「神田、神田。」
「……うわっ!! 降りなきゃ……!!」
「ドアが閉まります。」
プシュー…。
「ふぅ、危なかった……。もうちょっとで寝過ごすところだった……。」
「って、え!? ここは!? 神田駅じゃない!? ちょんまげを結った人……まさか、ここは江戸時代!?」
主人公は、都内で働くOL・設樂和子(24)。通勤中に山手線で寝過ごしそうになり、慌てて電車を飛び降りたら、なんとそこは江戸時代だった……!
今回は、そんな妄想設定で、和子とともに現代と江戸時代をつなぐフシギな山手線を一周しながら、現代の山手線の駅周辺が描かれている浮世絵を見ていきたいと思います。バーチャルツアーに参加して、江戸時代の山手線周辺をざっくり体験してみましょう!
神田駅~神田紺屋町は染物職人が集まる職人町~
和子「まさか、江戸時代にタイムスリップするなんて……。でも、せっかく江戸時代に来たから散策してみよう。とりあえず、こっちに向かって歩いてみるか。」
和子「あれは何かな……?」
和子が歩き出したのは、現在の神田駅東口エリア。この辺りは、江戸開府の頃、徳川家康によって、江戸城および城下町建設のための職人たちを移住させた職人町が作られました。和子の目の前に現れたのは、屋根の上に櫓のように組まれた干し場(藍で染めた生地を乾かす所)。
ここは、神田紺屋町。「紺屋」とは、染物屋のこと。紺屋町は染物職人が多く住む町で、浴衣や手拭いの産地でした。干し場に干された、たくさんの浴衣地がひらひらと風にたなびいている様子は、紺屋町の風物詩。遠くには、富士山が見えています。
江戸時代には、神田のあたりからも富士山が見えたのですね。現在でも、神田にはこのような職人町の名残があり、東口を出たエリアは鍛冶町、その先が神田紺屋町です。江戸時代には、その他にも、堅大工町、塗師町、白壁町(左官が住んだ町)などの町名もありました。
物珍し気に、神田を散策する和子。
和子「あれ? ウロウロしてたら、元の場所に戻ってきちゃった? どうしたら、いいんだろう……。」
と、呟いた瞬間、急に目の前に霞がたなびき、中から半透明の電車と線路が姿を現しました。
プシュー……と音を立ててドアが開きます。
和子「え……これ、乗っていいのかな……?」
とまどう和子。
「ドアが閉まります。」
和子「えーい、乗っちゃえ!!」
和子が乗り込み、座席に座ると、ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出しました。車内には和子以外の人の姿はありません。
和子「わぁ……江戸の町が車窓から見える!」
東京駅~序盤からハイライト!江戸の中心・日本橋は大混雑~
「次は東京、東京。」
和子「東京駅……。東京駅は丸の内というくらいだから、江戸時代はお堀の内側かな? 日本橋も歩いて行けるよね。江戸時代の日本橋、気になる!」
和子の予想通り、江戸時代、東京駅は江戸城の内堀と外堀の間に位置していました。現在オフィスビルが林立する丸の内エリアは、町奉行所や大名屋敷が置かれていたエリア。丸の内エリアから橋を渡って、お堀を挟んだ向こう側は江戸の町の中心だった日本橋エリアです。
和子「このあたりは、お店がいっぱいだ! 人が多くて活気があるなぁ。」
和子が歩いているのは、日本橋通一丁目。今のCOREDO日本橋のあたりです。手前にあるお店は、越後屋と並ぶ大呉服店「白木屋」。その隣には、蕎麦屋「東橋庵」があります。目の前にいるのは、三味線を抱えた女太夫でしょうか。その前の大きな傘は「住吉踊り」という踊りを踊る大道芸のような集団と思われます。右側には、蕎麦屋の出前が行き過ぎます。
和子「あっ! 日本橋が見えてきた!」
和子「うわー! すごい人!!」
さて、序盤からハイライトではございますが、こちらが江戸の中心、日本橋。橋の上はたくさんの人がひしめき合っています。所々に大きな荷物も見えますね。
日本橋は、東海道や中山道など五街道の起点。また、橋の下を流れる日本橋川には、全国から船で運ばれてきたさまざまな物資が到着し、ここは陸路と水路の両方の交通の要所でした。川には荷物をたくさん乗せた船が行き交っています。橋の向こう側には見えるのは、問屋の倉庫。そして、右下に描かれているのは活気に満ちた江戸の台所、魚河岸(魚市場)です。
