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2022.01.21

見返りを求めず、次世代のために。「極小美術館」館長が語るアートの役割とは

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日本で美術館と名の付くものが生まれたのは明治以降。産業経済の発展と近代化促進を目的として、明治10(1877)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」の中で美術本館というものが建てられたが、これは常設ではなく、現在の美術館とはその趣旨や目的を異にするものだった。

日本初の国立美術館は、昭和27(1952)年に京橋に開館した「東京国立近代美術館」である。2015年度の文部科学省の社会教育調査によれば、全国の美術館博物館(美術館は博物館の一種と考えられているため、このように表記されている)数は1064館であり、私立美術館の数は国公立の美術館数と比較して大差がない。

この数が多いのか少ないのかはよく分からないけれど、個人的には、そんなにあったんだ!と思います。

美術館に出かける時は日常の買い物に行くような普段着、ノーメイクでは行けない。それでは美術館に対してあまりに失礼な気がする。非日常の空間で美しいものに出会う時は、それなりの格好で行かなくちゃと思うのは私だけだろうか。

ご、ごめんなさい!作業着のままで行ってしまったことが何度かあります~汗

濃尾平野の最西端、岐阜県揖斐郡の池田山山麓にも、小さいけれどとっても素敵な美術館がある。自身も現代アートの彫刻家である長沢知明(ながさわ ちめい)さんが設立・運営する「極小(きょくしょう)美術館」だ。

長沢さん個人の作品を収蔵・展示している場所ではない。現代アートを志す人々が自分の作品を見てもらい、次のステップに踏み出すための布石になればと、設立した美術館だ。年に4回、若手とベテラン作家の企画展を開催しており、入館料はなし。出展者からは盗難被害の保険料を受け取る以外、何ももらわない。作品の売買も仲介もなし。いわゆるスポンサーもいない。美術館の運営はすべて長沢さんが自費で賄っている。その代わり、どんな大家であろうと出展に対する謝礼はない。

現代アートを紹介するためだけに存在する美術館。どんな場所なんだろう?

筆者は「極小美術館」を知るまで、現代アートに対する苦手意識がとても強かった。現代アートは難解で取っ付きにくく、敷居がすごく高いような気がしていた。「極小美術館」を知り、そこで作品を見て初めて、現代アートを身近なものに感じることができた。

必ずアポイントを取って行くべし

まずは、「極小美術館」がどんな所か見てみよう。

「極小美術館」のある場所は池田町草深(くさぶか)という。養老鉄道が走る街中からはかなり離れており、車なしでは行けない不便な場所だ。美術館の背後にはハンググライダーの発信基地であり、古墳が点在する池田山がでんと控えている。辺りは桜の木が多く、霞間ヶ渓(かまがたに)、大津谷と呼ばれる桜の名所は、春になれば大勢の花見客でにぎわう。

古墳が点在する桜の名所に佇む美術館。ロケーションも最高ですね!

大垣市に住む長沢さんが、私財を投じて「極小美術館」を建てたのは平成21(2009)年4月。使われていなかった築15年の倉庫を購入してリノベーションした美術館は3階建て。切妻屋根の左右に取り付けられた三角形の出窓が目印だ。門扉に取り付けられたシンプルな鉄のプレート以外、美術館の存在を知らせるものはない。

「極小美術館」に行く時は必ず電話して、長沢さんにアポイントメントをとって行かなくてはならない。美術館の運営は開閉まですべて長沢さんが行っており、常駐者はおらず、いきなり訪れても見せてはもらえないからだ。何かのついでに行くというのもNG。「極小美術館」は観光スポットではない。アートに出会うための場所だから。

長沢さんが「極小美術館」を開いた理由

見返りを求めない、奇跡のような美術館との出会い

インターフォンを通じて到着を告げると、「2Fにどうぞ」との声。門扉を開け、入り口の青いフレームのドアを開けると階段がある。さまざまな美術展のフライヤーが壁に貼ってあった。

落ち着いた雰囲気のおしゃれな空間!

