
「すきやばし次郎」の鮨は、なぜ世界を魅了したのか
今、私たちが高級鮨店で“おまかせ”を頼んだとき、どんな順番で供されるのが通常でしょうか。まずは白身魚や烏賊などの淡白なネタから始まり、鮪、いくら、雲丹、穴子などは中盤から終盤にかけて出てくるのではないでしょうか。
この流れを生み出した人こそが、「すきやばし次郎」前店主・小野二郎さんです。日本料理店で修業していた彼は、料理はどの順番で食べるのがおいしいのかを熟知していて、ならば鮨はどう展開すればよいのかを考え尽くし、このスタイルを完成させたのです。
今も昔も、小野さんの頭の中にあるのは「鮨を今よりもっとおいしくしたい」という切なる思い。だからこそ「すきやばし次郎」の鮨はいつも創意工夫に満ちていて、彼の手により生み出されたネタも多くありました。
たとえば鰹。藁で燻製のように燻すことで独特の青臭い匂いが取れ、残された旨味をしっかり味わえる一貫に。鮑もそう。それまで江戸前の鮑は、醤油で煮込んだ〝煮っころがし〟。それを時間をかけて蒸し鮑にすることで、香り豊かな鮨ネタへと生まれ変わらせたのです。
3年の年月をかけて、東京の蛸を明石の蛸の味に

「すきやばし次郎」を絶賛し、世界に広めた立役者のひとりに、史上最多の星を獲得したグランシェフ、故ジョエル・ロブション氏がいます。彼は「ゴムのようだから」といって蛸を苦手にしていたといいますが、小野さんは3年もの年月をかけて、東京の蛸を明石の蛸の味へと変貌させることに成功。ロブションも絶賛した仕込みの秘技は、本書に詳しく書かれています。
そのロブションは、常々「すきやばし次郎のカウンターは天国にいちばん近い席」と話していたのだそう。鮨職人・小野二郎とは、鮨という食文化を世界に認知させた稀代の職人といえます。ではいったい、どんな幼少期を過ごし、どんな切磋琢磨の日々を経て、今の地位へとたどり着いたのでしょうか。
仕事とは、教えられるものではなく〝盗む〟もの

小野二郎さんが料理人としての人生をスタートさせたのは、なんと7歳のとき。世界的な大恐慌で日本中が貧しかった時代に、地元・浜松の有名料理旅館「福田屋」へと奉公に出ます。「奉公に行けば屋根の下で眠れて飯が食える」「ここでダメなら行くところがないから必死にやる」。小野さんは幼いながらに覚悟を決め、料理の基本を必死に習得していきます。
「福田屋」の親方は、こう語ってくれたそう。「だれでも1日3回は必ずものを食べる。だからうまいものをつくっていれば、必ず人が来る」。折に触れて耳にしたこの言葉は、小野さんの職人人生の指針となっていきました。
朝起きたら庭と玄関を掃き、水を撒いて学校へ。帰宅後は2時間半かけて井戸から水を汲み上げたのち、出前の器を下げに回り、夜は調理場の床掃除までをひとりでこなす日々。猛烈に下働きに精を出した末、なんと13歳で披露宴の料理を任されるようになります。それは職人たちを横目で見ながら、必死に技術を〝盗んだ〟ゆえのことでした。
その後、第二次世界大戦の戦況悪化により、軍隊生活を送ることになります。厳しい食糧環境のなか、軍隊の炊事場から「かっぱらった」という米を近隣農家の鶏と交換して調理したり、海洋演習時に海から上がってきた鰻を開いて焼いてみせたり。料理人の腕を生かして工夫を凝らし、周囲を喜ばせたといいます。
驚くことに、奉公生活に比べると「軍隊はラクだった」と語る小野さん。それは幼少期に培った「自ら仕事を探して、完璧に終える」を全うしていたからこそ。誰よりも先を読み、厳しい実作業をこなし、それでいて食を提供する喜びを忘れない姿は、すでに大物となるポテンシャルを秘めていたのです。
「不器用でよかった。人よりも多く考える癖がついた」

