両親との別れ、コケダマとの出合い
50歳という節目の年は、心に大きな変化をもたらす年となりました。
父が亡くなり、後を追うように逝ってしまった母の一周忌が終わり、気が抜けたようにぼんやりしていたある日、携帯に着信がありました。
飼っていた犬の実家と言いますか、そちらで生まれた5匹のうちの1匹が我が家にやって来まして、犬を介しての親戚のような間柄とも思える方からの電話でした。いつも太陽のように明るいその方からは「苔玉を作りに来ない?」というもので、何でも苔玉教室を始めるとのこと。初めて耳にするコケダマとはなんぞやと思いつつも、二つ返事でハイと答えていました。
初めて作るコケダマは、モミジ。土を捏ねたり、張り付けたり、懐かしい粘土遊びの様な工程から苔を巻き付ける作業へ。初めて触れる苔のモフモフ感と自然の香り、なぜだかホッと気分が落ち着くのが分かりました。
さっきまでプラスチックのポットに入っていたモミジが、苔を纏って苔玉へと変貌する姿は、野山にそびえるモミジがギューっと縮小されてまるで大自然がミニチュアになって手のひらに現れたかのよう。植物にとってはごく当たり前の自然の営みが、同じ空間で共存できるなんて、とても贅沢なこと—-。
苔玉を初めて作った時の印象はこんな感じでした。
無限大に広がる苔玉の世界
完成した苔玉を家に持ち帰ってからは、合わせる器をどれにしようか器を取っ替え引っ替え。苔玉にとって心地の良い置き場所は何処かあっちに置いたり移動させてみたり……。苔玉の水やりは毎回苔玉を水場まで移動させ、溜めた水にチャポンと浸します。この苔玉に直に触れる作業がまた愛着のわくひと時です。
日々モミジを観察していると、枝が伸びたり葉の先端が茶色になったりと、ごく僅かずつですが変化してゆくのが分かります。冬には落葉して枯れてしまったのかと思いきや、春がやってくると薄緑の新芽がいっせいに芽吹き、夏には緑が深まって、秋は気まぐれに紅葉し、冬にまた落葉の季節を迎えます。
圧巻は桜です。冬の終わり頃、蕾をつけた苗を苔玉に仕立てて開花を待っていると、マンションの窓際に佇む小さな桜の苔玉が、開花予報とほぼ同時期に開花するではありませんか。蕾の先端がピンクに染まり、軸のようなものが伸びてきたかと思ったら、そこからはあっという間に花びらが開いて、それはそれは眼を見張るものがありました。我が家で咲いた桜の花を愛でながら味わう花見酒は格別でした。
苔玉はモミジや桜等の盆栽に使われる樹木だけでなく、観葉植物などでも可能で、根がある植物であれば大抵のものは苔玉に仕立てることができます。苔玉の最大の魅力は、器で雰囲気を変えられるところです。夏にはガラスの器で涼やかに演出したり、染付けの器で和の雰囲気を愉しんだり、はたまた流木と合わせてワイルドな苔玉に仕立てたりとアイデアは無限大。合わせる器次第で、苔玉の風情を変える事ができます。器探しでは古い物の中にも目新しい物はないかと、骨董市にも足しげく通いました。今でも、ふと通りかかった公園等で、骨董市と書かれた幟(のぼり)なんぞを見つけようものなら素通りできるはずもありません。
新しい苗に出会うとつい苔玉に仕立ててみたくなるので、リビングの窓際はほとんど苔玉が占拠しています。その他に、戸外の室外機置の横に棚を配してまだ苔玉にする前の苗や、ちょっと元気のない苔玉が自然な環境で過ごせるよう、言わば苔玉の入院先となっている場所があります。
苔玉のこととなると、居ても立ってもいられない。苔玉の写真をもっと綺麗に撮れるようになりたい。植物についてもっと学びたい等々。苔玉と出合ってからは、暇を持て余すことがないくらい挑戦したい事だらけの日々になっていました。
見かけはベテラン、中身は新米。講師としてのスタート
そんな時、太陽の様に明るいあの方からまたも携帯に着信があり、今度は苔玉のイベントをやるので手伝ってくれないかというものでした。またしても二つ返事の私。すると、そのイベントでは苔玉のワークショップを開催するので苔玉の作り方を教えてあげてほしいというものでした。
苔玉を作るのは率先してできますが、作り方を教えるというのは経験がないですし、私に出来るかどうか……。それ以前に私は人見知りで初対面の人とのコミニュケーションが苦手なので、まずはそこを克服してからというとハードルが2段階に積み上がる。
とても無理なので断ろうかと思ったものの、苔玉との出合いを導いてくれた方からのお願いを断る事はできないなと、今回限りはお受けしようと意を決したのでした。それに、私と同じように、苔玉との出合いを待っている人もいるかもしれない……。
ワークショップ当日、主催側はお揃いのエプロンをかけて笑顔での応対です。白髪混じりの見かけはベテラン、実は新米の私は、余裕のない表情で辿々しく苔玉作りを進めていたことと思います。ひとつ出来上がる度にホッとする状況でしたが、完成した苔玉に喜ぶ生徒たちの笑顔を見た時、やって良かったなと嬉しい気持ちが湧いてきました。自分も初めて苔玉を作った時の、あの気持ちと同じなのかなと胸が熱くというより暖かくなる想いがしました。
苦手ながらも頑張って良かったなと肩を撫で下ろすと同時に、生徒たちが喜ぶ姿を目にすると、苦労が消えてしまったようで、心地よい喜びだけが残っていました。「次回はこうした方が分かりやすいかな~」とか、「説明はああすれば良かったな~」などと考えている自分がいて、挑戦する感情が溢れ出していたのでした。
両親を見送ったあの頃、大きな役目を終えこれからは静かに老後を迎える準備をしていくことになろうかと思っていました。あれから10年。50歳にして出合った苔玉が、次々と未知なる私を引き出してくれています。60代はどんな新しい自分と出会えるか、そしてどれくらいの新しい笑顔と出会えるのか、密かに楽しみにしているところです。