魚市場では各地から運ばれた魚介類が取引され、一日に千両ものお金が動くとも言われました。
全体図の右上には小さく江戸城も描かれています。
有楽町~外桜田で江戸城のお堀に癒される~
和子「さすが、江戸時代の日本橋、活気に溢れてたなぁ……!」
日本橋を満喫し、再度電車に乗り込んだ和子。
和子「江戸城のお堀……。」
和子が車窓に見をやると、水鳥が浮かぶ江戸城のお堀が見えました。現在の有楽町駅も東京駅同様、江戸城の内堀と外堀の間に位置します。絵に描かれているのは有楽町駅から新橋駅に向かう途中、帝国ホテルあたりからの景色です。
浜松町~江戸屈指の大寺院・増上寺を見物~
江戸城を離れ、品川方面へ向かう電車の窓から見えてきたのは……
和子「わぁ! 海だ!!」
窓の外に、青い海が見えてきました。江戸時代、将軍の鷹狩場だった浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)から高輪あたりの海岸は「芝浦」と呼ばれていました。絵の右側の松の生えている所が浜御殿です。こちらに向かって飛んでいる鳥は、ユリカモメ。現代では、新橋・お台場・豊洲を結ぶ電車の名前にもなっていて、東京都の鳥に指定されています。左に描かれているのは、水路標識の澪標です。
「次は浜松町、浜松町。」
和子「降りてみよう!」
和子「あれ、お寺? 人がいっぱい……。浜松町の近くの大きなお寺……ということは、これは増上寺?」
その通り。現在の浜松町駅から大門駅方面へ歩いていた和子が目にしたのは、今も昔も変わらない江戸(東京)を代表するお寺、増上寺。増上寺は、初代将軍・徳川家康によって徳川家の菩提寺に選ばれ、江戸城の裏鬼門にあたる南西を封じるために、慶長3年(1598)にこの地に移転してきました。以来、徳川家の庇護のもと発展し、江戸時代、約25万坪の境内に40以上の坊中寺院、百数十軒の学寮が建ち並ぶ大寺院になったそうです。中央下側に、板橋が架かっているのが見えますでしょうか?
その板橋を渡ったところにあるのが、「大門駅」の名前の由来にもなった増上寺の大門です。その先には、増上寺のシンボルで、現代では国重要文化財に指定される荘厳な山門(三解脱門)が待ち構えており、一番奥には本殿が鎮座しています。
全体図の右下に描かれているのは、「芝神明」と呼ばれた飯倉神明宮(現在の芝大神宮)。伊勢神宮の祭神が祀られており、関東における伊勢信仰の中心地として、こちらも多くの参詣者が訪れる人気スポットで、参道は出店で賑わっていました。増上寺と芝神明があるこのエリアは、江戸屈指の観光名所でした。
品川~老いも若きも盛り上がる人気レジャー「潮干狩り」の聖地~
増上寺をお参りし、再び電車に乗り込んだ和子。
和子「増上寺の門は今も江戸時代も変わらなかったなぁ……ん!? 何あれ!? 潮干狩りしてる!?」
品川駅を過ぎたあたりで、和子が車窓から目にした光景は潮干狩りに興じる人々でした。品川駅のある場所は、江戸時代は海の上。周辺の高輪・品川・洲崎などの海岸は、春になると潮干狩りの聖地でした。江戸時代の海岸は砂浜が広く、春の干潮時には貝や魚、タコなどの生き物が現れ、この絵のように、老若男女問わず着物の裾をまくり上げて潮干狩りを楽しみました。
目黒~富士山が見える絶景スポット~
さて、山手線は大崎駅・五反田駅を通過し、北上しています。
「目黒、目黒。」
こちらは、江戸時代の目黒駅周辺の様子。
江戸時代、目黒は富士見の名所でした。この絵に描かれているのは、目黒駅から目黒不動に向かう途中の急な坂で、行人坂(ぎょうにんざか)。富士山がよく見えるビュースポットとしてよく知られていました。右側には当時坂の上にあった茶屋も描かれています。坂を上り終えた人がここで一息ついて足を休めていたのでしょう。
原宿~水車が回るのどかな田園地帯~
電車は、目黒駅・恵比寿駅・渋谷駅と、現代ではおしゃれスポットとして人気のエリアを走っていますが、窓から見えるのは、田園風景です。
和子「目黒、恵比寿、渋谷……、今では考えられないけど、江戸時代は、このあたりは田舎だったんだな……。」
「原宿、原宿。」
和子「あ、原宿だ!」
プシュー……。開いた電車のドアから和子が見た光景とは……?
