学習は必須。みなこぞって外国語の習得に励んだが、その中でも大杉は飛び抜けていた。
その語学習得方法とは、牢屋に入るたびに一つの言葉をマスターするというものだった。

大杉の自叙伝にはこんな風に記されている。

元来僕は一犯一語という原則を立てていた。それは一犯ごとに一外国語をやるという意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。
次の巣鴨ではイタリイ語をやった。
二度目の巣鴨ではドイツ語をちょっと齧った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。
で刑期が長い事だから、これがいい加減ものになったら、次にはロシヤ語をやって見よう。そして出るまでにはスペイン語もちょっと齧って見たい、とまず決めた。

天才かと思いきや意外に努力家

牢屋に入る度に語学を習得した大杉は、生涯に英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・イタリア語・エスペラント語を習得したといわれている。
大杉は38歳で死んでいるので、習得の早さには目を見張るものがある。そのため大杉を語学の天才とみる人も多く本人も「語学なんてわけないよ」と言っていたようだが、実際には電車に乗っている時もずっと外国語の本を話さなかったという。

大正時代の銀座。国立国会図書館所蔵『大東京寫眞帖』より

つまり、実際にはかなりの勉強家だったということだ。もともとが努力家だったので、誘惑の少ない獄中での生活はかっこうの勉強の場となったということだろう。

年齢を重ねるほどに学ぶ事への後悔は先に立たず

いま、外出を控えている中で誘惑は多いものだ。SNSでくだらないことを書いたりしているだけでも一日は過ぎていく。
でも、同じ一日なら今こそがなにかを成し遂げるチャンスなのではないかと、松陰や大杉は教えてくれていると思う。
 
ボクも昨年から始めた中国語の学習時間が3倍くらいに増えている。果たして、コロナという獄の中での学習は効果があるのか……?

<参考文献>
大杉栄『大杉栄自叙伝』 中公文庫 2001年

神戸正美「明治の社会主義者と外国語学習」『日本英語教育史研究』4巻 1989年 日本英語教育史研究会

トップ画像は国会図書館所蔵資料より
 

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。