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2025.04.24

なぜ息子を狙ったのか? 田沼意知を斬り、28歳で切腹した「世直し大明神」の謎

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2025年大河ドラマ「べらぼう」では、蔦屋重三郎が活躍する時代背景として、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による幕府政治が描かれています。商業の発展に力点を置いた田沼政治でしたが、幕府内では田沼を快く思わない者も少なくありませんでした。そして、ターニングポイントとなるのが、意次の息子で、若年寄(わかどしより)の重職にあった田沼意知(おきとも)の刃傷(にんじょう)事件です。江戸城内で意知を斬ったのは、旗本の佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)。佐野はなぜ田沼意知を斬ったのか、その謎に迫ります。

佐野の屋敷の近所で、佐野の刀の相談を受ける

「刀のことで、ちょっと相談に乗ってほしいのですが……」

平成20年(2008)夏のある日のこと。数日前に開かれた経営者の会合で知り合ったAさんが、私が勤める出版社を訪れました。当時、私は歴史雑誌の編集長をしており、たまたま会合に招かれていたのです。応接室で、Aさんは、おもむろに話を切り出しました。

「田沼意知をご存じですか?」
「はい。田沼意次の息子ですね。若年寄で、江戸城内で斬られましたよね」

Aさんはうなずくと、

「相談したいのは、その田沼を斬った刀なのです」

私は驚き、

「ということは、佐野善左衛門の脇差(わきざし)ですか?」
「はい。事情があって、いま私の手元にあるのですが、どうしたらよいものかと……」

Aさんがどんな伝手で刀を入手したのかはよく覚えていませんが、奥様の縁者に伝わるものだったかもしれません。私が佐野善左衛門のことを知っていたのは、理由がありました。

「Aさん、ご存じですか? 佐野の屋敷は、このすぐ近所だったのですよ」

今度はAさんが驚く番でした。私が勤める出版社は当時、東京都千代田区三番町にありました。同じ三番町に大妻(おおつま)学院があり、学校周辺が旗本佐野家の屋敷跡です。御厩谷坂(おんまやだにざか)に面する校門付近に「佐野善左衛門宅跡」の標識が建ち、私は通りすがりに眺めて、田沼意知を斬ったことで、「世直し大明神」とあがめられたという佐野の名前を覚えていました。
佐野の屋敷跡の近くで、佐野が振るった刀の相談を受けるとは、何やら因縁めいているなと、その時は思いましたが、しばらくすると忙しさにまぎれて、忘却のかなたに……。それから十数年後、佐野善左衛門が思いがけず大河ドラマに登場し、にわかに記憶がよみがえってきました。同時に、佐野は、なぜ江戸城内で刃傷事件を起こしたのか。それも権勢をふるう老中の田沼意次ではなく、息子の意知を斬ったのはなぜなのか、が気になり、少し調べてみることにしました。
佐野善左衛門宅跡

刃傷事件のあらまし

事件が起きたのは天明4年(1784)3月24日、13時頃。江戸城本丸御殿表の中の間付近でのことでした。徳川幕府の公式史書である『徳川実紀(じっき)』は、次のように記します。

「午(うま)の刻の終わり(13時頃)に、執務を終えた老中たちが皆、御用部屋から退出し、これに続いて若年寄たちも退出しようと、そろって中の間から桔梗(ききょう)の間へさしかかった時のこと。新番士の佐野善左衛門政言が詰めていた部屋より走り出て、刀を抜くや田沼山城守(やましろのかみ)意知に斬りかかった。意知は殿中(でんちゅう、城内)であることをはばかったのか、脇差を鞘ごと抜いて、しばらく応戦するが、周囲の人々は思いがけない事態にあわて騒ぐばかりで、誰も佐野を取り押さえようとしない。するとはるか遠くにいた大目付(おおめつけ)の松平対馬守忠郷(まつだいらつしまのかみたださと)が走り寄って佐野を組み伏せ、目付の柳生主膳正久通(やぎゅうしゅぜんのしょうひさみち)も加勢して、佐野を取り押さえると、牢獄へ送った。意知は多数の傷を負っており、番医師2名が手当てをして、駕籠に載せて主殿頭(とのものかみ)意次の屋敷へ送った。この日、その場に多くの若い者もいた中で、70歳を越える対馬守忠郷が佐野を組み伏せたことに、人々は感心しあった」(意訳:筆者)