出会って10年。長沢さんは暖炉に薪をくべながら、待っていてくれた。少し瘦せられたが、お元気な様子だった。

ちょっとだけ、筆者が「極小美術館」を知り得た理由をお話しさせていただこうと思う。10年前、地元の広告代理店を辞めてフリーになったばかりの頃、私は地元愛に燃えていた。過疎化や少子高齢化が進み、地元から子どもたちの姿が消えていく。限界集落という言葉をよく聞くようになったのもこの頃だったか…まさに地元もそうなりつつあった。これはいかんと思い、地元をもっと知ってもらいたいと思って「里山倶楽部」という情報誌を立ち上げた。それまで勤めていた広告代理店はフリーペーパー発刊で業績を伸ばしていたが、フリーペーパーは広告料で成り立っている。当然、広告料の出せる所のPRしかしない。私の仕事は毎号、特集記事を書く仕事だったのだけれど、辞める頃にはフリーペーパーに疑問を感じていた。大半の読者は特集記事を楽しみにしているのではなく、店で使えるクーポンが目当てなのである。それがいやだったから有料にした。クーポンもつけなかった。そして、有料の本を作って売ることの難しさを痛感して挫折した。

とまあ、そんな流れの中で「極小美術館」に出会った。里山の麓にある美術館なんて聞いたことがない。しかも、現代アート! 名前もイケてる。「極小美術館」とは、“極めて小さな美術館”という意味らしい。長沢さんによる自虐的ネーミングだ。ほとんどの運営費用を館長が無償でまかない、見返りを求めない。奇跡のような美術館だ。そんな美術館がほかにあるだろうか。 矢も盾もたまらなくなった私は長沢さんに取材を申し込んだのだった。

長沢知明さん。彫刻家・「極小美術館」代表

長沢さんは自宅近くの倉庫をアトリエとして、彫刻を作っている。事情を知らない近くの人たちは工場だと思って、修理を頼みに来たりすることもあるらしい。地図にはアトリエの場所が倉庫と表示されていたため、地図製作会社に「これは倉庫ではなくてアトリエである」と伝えたところ、以後、「長沢知明アトリエ」と地図に表示されるようになったという

教員をしながら、彫刻家として作品を発表

長沢さんは私が雑誌を創刊したみたいに、思い付きで美術館を建てたわけではない。県内の公立高校で40年にわたり、美術教師として教鞭をとり、多くの教え子を育てる中で、熟慮した結果である。

岐阜市には加納高校という美術科のある高校がある(普通科・音楽科も併設)。美術科は昭和38年に設立され、これまでに東京芸術大学や武蔵野美術大学、愛知県立芸術大学などに多くの卒業生を輩出してきた。映画監督の篠田正浩氏や2022年から東京芸術大学学長に就任予定の日比野克彦氏らの出身校でもある。長沢さんは同高校で8年間教えた。そして教員生活のかたわら、作品を作り続け、「2009富山トリエンナーレ(神通峡美術展)」立体部門に「地下都市2009」で優秀賞を受賞するなど、彫刻家としても活躍している。

そうそうたる顔ぶれですね。

NHK スーパー・インスタレーション・アートin Nagoya1991 布+ワイヤー+アンカー 337m(周囲)×21.5m(最大高さ) 以下5点画像:長沢知明さん提供

1986年桜画廊個展 鉄の自重〈地下都市86-A〉鉄&アクリル 100×100×33㎝

2009 富山トリエンナーレ(神通峡美術展)優秀賞 地下都市(十字路)2009

1992・NCAF・名古屋コンテンポラリーアートフェアー(桜画廊ブース)「都市の方位443」 鉄+銅+コンクリート 300×300×80(H)㎝

第15回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)「都市449」鉄+コンクリート 400×210×460(H)㎝