その後、小野さんは26歳で鮨職人としてのキャリアをスタート。なぜ「鮨」だったのかというと、「料理屋は調理設備や器などの調度品が必要。鮨ならカウンターとまな板ひとつあれば始められる」というのがその理由。彼の合理的な一面がよくわかるエピソードです。
修業先は、当時“鮨御三家”のひとつといわれた、京橋の名店「与志乃」。親方の包丁さばきは見事なまでに美しく、そのさまを横目で見て、真似をして、体に叩き込むことを徹底したそう。ここでも着々と技を“盗む”ことを実践していったのです。
「不器用だから人の3倍は練習した」「不器用でよかった。人が1考えるところを3も4も考えることで、考えが深くなった」と下積み時代を振り返る小野さん。「すきやばし次郎」の鮨はシャリの中に空気が含まれていて、そのシャリと鮨ネタが口内で渾然一体となります。それは「与志乃」の親方のやり方を思い描きながら、自分なりに改良した握り方によるもの。誰よりも想像力と創造力を働かせる。それが彼の職人道なのです。
修業時代の厳しいエピソード、そして「すきやばし次郎」開店から今に至るまでのこと、さらに未来の地球環境まで、この一代記のなかには、鮨好きな人、食文化に興味がある人はもちろん、仕事論を学びたい人にも響く言葉があふれています。読み進めるほどにひざを打ち、その人生哲学に引き込まれていくことでしょう。
「仕事は80歳から楽しくなる」と語る理由

最後に、2010年から小野さんと親交を深め、100時間以上にわたるインタビューを行い、本書の企画と構成を担当した編集者、尾崎 靖氏の言葉を紹介します。
「『日本の伝統食である江戸前鮨』を『世界の食通が憧れるガストロノミー』へとクラスアップさせたクリエイターであり、アーティスト、それが小野二郎さんなのだと思います。とはいえグローバルな仕掛けなど何ひとつしていないのだから不思議なもの。ではなぜ世界は『すきやばし次郎』に注目したのでしょうか。
小野さんの口から何度となく発された『仕事を“盗む”』という表現があります。これは苦労して苦労して必死に自分の体に染み込ませたものは一生涯忘れることがない、ということ。一方、人に教えてもらったものはそれが懇切丁寧だとしても、いずれ忘れてしまうだろう、ということなのです。
だからこそ小野さんは、自分で考えることを何よりも大切にしています。考えるという行為は、昨今の安易に生成AIを頼るような姿勢とは真逆のもの。思考の末にたどりついた究極の鮨だからこそ、最先端を走りながら、その道が鮨文化のベーシックになっていった。世界はその唯一無二のクリエイティビティに注目したのでしょう。
驚くことに小野さんは『仕事は80歳から楽しくなる』と語っています。それは80歳までに何百、何千といったトライを繰り返してきたから、不測の事態が起こっても創造的なアプローチで対応できるからなのだそう。いかにしてその境地にたどり着いたのか。小野さんの穏やかでいて、どこかユーモアあふれる至高のオーラルヒストリー、ぜひ単行本で楽しんでみてください」
著者プロフィール
小野二郎(おの・じろう)
大正14(1925)年、静岡県生まれ。昭和26(1951)年、東京・京橋の名店「与志乃」で鮨職人としてのキャリアを始め、昭和40(1965)年「すきやばし次郎」を開店。多くの著名人のほか、フランス料理のジョエル・ロブションら食のプロたちをも顧客として魅了。平成23(2011)年、アメリカで公開された映画『二郎は鮨の夢を見る』をきっかけに世界的名声を得る。平成26(2014)年、当時の安倍晋三首相とオバマ・アメリカ大統領が同店で会食したことが大きな話題に。同年、黄綬褒章受章。平成31(2019)年、ミシュラン三つ星レストランの最高齢料理長として、ギネス世界記録に認定。令和7(2025)年10月27日、百歳を迎えた。
書籍データ
『すきやばし次郎 百歳「鮨がたり」』
小野二郎
定価:2,750円(税込)
四六版上製本 262ページ
小学館
写真提供/泉 健太 構成・文/本庄真穂