以上が幕府の公式記録に残る、佐野善左衛門の刃傷事件の概要です。事件のあらましはこの通りだったでしょうが、補足として、もう少し詳細に描写されている『営中刃傷記』(著者不明)の「新衛佐野善左衛門、参政田沼山城守を討果候(うちはたしそうろう)一件」を見てみましょう。佐野が田沼を斬る場面です。

「若年寄たちが退出するところで、新番所に並んで座っていた新番士のうち、桔梗の間の方から数えて2番目にいた佐野が走り出した。佐野は『山城殿、覚えがあろう』と一説に3度も声を上げながら、中の間を出ようとする意知に斬りかかる。初太刀は意知の肩先に長さ3寸(約9cm)、深さ7分(約2cm)の傷を負わせた。そのまま意知は桔梗の間の方に逃げるが、佐野は意知を廊下に追い詰め、意知が倒れたところを、腹を突こうとして、股を3寸5分(約10cm)突いた。この傷は骨にまで及んだという。股は左右斬られ、意知は力を失い、新番所の方へよろめいて、廊下の暗がりに倒れ込んだ。すると佐野は意知を見失い、中の間の方へ取って返したところ、大目付の松平対馬守が走り出て、取り押さえる。この時、柳生主膳正が佐野から脇差を取り上げたというが、実際は佐野自ら脇差を渡していた」(意訳:筆者)

『徳川実紀』との大きな違いは、まず佐野が斬りかかる際、「山城殿、覚えがあろう」と声を上げている点です。まるで『忠臣蔵』の松の廊下のようですが、佐野が意知に、何らかの遺恨があったことを感じさせます。次に、意知が何ら応戦せず、負傷しながらひたすら逃げている点。『営中刃傷記』は、「殊之外憶し候様子之由(大変怯えた様子であったという)」と記しています。事実とすれば、幕府の重職にある武士の振る舞いとして、どうなのか。そして、佐野が途中で意知を見失う点。佐野が逆上して、冷静さを失っていたようにも見えますが、廊下の暗がりと記されているように、外光の届かない御殿の奥は、昼でもかなり暗かったのかもしれません。
事件を題材にした黄表紙『黒白水鏡』(国立国会図書館蔵)

静山が記す佐野の刀

この刃傷事件について、平戸藩主の松浦静山(まつらせいざん)も随筆『甲子夜話(かっしやわ)』の中で触れています。その部分を紹介してみます。

「私の若かりし頃、若年寄の田沼氏を、新番衆の佐野善左衛門という人が殿中にて斬った時、大目付の松平対馬守忠郷が佐野を組み止めた。話によると、佐野が刀を振り上げて斬るまでは、対馬守はその背後におり、佐野が斬り終わってから、組み止めたという。人が言うには、百年前に浅野氏が吉良(きら)氏を斬った際、梶川(かじかわ)某が組み止め(て本懐を遂げさせなかっ)たのは、武士の心を知る振る舞いではない。その点、対馬守は武士の道をわきまえていると、心ある人は感じ入ったという。私も対馬守はよく見知っているが、頭髪の薄い老人で、普段は勇敢さなど感じない。叔父の越前が語るには、佐野が田沼を斬る際に、御番所の前を通る田沼に対し、佐野は『申し上げます、申し上げます』と声を上げながら刀を抜き、八相(はっそう)に構えて追いかけ、田沼が振り返ったところを肩より袈裟がけに斬り下げ、返す刀で下段を払うのを、目のあたりにしたという。また、佐野の脇差は2尺1寸(刃長約64cm)の粟田口一竿子忠綱(あわたぐちいっかんしただつな)であり、事件後、忠綱の刀の値段が急騰(きゅうとう)したという。当時の人気のほどを、思うべきであろう。一方、この時の田沼の脇差は貞宗(さだむね)であったが、鞘に切り込みがついていたという。おそらく、佐野の下段の払いが当たったものだろう。田沼家の主張では、佐野の太刀を鞘ごと抜いて受けた時の切り込みであるというが、果たしてどうだろうか」(意訳:筆者)

松浦静山は伝聞をもとに記していますが、静山は大名ながら剣術の達人であり、佐野が意知を斬った様子は、剣の技として理にかなった記述となっています。また佐野の脇差について、『営中刃傷記』は「長さ2尺2寸5分(約67cm)、粟田口保光作」と記しますが、静山が忠綱の値段が急騰したと語る以上、佐野の脇差は一竿子忠綱と見てよいでしょう。私がAさんから相談を受けたのは、この刀のはずです。なお忠綱の値段が急騰したのは、佐野が意知を斬ったことを世間が喜び、殊勲の刀として忠綱の人気が上がったからでした。それほど意知は、世間から嫌われていたわけです。

