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Culture
2021.09.01

思い出すのはほっぺたに触れたふわふわの着せ綿。菊の節句の由来と行事【彬子女王殿下と知る日本文化入門】

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3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句は知っているけれど、9月9日の菊の節句は馴染みがないという方も多いのではないでしょうか。彬子女王殿下が行事の内容をご自身の経験談とともにご寄稿くださいました。

とてもやさしい気持ちになった着せ綿の思い出

文・彬子女王
菊の節句は、五節句の中でも一番日本人の生活の中から離れてしまっているもののように思う。新暦の9月9日はまだ残暑も厳しく、まだ秋という気分でもないし、なんといっても、菊の季節ではない。菊がなければ、菊の宴もできないので、「何もしない」という選択になってしまうのも仕方のないことなのだろう。

斯くいう我が家も、菊の節句に何かしたことはないのだけれど、菊の節句に合わせて、毎年有職家の方から菊の着せ綿をお届けいただいていた。白・赤・黄色に染められた真綿が3つずつ。合わせて9つが角切の正方形のお盆にきれいに収まっている。白の真ん中には黄色、赤には白、黄色には赤のしべがぽっちりと埋め込まれていて、菊の形に見立てられているのもかわいらしい。

陰暦9月8日の夜に、菊の花に真綿をかぶせ、香りと露を移して身をぬぐうと、老いが去り、長生きできるという説明書きを読んで、あとから一人でこっそりやってみたことがある。やわらかく、しっとりした真綿でそっとほっぺたに触れると、真綿がすっと肌に吸い付いていくような感覚。やさしくなでてみると、心なしか、肌がつるつるになったような気もする。これで長生きできるのかと不思議な気持ちになると同時に、なんだかとてもやさしい気持ちになったことを今でもよく覚えている。

9月に入り、着せ綿が届くと、「今年ももうそんな時期か」と、いつも夏の暑さの中に少しだけ秋の訪れを感じた。大学に入り、日本美術史の授業で尾形光琳が取り上げられたとき、「光琳菊」を見てはっとした。丸の中に点という極端に簡素化した菊の意匠。「あ、着せ綿だ」と思った。着物や和菓子に光琳菊の意匠を見つけると、着せ綿を思い出してなんだか少し心がときめく。全国の神社で11月頃に開催される菊祭りを訪れ、初めて菊の上にかぶせられている真綿を見たときは、「これが本物の着せ綿か」とようやく子どもの頃の憧れにたどり着けたような気持ちになった。私にとっての菊の節句は、いつまでもあの日ほっぺたに触れたふわふわの着せ綿と共にあるようだ。

『光琳百図』 メトロポリタン美術館

菊の節句の由来

菊の節句は、重陽の節句ともいう。古来中国では、陽数(奇数)の極みである9の数字が重なる9月9日を重九ともいい、吉日としてきた。人々は、酒肴や茶菓を持って山に登り、茱萸(しゅゆ)を髪に挿し、菊酒を飲んで邪気を払ったのだそうだ。これは、後漢の有名な方士(神仙の術を行う人)であった費長房(ひちょうぼう)が、ある日、弟子に「9月9日にお前の家では災いが生じる。家の者たちに茱萸を入れた袋を下げさせ、高いところに登り、菊酒を飲めば、この禍は避けることができる」と伝え、弟子はその言葉に従って、家族と共に山に登り、夕方家に帰ると、鶏や牛などが身代りに死んでいたという逸話に由来すると言われている。

茱萸は、カワハジカミとも呼ばれ、重陽の時期に赤い実が生り、厄除けや寒さ避けになるという。菊も、周の穆王(ぼくおう)に愛され、菊の露を飲んで不老不死になったという菊慈童の伝説にもあるとおり、延寿の効力があるとされ、中国でも古くから愛され、日本には平安時代頃に伝来したと言われている。旧暦の9月9日は、大体10月の半ば頃。そろそろ冬に向かって行こうかという、収穫作業なども一段落した秋のさわやかな空気の中で、紅葉などを眺めながら、もうすぐできなくなる外での行楽を楽しむという意味合いもあったのだろう。

節句には、来る季節を元気に過ごせるように備える意味がある

日本で重陽の菊花の宴が初めて行われたのは、685(天武14)年。嵯峨天皇のときには、神泉苑に文人を召し、詩歌の宴が行われており、淳和天皇の頃には紫宸殿で行われるようになったようだ。臣下は天皇から菊酒を賜り、邪気を払い、長寿を祈念しながらそれを飲むのだという。菊の伝来と共に、菊を愛でる習慣が、朝廷から少しずつ人々の生活の中に浸透していくのがうかがえる。

また、後宮ではこの頃から、菊の着せ綿や、茱萸の袋を菊とともに柱に取り付け、邪気を払うといったことが行われるようになったようで、平安文学や和歌に着せ綿のことがよく詠みこまれるようになっていく。紫式部は、『紫式部日記』の中で、藤原道長の北の方から着せ綿を贈られた際、「菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」という返歌を贈っている。「着せ綿の露で千年も寿命が延びると言うことですが、私は若返るくらいに少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなたさまにお譲りいたしましょう」という意味の歌。着せ綿という贈り物を通した、当時の女性たちの交流が垣間見えて興味深い。

千代田の大奥 国立国会図書館デジタルコレクション

明治になってもこの着せ綿の行事は宮中でも行われていたようだ。9月8日の夕刻、御所のお庭の花壇に植えられた菊に綿をかぶせ、「杣人の 打袖匂ふ 露の露 打払ふことも 千代を経ぬべし」という歌を三度唱和され、女官もまた同じ作法をする。9日の朝、着せ綿で顔をぬぐわれて長寿を祈り、菊花が添えられた菊御献を召し上がるのだそうだ。こうした行事をすることで、季節の移り変わりをしっかりと感じる。節句とは、体調を崩しがちになる季節の変わり目に、普段の生活にはない特別なものを頂いて、季節が変わることを体に意識させ、来る季節を元気に過ごせるように備えるという意味があるのだろう。

秋の足音が少しずつ聞こえ始める時期。菊の着せ綿を今年もほっぺたに寄せて、秋の気配を感じることにしたい。

※アイキャッチは千代田の大奥 国立国会図書館デジタルコレクションより

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。