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2024.09.11

蔦屋重三郎の師匠でライバル!?江戸の出版業界をリードした鱗形屋孫兵衛とは

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2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」では、老舗版元3代目の鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)を、片岡愛之助が演じることで注目されています。孫兵衛は、蔦重にとって師匠であり、宿命のライバルでもありました。そんな江戸の出版文化の隆盛を極めた二人の関係が、どのように描かれるのか。孫兵衛の人生に迫ってみました!

3代目鱗形屋孫兵衛は、『吉原細見』の版元として隆盛をきわめた

この鱗形屋の名を一躍有名にしたのが、吉原のガイドブックともいえる『吉原細見』です。これは吉原の妓楼や揚屋、茶屋などの絵地図と、人気の遊女たちを紹介したものでした。発行当初はいくつもの版元から発行されていましたが、宝暦8(1758)年以降は、鱗形屋の独占に近い形となっていきます。そして、安永2(1773)年、蔦屋重三郎が、新吉原大門口へと続く五十間道(ごじっけんみち)に書店を構え、鱗形屋から発行される吉原細見の小売店として商売を始めます。一介の書店が吉原きっての版元へと成長していく過程には、孫兵衛から版元経営を学んだことが大きかったのでしょう。後に、『吉原細見』の版権を得て、蔦屋は一時代を築くことになります。

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吉原細見 鱗形屋孫兵衛発刊 元文5年(1740)国立国会図書館デジタルコレクションより

出版文化は上方から江戸へ。江戸で誕生した老舗の版元・鱗形屋

江戸時代の初め頃まで、出版文化は上方が中心となっており、貴族や僧侶、上級武士たちに独占されていた書物、主に仏教関係の書や『源氏物語』や『徒然草』といった古典、仮名草子(かなぞうし)や俳諧書など、京の版元から発行されていました。寛永期(1624~43年)に入ると、さまざまな文化や芸能が町人を中心として盛んになり、重宝記※1や万宝、好色本※2が一般庶民の間に広がっていきます。一方、江戸では、当時人気を博した菱川師宣(ひしかわもろのぶ)などの絵師による枕本※3が発行されます。また、大坂で大ヒットを飛ばした井原西鶴の書いた『好色一大男』の江戸版も、菱川師宣の画で出版されました。

※1 日常生活に必要な知識を集めた百科事典のようなもの。※2 男女の色恋や遊里での様子を描いた本。※3 情事の場面など、春画を描いた本、春本ともいう。

『好色一代男』 菱川師宣画 川崎七郎兵衛刊 貞享元(1684)年 国立国会図書館デジタルコレクションより

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このように上方の流行を受けながら、浄瑠璃本や、昔ばなしを書いた御伽草子(おとぎぞうし)、女性や子ども向けの話を書いた仮名草子(かなぞうし)が、江戸でも発行されていきます。その中心となったのが鱗形屋でした。鱗形屋の始まりは、万治年間(1658~1661)頃といわれ、江戸で誕生した老舗の版元と言われています。

「山三情乃通路」菱川師宣画 鱗形屋刊 貞享2(1685) 国立国会図書館デジタルコレクションより

鱗形屋孫兵衛は、黄表紙の大ヒットで、版元としてゆるぎない地盤を築く

現代でも有名作家には、優秀な編集者がついていますが、当時、武士の身でありながら、戯作者(げさくしゃ)としての才能を発揮した恋川春町(こいかわはるまち)を世に出したのも鱗形屋孫兵衛でした。幕府老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の政策で、商業が盛んになると、裕福な町人が増え、吉原通いをする金満家も出てきました。こうした吉原人気にあやかり、大人向け小説として人気を呼んだ黄表紙の発行に、力を入れ始めます。その第一作となったのが、安永4(1775)年に出版された春町の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」でした。これは江戸の文学界に大きな変化をもたらすほど大成功となりました。これ以降も鱗形屋孫兵衛は、春町とタッグを組んで次々とヒット作を出版します。さらに続いて、春町の友人であった朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)にも黄表紙を書かせて盤石な体制を築き上げていきました。

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鱗形屋を揺るがす一大事件が勃発

当時、新しい著書が出ると、すぐに海賊版が出版されることが横行していたため、京と大坂の町奉行からこれらを規制する「重板・類板禁止」が出されました。しかし、安永4(1775)年に大坂の版元から出版された『早引節用集』を鱗形屋の手代・藤八が『新増節用集』と改題して出版してしまいます。この件は、版元仲間の須原屋が間に入り示談となりますが、安永6年(1777)に、今度は同タイトルのまま、使用人の徳兵衛が出版してしまったのです。さすがにお咎めなしとはいかず、重版を行った徳兵衛は家財没収・追放、代表であった孫兵衛にも重い罰金が課せられました。この一件で、鱗形屋は社会的にも信用を失ってしまいます。これを機に黄表紙の発行も激減し、主力商品であった『吉原細見』の出版もできなくなり、小売りしていた蔦重に版権を奪われてしまいます。栄枯盛衰とはまさにこのことで、この後、後進の蔦屋重三郎が破竹の勢いで、版元としての地位を築いていくのです。これ以後、鱗形屋の出版数はみるみる減少、営業不振に陥り、江戸の出版界から姿を消すことになりました。

出版業界の栄枯盛衰を肌で感じた孫兵衛

それでも鱗形屋が出版界に与えた影響は計り知れません。春町と喜三二という二大作家を抱え、安永5(1776)年には江戸で出版された黄表紙の約半数を鱗形屋が占めていました。そうした恩を感じていた春町は、蔦重などの他の版元からの依頼も断り、しばらく休筆するのです。しかし、世の流れか、出版業界の盛衰は激しく、蔦重は次々と新機軸を打ち出し、江戸を代表する版元へとのし上がっていきました。孫兵衛はそれを逐次(じくじ)たる思いで見ていたのでしょうか。それを知る術もありませんが、心のどこかでは、愛弟子の活躍に拍手を送っていたのかもしれません。

アイキャッチ画像 『春遊機嫌袋 2巻』 恋川春町 画 鱗形屋 国立国会図書館デジタルコレクションより

参考資料:『江戸の本屋さん』 今田洋三著 NHKブックス 『蔦屋重三郎―江戸芸術の演出者』 松本寛著 日本経済新聞社 『日本人名大辞典』小学館 

書いた人

旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。