なぜ意知は、人々から憎まれたのか

重傷を負った意知は城内で番医師の応急手当を受けたのち、駕籠で神田橋門内の田沼家上屋敷に運ばれます。しかし傷は深く、2日後の26日に息を引き取りました。享年36。届け出た死亡日は、4月2日です。2日の夕方、意知の葬列が屋敷から寺に向かう途中、沿道から石を投げつけられ、罵声を浴びせられました。意知はなぜ、それほど人々から嫌われていたのでしょうか。
意知は田沼家の家督を継がぬまま、33歳で奏者番(そうじゃばん)、2年後に若年寄になっています。意知に目立った功績があったわけではなく、ひとえに老中を務める父・意次の計らいでした。意次が、いずれ意知を後継の老中とし、自分の政治路線を受け継がせようとしていることは明らかで、幕府高官らにすれば、面白くないと感じる者も多かったでしょう。
とはいえ田沼意次の政策は、斬新ではあっても、幕府内部から憎まれるような内容ではありません。彼の政策の第一は税制改革です。幕府の財源を田畑の年貢のみに頼るのではなく、商品流通を発展させ、そこからも税金をとるようにしました。第二は通貨の改革で、金銀の通貨を統一し、経済の発展を図ります。第三は開発事業で、蝦夷地(現在の北海道)の調査、干拓などで新田開発を行い、殖産興業(しょくさんこうぎょう)にも力を入れます。さらに民間からも、広く献策を募りました。これらの田沼の政策は「重商主義」と呼ばれ、窮乏する幕府の収入を増やすための大胆な改革でした。また経済の活性化は、世の中に自由な雰囲気と活気をもたらし、さまざまな文化が生まれることになります。
ただし、意次の父親が足軽出身だったこともあり、成り上がり者の意次に対して、家柄の良い幕臣たちの「ねたみ」は強かったようです。また幕府の利益を優先する政策に、反発する庶民も少なからずいました。逆に意次に取り入ろうとする者たちが、賄賂を横行させることになり、意次は「私腹を肥やす政治家」と批判されるようになります。そして天候不順による天明の飢饉で米が高騰し、生活が苦しくなると、これも田沼の悪政によるものと庶民は怒りの矛先を向けました。田沼意知の葬列に石が投げられたのは、こうした背景があったわけですが、政策を進めたのはあくまで意次で、息子の意知は若年寄として補佐したにすぎません。つまり意知は、父親のとばっちりで、庶民から憎まれてしまったといえるでしょう。一方、長崎のオランダ商館長イサーク・ティチングは、著書『日本風俗図誌』の中で、意知について次のように記しています。

「事情に通じた人々は(中略)、才幹あり進取の気性に富む青年田沼山城守に大いに嘱望(しょくぼう)の目を注いできた。彼らは、山城守が父の後を継いだならば、必ずや大いに父の開いた道をさらに拡大することであろうと考えていた」

田沼の悪いイメージの象徴が「賄賂」

動機は個人的な恨みだったのか

次に、佐野善左衛門はなぜ意知を斬ったのか。まず、その人物像を見てみましょう。
善左衛門の佐野家は、三河国(現在の愛知県東部)で徳川家康の祖父・松平清康(きよやす)に仕えたことに始まる、三河譜代の家柄です。2代将軍秀忠(ひでただ)の時代に、佐野正長の次男・政之(まさゆき)が分家を立てたのが善左衛門の佐野家で、善左衛門政言は政之から数えて6代目でした。分家の佐野家は、代々番士を務めています。番士とは五番方と呼ばれる「書院番、小姓組、大番、小十人(こじゅうにん)、新番」のいずれかに属する者で、幕府直轄の常備軍でした。このうち書院番、小姓組は他の3つよりも格上です。善左衛門の父・政豊(まさとよ)は、大番、新番の番士を務めました。佐野善左衛門政言は宝暦7年(1757)に、政豊の10人姉弟の末子として生まれます。一人息子であり、他の9人はすべて姉でした。田沼意知よりも8歳、年下です。
安永2年(1773)に17歳で家を継ぎ、安永6年(1777)に21歳で大番士に任ぜられ、翌安永7年に新番士に移りました。父親と同じ道を、堅実に進んでいたことになります。同じ頃、4つ年下の妻も娶(めと)りました。善左衛門の人柄を具体的に伝える史料はありませんが、常識的に考えれば前途ある若者です。それがなぜ、自分の命を失うだけでなく、旗本佐野家を潰すことになる、城内での刃傷事件に及んだのでしょうか。
『営中刃傷記』は、善左衛門は乱心ではなく、田沼父子を討とうと数年来心がけており、懐中に意知を斬った理由7ヵ条を記した書き付けを忍ばせていた、とします。主な内容は以下の通りです。

