まだテレビのない昭和の初め、子どもたちの娯楽といえば街頭紙芝居だった。その人気の火付け役となったのが、1931(昭和6)年に登場した「黄金バット」。ドクロの仮面をつけた正義の味方バットがナゾー率いる悪の組織と戦う物語は、今に続く変身ヒーローものの原点と言える。空飛ぶヒーローとしては米国のスーパーマンよりも登場が早かった。描いたのは永松健夫(1912-61)という人物。当時、東京高等工芸学校で図案を学ぶ学生だった。
その原画を見て驚かされた。当時の日本に存在しなかった超高層ビル群、巨大ロボット怪獣、UFOのような空中砲台、殺人光線、山脈を貫く地下鉄道、最先端ファッションに身を包んだ男女の姿。どれもリアルなタッチで細密に描かれ、とても子ども向けの紙芝居とは思えない未来的な空想科学の世界が繰り広げられている。
戦前の「黄金バット」の紙芝居は、1931年から2年ほどの間に約440巻も公開されるほどの大ヒットとなったが、原画はほとんどが消失し、現存するのは永松の長女・谷口陽子さんが保管する37枚のみ。ここに紹介するのは、その貴重な秘蔵原画だ。
あまりの人気に「早く描け」と包丁で脅されたことも
永松は生活費稼ぎのアルバイトとして紙芝居の作画募集に応募し、競争率40倍以上の難関を勝ち抜き採用された。1930(昭和5年)終わりごろから「黄金バット」を描き始め、これが翌年各地の街頭で封切られると、たちまち大ヒット。しかし、細密な絵にこだわる永松は、ただでさえ筆が遅い。あまりの人気ぶりに作画がなかなか追いつかず、下宿先に押しかけてきた紙芝居の元締めに、畳に包丁を突き立てられ、「早く描け。あしたの朝までに描かないと承知しないぞ」と脅されたことも。このため永松は下宿先をいくつも替え、逃げ回りながら描いていたという。他の画家が永松の画風をまねて描くこともあったが、子どもたちからはすぐに見破られ、「にせバット」と呼ばれて不評だった。
当時の紙芝居には時代劇や昔話を扱うものが多かった中、近未来的な都市を舞台に描かれる空想科学ヒーローものはあまりにも斬新だった。まだ影も形もなかったテレビを描いたものまであった。時代の先を行きすぎた奇抜な内容に、永松は近所の子どもたちから「おじさん、頭おかしいんじゃないの」と言われたこともあったとか。
当時18、19歳の学生だった永松は、いったいどこから着想を得ていたのだろうか。陽子さんは、米国の雑誌や映画の影響があったのではと推測する。陽子さんの子供の頃も、永松は陽子さんを連れて古本屋を毎週のように訪れては米国の雑誌を買い集めており、その重みで家が傾くほどだったという。
20世紀前半の米国は「科学万能神話」が信じられていた時代で、最先端の科学や未来図を紹介するさまざまな大衆科学雑誌が流行していた。「黄金バット」を描いていたころの永松も、それらの影響を受けていたのかもしれない。
GHQの圧力? 大仏になった黄金バット
永松が戦前に「黄金バット」の紙芝居を描いたのは、わずか2、3年にすぎない。1933(昭和8)年には作画の仕事をすっぱり辞め、ネクタイ会社に就職している。父親から紙芝居の仕事を続けることに猛反対されたためという。「黄金バット」は他の画家が引き継いだが、永松が描いたころの人気は戻らなかった。再び大ヒットするのは戦後になってからだ。
いったんは就職した永松だが、やはり紙芝居への思いを断ち切れなかったのか、会社を辞め、再び絵の世界に舞い戻る。だが、当時の日本は戦争へ向かっていた時代。街頭紙芝居は衰退しつつあった。永松は陸軍省の委託を受けて国策紙芝居を描くなどしていたが、戦争が激しくなる中、ちゃんとした仕事をしなくてはということで、小学館に入社している。
1945(昭和20)年に戦争が終わり、街頭紙芝居も復活した。その頃、紙芝居の「黄金バット」は加太こうじが描いていたが、これに連合国軍総司令部(GHQ)が待ったをかけたとのうわさがあった。「ドクロの仮面が正義のヒーローなのはふさわしくない」と言ったとか。その話の真偽は定かではないが、実際に加太が描いた紙芝居の「黄金バット」は、一時期、ドクロではなく大仏のような仮面をかぶっている。
永松はといえば、しばらくはGHQに接収されていた山王ホテルなどで米軍将校らの肖像画を描いて生計を立てていたが、1948(昭和23)年には、今度は雑誌を舞台に「黄金バット」を再び大ヒットさせることになる。
そのきっかけとなったのが、小学館時代の同僚で、戦後、明々社(のちの少年画報社)を創業した今井堅という人物。永松は今井からの誘いで、1948年創刊された「月刊冒険活劇文庫」に、絵物語「黄金バット」を連載し、これが爆発的ベストセラーとなる。その中の一編「アラブの宝冠」では、謎に包まれていた黄金バットの正体がついに明かされた。実はバットは西アジア・メソポタミアの王子で、代々その地位を受け継いできた。王家に伝わる黄金のドクロや赤マント、つえなどを身につけることで、不思議な魔力が使えるようになるというのだ。
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たけし少年も永松家に出入りしていた
「黄金バット」の作者・永松の名は、米ディズニーの創業者ウォルト・ディズニーにまで届いていたようだ。「日本に来たとき、『その方はどこに住んでるんですか』みたいなことを言っていたそうですよ」と陽子さん。ディズニーは映画「眠れる森の美女」の日本公開にあたり来日した際、永松と面会している。父に連れられ同行した陽子さんは、永松がディズニーと英語で会話していたのを覚えている。
永松は1961(昭和36)年、胃がんのため49歳の若さで亡くなった。もともと体が弱く、徴兵検査でも現役には適さないとされる「丙種合格」だった。「もうちょっと長生きしていれば、もっといろんなことができたかもしれないのに、残念ですよね。やりたいことがいっぱいあったと思うんですけど」と陽子さんは悔やむ。とても優しい父親だったという。小学校の遠足にいつも付き添いでついてくるのには閉口したそうだが…。
永松の死後も、彼ののこした「黄金バット」は実写映画やアニメになっている。なかでも昭和戦後世代にとってなじみ深いのは、1967(昭和42)年から1年間にわたり放送されたテレビアニメ版だろう。絵のタッチは戦前の紙芝居の頃とはだいぶ変わってしまっているが、永松健夫の名は原作者としてクレジットされている。
余談ながら、戦後、東京都足立区に住んでいた永松の自宅の向かいは、ビートたけしこと北野武さんの実家だった。陽子さんによると、永松は教育熱心な武さんの母親に頼まれ、自宅で武さんの2人の兄に英語を教えていたという。家には永松が挿絵を描いた児童文学全集などの本がたくさんあり、勉強嫌いだが頭は良かった武さんもよく本を読みに来ていたそうだ。「黄金バット」作者との出会いは、のちに国民的コメディアン・映画監督となるたけし少年にも、ひょっとしたら何らかの影響を及ぼしていたのかもしれない。