大人気!真田丸の歴史がここに!
今年のNHK大河ドラマ「真田丸」は三谷幸喜書き下ろしの脚本を、主役の真田信繁(幸村)を演じる堺雅人をはじめとした俳優陣がそれぞれ柔剛自在に演じ切り、放送開始以来高い人気をキープしています。
信州・上田を舞台にした「青春編」が終わり「大坂編」が始まるとともに、群雄割拠の戦国時代を生き抜いた真田家のスリリングな攻防から、ますます目が離せなくなっていきます。
そんなドラマの歴史をそのまま体感できる展覧会、2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」が6月19日まで、東京都江戸東京博物館で開催されています。
そこで、真田家の歴史と、見逃せない展示作品についてご紹介します。
真田信繁の生涯
のちの信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれた信繁は、真田家が織田、北条、徳川、上杉とめまぐるしく主君を変える中で上杉景勝の人質となり、その後は豊臣秀吉の人質として暮らします。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、信繁は父昌幸とともに石田三成が率いる 西軍につき、兄信之は徳川家康が率いる東軍につき、真田家は親子兄弟が東西に分かれて戦うことになります。結局、西軍は敗退し、それにともなって昌幸と信繁は九度山(和歌山県)に幽閉の身となります。
その後、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と徳川家による最終決戦となる「大坂の陣」において、信繁は転機を迎えます。
大坂城へ入城した信繁は慶長19(1614)年の大坂冬の陣において、大坂城の東南に真田丸と呼ばれる出丸(本城から張り出した形でつくられた小城)を築いて徳川方を迎撃。その武名を天下に知らしめるのです。
翌年の大坂夏の陣では、徳川方の圧倒的な兵力に対して臆することなく果敢に攻め、家康に死を覚悟させるほどの奮戦ぶりが伝えられています。しかし、信繁の奮戦もむなしく大坂城は落城。豊臣滅亡とともに信繁もその生涯を閉じたのです。
「真田丸」を体感できる展示品
父昌幸や兄信之との様々な逸話とともに、今もなお語り継がれる戦国乱世の最後を飾った勇将・真田信繁。激動の時代を生きた武将の足跡を今に伝えるゆかりの品や歴史資料などが一堂に会した展覧会が、2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」。
東京での会期の後は、真田家にゆかりの深い長野県上田市での「上田展」、信繁が人生の幕を閉じた大坂城に近い「大阪展」と巡回する展覧会は、「真田丸」で描かれている戦国時代がリアルによみがえった展示内容は、ドラマファンはもとより、歴女もカタナ女子も思わず心躍らせることは間違いありません。
『鹿角・六連銭文旗指物』 桃山~江戸時代 個人蔵(上田市立博物館寄託) 生き抜いた真田信繁も眺めたに違いない、六文銭の旗印。※作品画像の転載・コピーは禁止
2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」(会期終了)
会期/2016年4月29日(金・祝)~2016年6月19日(日)
会場/江戸東京博物館 1階特別展示室
住所/東京都墨田区横網1-4-1
開館時間/9時30分~17時30分(土曜は19時30分まで 入館は閉館の30分前まで)
休館日/月曜(5月2日・16日は開館)
観覧料/1,350円(大学生・専門学校生1,080円、高校生・65歳以上680円、中学生以下無料 ※学生証や健康保険証、運転免許証など年齢を証明するものをご提示ください) ※身体障がい者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障がい者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方と付き添い(2名まで)は無料。第3水曜はシルバーデーで65歳以上無料(要証明書)。
アクセス/JR総武線「両国」駅西口より徒歩約3分、都営地下鉄大江戸線「両国(江戸東京博物館前)」駅A3・A4出口より徒歩約1分。
「真田丸」展の見どころ
堺雅人演じる真田信繁ありし日の姿がしのばれる品々
『真田信繁画像』 江戸時代 高野山 蓮華定院蔵
『鉄二枚胴具足(伝真田信繁所用)』 江戸時代 大阪城天守閣蔵
草刈正雄の父昌幸と大泉洋の兄信之の実像は?
賛が描かれた昌幸の肖像画『真田昌幸画像』 江戸時代 高野山 蓮華定院蔵
直衣姿の信之の肖像画『真田信之画像』(※東京展のみの展示) 江戸時代 長野・大鋒寺蔵
これが真田信之の軍配!
『軍配団扇(真田信之所用)』 江戸時代 真田宝物館蔵
真田家を二分した関ケ原の合戦の様子がここに!
重要文化財『関ヶ原合戦図屏風』 桃山時代 大阪歴史博物館蔵 ※東京展4月29日~5月22日は右隻・5月24日~6月19日は左隻を展示。大阪展にも出品
信繁が奮闘した大坂冬の陣・夏の陣の記録
『大坂城攻配陣之図』 江戸時代 元禄14年9月22日付 公益財団法人徳川黎明会 徳川林政史研究所蔵
なんたる達筆! 『真田信繁書状 左京宛(原史料名:真田幸村書状 左京宛)』 年不詳6月23日付 高野山 蓮華上院蔵
そして信繁は「真田幸村」の名で後世に語り継がれた
冬の陣で、身を隠していた徳川家康を探す信繁の図。錦絵には「真田左エ門尉幸村」と書かれていて、江戸時代中期以降は一般には幸村の名で知られるようになっていたことがわかる。『錦絵 真田幸村、巡見中の家康を追い詰める』 明治6(1873)年 上田市立博物館蔵