1.佐野家の系図を田沼父子に貸したが、返却しない
2.佐野家の領地にあった佐野大明神の社を、意知が勝手に田沼大明神に変えてしまった
3.佐野家の七曜の紋の旗を意知に貸すが、七曜は田沼の紋であるとして返却しない
4.田沼家の先祖は佐野家の家臣筋なので、佐野は昇進の世話を依頼して金を贈るが(一説に620両)、金だけ取られて昇進できなかった
5.将軍の鷹狩の際、供に加わり、雁一羽を射止めるが、意知が将軍に善左衛門の矢であることを伝えなかったため、褒賞にあずかれなかった

他の2ヵ条は伝わっていませんが、いずれも個人的な恨みです。旗本佐野家を断絶させてまで、意知を斬る動機としては弱いといえるでしょう。唯一4番目の、620両もの大金を取られて昇進できなかったのが事実であれば、怒りも募るでしょうが、善左衛門は20歳代で、すでに現役時代の父親と同じ役職についています。大金をつぎ込んで昇進を急ぐ必要があったのかは、疑問です。

悪政に対する「公憤」で立ち上がったのか

また『営中刃傷記』によると、善左衛門は自邸に17ヵ条の口上(こうじょう)書を書き置いていたとも記します。後で作られた偽物ではないかという見方もありますが、参考までに紹介します。

1.天下の要職に就きながら私欲をほしいままにし、無道の行いが多い
2.依怙贔屓(えこひいき)で役人を出世させ、不正な人事を行っている
3.神祖(徳川家康)の忌日である17日に、寵童や卑妾を集めて酒宴遊興乱淫した
4.旗本のお歴々に、自分の成り上がり者の家臣の娘との縁談をとりもった
5.贋金を作らせて天下の通用金とし、利益を得ていた
6.息子の意知を、旗本のお歴々を差し置いて若年寄に任じた
7.奥向きの人事も賄賂を贈った者を取り立て、大奥の女性と面会してわがままを取り計らった
8.自分の屋敷に将軍側室を招き、芸者や河原者を呼んで淫らなことをしようとした
9.加増の際、功績のある大名や旗本のよい土地を取り上げて、わが物とした
10.本家の系図を借りて、自分の家を本家であるかのように偽ろうとした
11.多額の運上金(税金の一種)を取り立てて、庶民を苦しめた
12.死罪となるべき者を、法を曲げて勝手に許した
13.私財を蓄えたうえ、利子をつけて町人に貸し付けた
14.法を犯して他家を追われた者を、吟味もせずに家臣にしている
15.代々の将軍が初乗りの際に用いた鞍(くら)をもらい受け、自分の鞍として用いている
16.縁家の土方家の先祖の名を、自分の家にそのまま用いている
17.衆道(男色)をもって立身出世したにもかかわらず、武功の家と偽っている
18.皆が困窮しているのに、息子の意知は5,000俵を拝領している

17ヵ条の口上書といいながら、18項目ありました。当時の幕臣が田沼政治をどう見て批判していたかがよくわかり、興味深いですが、いずれも田沼意次を糾弾する内容で、意知の名は2項目にしか出てきません。それも意知がしたことではなく、意次による意知の処遇です。これが善左衛門の刃傷事件の動機とすれば、善左衛門は田沼の悪政に対する「公憤」で立ち上がったことになりますが、であれば斬るべき相手は意知ではなく、意次だったのではないでしょうか。つまり7ヵ条の「遺恨」も、17ヵ条の「公憤」も、田沼意知を斬る動機としては不十分で、納得できるものではないのです。なお幕府は、一件を善左衛門の「乱心」によるものとし、意知の死後、善左衛門に切腹を命じています。
田沼意次

善左衛門単独の暗殺事件ではなかった?