和子「えぇ!? ここが原宿!?」
和子が現代とのギャップに驚いたのも当然。江戸時代、現在の渋谷駅~原宿駅周辺には下渋谷村や原宿村などの農村があり、のどかな田園地帯でした。この絵は、穏田(おんでん)村という村。今では、おしゃれなショップやカフェが軒を連ねる神宮前あたりの光景です。この水車は、現代では暗渠になってしまった渋谷川に設けられています。粉を挽くために穀物の入った大きな袋を運ぶ男性や洗い物をする女性たちがせっせと働いています。今の原宿の様子からは想像もできませんね。
新宿~旅籠や茶店、商家が軒を連ねる宿場町~
「新宿、新宿。」
和子「次は新宿……。今ではデパートや高層ビルが並んでるけど、江戸時代はどんな感じだったんだろう? 何かちょっと賑わってるかも……? よし、降りてみよう!」
和子「えーっと、こっちが伊勢丹方面かな……? あれ? これは、何かな?」
和子が歩いていた道は、現在でいうと、新宿駅東口を出て、新宿伊勢丹方面へ向かう新宿通りに当たる道。江戸時代、このあたりは、品川宿・千住宿・板橋宿と並ぶ「江戸四宿」の一つである内藤新宿(ないとうしんじゅく)でした。新宿伊勢丹がある新宿三丁目の交差点は「追分(おいわけ)」と呼ばれ、甲州街道と青梅街道の分岐点。内藤新宿は2つの街道の人と物資が往来する宿場町で、旅籠や茶店、商家などが軒を連ねていました。画面左側に描かれているのは旅籠、中央の道が甲州街道です。
手前には、人や荷物を運んだ馬のお尻が大きく象徴的に描かれ、足元には馬の糞が転がっているところがユーモラスですね。また、実は宿場町、内藤新宿には裏の顔もあり、旅籠屋では飯売女(いわゆる私娼)が多く働いていたことから、ここは遊里としても知られていました。
高田馬場~徳川家光が馬場を造営~
江戸時代の宿場町の雰囲気を楽しみ、電車に戻った和子。
和子「伊勢丹のあたりは宿場町だったのかぁ。今も昔も新宿は人が集まるところだったんだなぁ。馬もいっぱいいたし……。」
「高田馬場、高田馬場。」
和子「高田馬場……高田馬場も馬と関係してるのかな……?」
いかにも江戸時代に関係のありそうな駅名「高田馬場」。和子の予想通り、江戸時代には現在の高田馬場駅から早稲田方面へ向かったところに、馬場(乗馬の練習や競技をする場所)がありました。
「高田」という地名の由来は、このあたりに越後高田藩主で、徳川家康の六男・松平忠輝の母、高田殿の別荘地があったためといわれています。寛永13年(1636)に、三代将軍・徳川家光がこの土地に馬術の訓練のための馬場を造営しました。
西日暮里~風光明媚な桜の名所~
山手線は、池袋駅、大塚駅、巣鴨駅、駒込駅と江戸市街地北部を走っています。このあたりは、駅名の由来にもなっている池袋村や巣鴨村、駒込村などの村がありました。巣鴨駅や駒込駅のあたりは、寺院や大名の下屋敷(郊外に設けた別邸)があるエリアでした。
「西日暮里、西日暮里。」
和子「気が付いたらもう日暮里か……。え、桜!? 今って桜の季節だったっけ!? みんな花見してる! 降りてみよう!」
江戸時代の日暮里周辺は現代と同様、寺社仏閣が集まるエリアでした。これらの寺院は庭園に趣向を凝らして競い合い、特に桜の時期は多くの花見客で賑わう江戸の名所だったそうです。左の絵は、花見が楽しめる「花見寺」の一つに数えられていた、修性院(しゅうしょういん)。右端に見える、帆掛け舟形に刈り込まれた木が有名だったそう。右の絵は諏訪神社。境内には床几が置かれ、人々が花見を楽しんでいます。
遠方へ目を向けると、右には筑波山、左には日光連山が見えています。修性院、諏訪神社は、どちらも今でも西日暮里駅近くにあります。