「乱心」とは、怒りなどで心が乱れ、分別をなくした状態のこと。善左衛門がこの時、精神に異常を来していたのであれば、遺恨も公憤も関係なく、意知は偶発的な事故の被害に遭ったことになり、幕府が善左衛門を処断すれば、すべて解決します。こうした事件が起きた際、加害者を乱心と認定してしまうのが最も手っ取り早く、後腐れのない解決方法であり、幕府の常套手段でした。しかし『営中刃傷記』が「善左衛門は乱心にこれ無く」と記すように、当時大半の者は乱心とはとらえていなかったようです。そして、前出のオランダ商館長ティチングが、気になる内容を記しています。

「若年寄田沼山城守は、父親の老中田沼主殿頭や、他の同僚らと一緒に御用部屋から屋敷に帰るところを、500石取りの新御番、すなわち新しい親衛隊の隊士佐野善左衛門という者のために殺された。この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾(しそう、そそのかすこと)しているように思われる。(中略)父親の方はもう年も取っているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある。のみならず、また父親から、そのたった一人の息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ないはずだ。こういうわけで、息子を殺すことが決定したのである」(『ティチング 日本風俗図誌』)。

なんと、この事件は佐野善左衛門単独の暗殺事件ではなく、背後で善左衛門を動かした者がいた。その目的は田沼政治の幕引きであり、意次に最大の政治的ダメージを与えるために、あえて本人ではなく、有能な後継者である息子の意知を殺した、というのです。これほどの機密情報を、一体誰がオランダ商館長の耳に入れたのかも気になりますが、詳細は伝わっていません。

事件で、誰が利益をうけたか?

「それによって、誰が利益をうけたか?」…推理小説などでよく用いられる、犯人を割り出すための考え方です。これを事件に当てはめると、どうなるでしょうか。
事件から2年後の天明6年(1786)8月25日、10代将軍家治(いえはる)が50歳で死去。その2日後、田沼意次は老中を罷免されています。将軍家治の死因について、実は公式記録の『徳川実紀』の記述は曖昧で、当時、田沼が毒を盛って将軍は急死したという噂が流れました。しかし、意次を篤く信頼する将軍家治に、意次が毒を盛るはずがありません。将軍薨去の直後に田沼が失脚している点からも、むしろ田沼の敵対勢力が噂を流したのでしょう。もし将軍家治の毒殺が事実であるならば、敵対勢力はまず意知を暗殺し、次に将軍家治を暗殺して、田沼を失脚に追い込んだとも考えられます。いずれにせよ、意知の暗殺と将軍の死により、田沼政治は終わりを告げました。
では改めて、これらの出来事で誰が利益をうけたのでしょうか。天明7年(1787)4月、徳川家斉(いえなり)が11代将軍に就任。10代将軍家治には家基(いえもと)という世継ぎがいたのですが、安永8年(1779)に18歳で急死しています。そのため、家斉を御三卿(ごさんきょう)の一橋(ひとつばし)家より養子に迎えていました。家斉の実父は、一橋治済(はるさだ)、家斉は将軍就任時、まだ15歳です。そして田沼に代わって老中首座となり、幕政を主導したのは、白河藩主の松平定信(さだのぶ)でした。ということは、田沼の後を襲った松平定信が、利益をうけた者になるのでしょうか。
それはおそらく、違うでしょう。松平定信はもともと御三卿の田安(たやす)家の出身で、11代将軍になってもおかしくない血筋でした。それが田沼らによって白河松平家の養子に出され、チャンスを失っています。定信はこのことを恨み、また田沼政治のゆるみぶりに憤って、「一時は田沼の刺殺まで考えたが思いとどまった」と、将軍への意見書に記すほどでした。しかし「刺殺まで考えた」と率直に報告する者が、陰で謀略をめぐらせるでしょうか。定信は賄賂や進物を決して受け取らず、よくも悪くも清廉潔白な人物だったといいます。また本来、将軍につくことのできる血筋の定信にすれば、老中就任は「利益をうけた」ことにあたらないでしょう。
では、利益をうけたのは誰になるのか。一つ気になるエピソードがあります。将軍家斉は晩年に至るまで、先代家治の世継ぎで、急死した家基の命日に、必ず墓所に参詣しました。家基は将軍ではなく、将軍の嫡男です。にもかかわらず、将軍家斉が参詣を欠かさなかったのはなぜか。実は本来将軍となるべき家基は、家斉の父・一橋治済によって密かに謀殺されており、結果、自分が将軍になったので、祟りを恐れていたというのです。謀殺が事実であれば、一橋治済は、息子家斉を将軍につける野望を抱いていたことになります。もちろん年若い将軍の実父として、自ら権力を握るつもりだったのでしょう。そうなると、佐野善左衛門による田沼意知暗殺も単独の事件ではなく、背後に一橋治済の意志があり、治済が権力を握るためのシナリオの一つであったのかもしれません。そして、将軍家治の死(毒殺)と田沼意次の失脚によって、野望の邪魔になる者をすべて排除するという治済の目論見は、一応の成功を見たのでしょう。確証といえるものは残っていませんが、一連の出来事で最も利益をうけた者とは、一橋治済ではなかったでしょうか。
家斉将軍就任の翌年、一橋治済の働きかけで、家斉は実父治済に「大御所」の称号を贈りたいと幕閣に相談します。大御所は隠居した前将軍の尊称であり、将軍経験のない治済に許されるものではありません。治済が野望を露(あらわ)にした瞬間でしょう。大御所問題は老中松平定信が「先例がない」と頑としてはねつけ、立ち消えますが、治済の怒りを買った定信はやがて失脚しました。
一橋家屋敷跡