上野~江戸を代表する観光スポット・寛永寺~
神田からスタートした和子の山手線一周の旅もそろそろ出発地点に戻りつつあります。
和子「江戸時代の人たちも今と同じで花見を楽しんでたなぁ。」
「上野、上野。」
和子「次は上野か。山手線もほとんど一周しちゃった。上野といえば、今では上野公園があって、博物館や動物園、美術館があるけど……。江戸時代はどんな感じだったんだろう? 見に行ってみよう!」
和子「人がいっぱいだー!」
ここは寛永寺。現在の上野駅があった場所は、江戸時代は寛永寺の敷地の東側で、寛永寺の子院が並ぶエリアでした。寛永寺は、寛永2年(1625)に天台宗の高僧・天海が二代将軍・徳川秀忠と三代将軍・徳川家光の助力を得て、江戸城の鬼門(東北)に位置する上野の山に建立。京都の東北に位置する比叡山に倣って、関東の叡山という意味から、「東叡山寛永寺円頓院」と名付けられました。
後に、四代将軍・徳川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、現在の上野公園全域(約30万坪)におよぶ広大な寺域を持つ大寺院として、芝増上寺と並び隆盛を極めました。上野の山は桜の時期だけ一般の人の入山が許され、江戸随一の桜の名所としても知られました。この絵に描かれているのも花見の季節。場所は、現在の東京国立博物館前の大噴水のあたりです。
境内は武士や商人、僧侶などたくさんの人で溢れ返っていますね。法華堂(右)と常行堂(左)繋ぐ渡殿の先には大きな根本中堂が見えています。本堂は、現代の東京国立博物館のところにありました。
和子「江戸時代から上野は花見の名所なんだなぁ。ちょっと寛永寺を散策してみよう。」
現代では国重要文化財に指定されている、京都の清水寺の舞台を模して造られた清水観音堂や五重塔は江戸時代に建てられたもの。江戸時代の寛永寺には「江戸の比叡山」という創建時のテーマにのっとり、京都や滋賀の有名寺院になぞらえた堂舎が次々と建立されていました。また、奈良の吉野山の桜も植栽され、現代のテーマパークさながら、関東で手軽に関西旅行気分が味わえたため、多くの参拝客で賑わっていました。
和子がたどり着いたのは、寛永寺の西側にある不忍池と中島。不忍池は昔の東京湾の入り江の一部が残って池になったものと言われています。池の上の浮いている丸いものは、蓮の葉。現在同様、不忍池は蓮の名所として知られており、春は花見、夏は納涼、秋は月見といった具合に、四季折々の景観が楽しめる江戸の人びとの憩いの場でした。池の中にある島は、中島。寛永寺建立の際に不忍池を琵琶湖に見立てて竹生島を模して築かれた中島には、竹生島から弁才天を勧請して弁天堂が建立されました。
当初は舟で行き来していましたが、寛文年間の終わり頃には、この絵のように参詣用の道と橋が作られました。18世紀以降になると、弁天堂をぐるりと取り囲むように茶屋が建てられ、参拝客は茶屋で名物の蓮飯(蓮の葉を細かく刻んだものと塩を少し入れて炊いたご飯、蓮の葉にご飯を包んで蒸して食べるものなど諸説あり)を食べました。
中島の茶屋で名物の蓮飯を堪能した和子。
和子「あー蓮飯美味しかったなぁ……。ひとまず、電車に戻ったものの、どうやって現代に帰ればいいんだろう……?」
江戸の町を歩き回り、蓮飯でお腹いっぱいになった和子は急に瞼が重くなるのを感じました……。
「神田、神田。東京メトロ銀座線はお乗り換えです」
和子「え!? 私寝てた……!? さっきまで、江戸時代の町を歩いていたたような気がするけど……。」
和子が辺りを見渡すと、そこはいつもの山手線の車内でした。