世直し大明神

田沼意知の葬儀の翌日にあたる、4月3日の酉(とり)の刻(18時頃)、佐野善左衛門は小伝馬町の牢屋敷前庭において、切腹しました。『柳営日次記(りゅうえいひなみき)』によると、庭に敷かれた畳に正座した善左衛門は、介錯(かいしゃく)人と挨拶を交わし、「こうした時には盃事があるはずだが、いつ頃からなくなったのだろう」と語りかけます。そして居住まいを正すと、「刃物、刃物」と呼びかけ、役人が切腹用の刀を載せた三方(さんぽう)を、辛うじて手の届くぐらいの位置に置きました。善左衛門が前かがみになって遠くにある三方に両手をのばし、手が三方に触れた瞬間、介錯人の刀が首を打ち落としたといいます。享年28。葬儀は2日後の5日に、菩提寺の徳本(とくほん)寺で営まれましたが、家族は謹慎中のため参列できませんでした。なお佐野家は家名断絶、家屋敷は召し上げられましたが、家財は家族に引き渡され、善左衛門の両親は長女の嫁ぎ先の厄介となり、妻はその後、再婚したと伝わります。一方、田沼意知を斬った善左衛門の人気は驚くほど高く、墓所には毎日参詣の群衆が押し寄せました。佐野の屋敷の門扉には、何者かによって「佐野大明神」と書かれた紙が貼られ、また事件後、偶然にも江戸市中の米の値段が下がったことから、善左衛門は人々から「世直し大明神」と呼ばれることになるのです。
ところで、佐野善左衛門の辞世の句と呼ばれるものが存在します。異様な文書で、半紙になぜか鏡文字(左右逆)で書かれたものでした。

「こと人に 阿らて 御国の友とち たたかひすつる 身はゐさきよし」

意味は「他でもない、国を思う友たちよ。戦いを捨てたこの身は、すがすがしい気持ちだ」といった、同志に宛てた内容で、事件が善左衛門の単独ではない、組織的、計画的に行われたことを思わせます。あるいは真相をほのめかすことをはばかって、わざと解読しにくい鏡文字にしたのでしょうか。
この辞世から感じられるのは、善左衛門は世の中のためになると信じて、命も家名も捨てて、意知を斬った可能性があるということです。善左衛門がなぜ、そう信じたのかはわかりません。が、それが一橋治済の野望のために、何者かが吹き込んで都合よく洗脳され、捨て駒にされていたとしたら、胸が痛みます。ある意味、田沼意知も佐野善左衛門も、政争の犠牲者といえるのかもしれません。

*    *    *    *    *    *    *    *          

冒頭のAさんの刀の相談の続きですが、Aさんは善左衛門の刀の扱いに困っている様子でした。

「日本史上で有名な、歴史的な事件で使われた刀です。お手元で保管することに何か支障があるのでしたら、博物館などに寄託するのも一つの方法ですよ」

私はそう提案しますが、Aさんの表情は冴えません。なんとなく事情を察して、つけ加えました。

「もし、人を斬った刀であることを気にされていらっしゃるのでしたら、お寺で預かっていただくのもよいと思います。供養にもなりますので」

Aさんは納得したのか、ほどなく帰られました。その後の善左衛門の刀の行方については、耳にしておりません。

参考文献:成島司直編『徳川実記』第七編(経済新聞社)、「営中刃傷記」(『新燕石十種』所収、国書刊行会)、松浦静山『甲子夜話』1(東洋文庫)、山田忠雄「佐野政言切腹余話」(『史学』所収、慶應義塾大学三田史学会)、藤田覚『田沼時代』(吉川弘文館)、高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館)、秦新二、竹之下誠一『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。