作家は作品を人の目にさらさないと、次のステップに進めない

たんに教師としてではなく、自らも作家として生きて来た長沢さんだからこそ、現代アートを志す若者たちの力になりたいという気持ちが強かったといえるだろう。日本全国にはいくつかの貸し画廊がある。しかし、それらは高額で、作品が売れたとしても、その何割かは画廊主のものになる。大半の若手アーティストたちはいつか世界に羽ばたく日を夢見ながら、アルバイトをして生計を立てている。爪に火を点すような生活をしながら、作品作りに励むアーティストの卵も少なくない。まさに命を削って自らの生の証を刻んでいる。そんな彼らのために自分が何かできることはないか。長年考えた末に、長沢さんは「極小美術館」を開館した。

生活費の心配がなく、作品のみに取り組める環境が整えられている若手アーティストは稀なのだと聞いたこともあります……。

「作家は自分の作品を人の目にさらさないと次のステップに進めないんです。自己満足の世界ではありませんから。客観的な視点での評価を得ることが刺激となって、新たな創作意欲につながるのです」

こけら落としは「荒川修作展」

「極小美術館」のこけら落としは「荒川修作展」だった。荒川氏は愛知県名古屋市出身の現代アート作家で、東京にある「三鷹天命反転住宅」をパートナーのマドリン・ギンズとともに設計したことでも知られている。また岐阜県養老町の養老公園内には、作品の中を回遊し体験できるアート作品養老天命反転地」があり、年間約10万人が訪れている。

長沢さんは荒川氏と直接の面識はない。しかし、「極小美術館」を通じて、無名時代の荒川氏をプロデュースして世に出した女性の遺族と知り合った。その女性は沢島享子(さわしま たかこ)さんといって、名古屋市にあった「ギャラリーたかぎ」のスタッフだった。彼女は無名だった頃の荒川氏と知り合い、その信頼を得て、全国各地の美術館で開催される氏の作品展に携わることとなった。「天命反転地」の養老誘致にも陰で尽力されたと聞いている。52歳で亡くなった沢島さんの遺品の中に、荒川氏の貴重な初期の作品が何点かあることがわかり、開催の運びとなった。

アートは人を笑顔にする

初めて「極小美術館」で見た企画展で、大垣市出身の竹中美幸さんという女性作家がいることを知った。詳しくはぜひ
「極小美術館」の作家紹介「竹中美幸」を読んでいただきたい。

それまで竹中さんの名前も作品も知らなかったが、一目で惹かれた。弾ける感性を閉じ込めたような泡粒がとても美しかった。こんな作品は見たことがない。なんと形容してよいのかわからないが、とても心地よい。こんな作品ならそばに置きたいと思った。

現代アートに対する苦手意識がとても強かった、という里山企画菜の花舎さんが、見た瞬間に「そばに置きたい」と感じたほどの作品!ぜひリンク先もご覧ください!

現在、竹中さんは「アートフロントギャラリー」など都内のギャラリーや「SOMPO美術館」「国立新美術館」などの美術館で個展を開催。「奥能登国際芸術祭2020+」にも出展するなど、現代アートの作家として活躍の場はどんどん広がっている。

取材がきっかけでたびたび「極小美術館」から案内状をいただくようになり、足を運ぶ機会が増えた。現代アートが最初に考えていたような、敷居の高いものではないことがわかってハードルはかなり低くなった。当時古書店主で、元はグラフィックデザイナーをしていた武蔵野美術大学出身の知人と出かけたこともあったが、彼女はとても喜んでくれた。アートは人を笑顔にする。

企画展のオープニングパーティにはサプライズがいっぱい

企画展を開催するたびに、長沢さんは出展者を囲んでオープニングパーティを催す。私も数回おじゃまさせていただいた。出席者には出展者の縁者のほかに、アーティストや美大の学長、教授、美術館関係者などが多かった。ある時は「無言館」館長の窪島誠一郎(くぼしま せいいちろう)氏に遭遇した。「無言館」は長野県上田市にある戦没画学生の遺作を集め、展示した美術館だ。ぜひ、訪れたい美術館の一つである。まさかここで窪島氏に出会えるとは思わなかった。2016年には哲学者の故梅原猛(うめはら たけし)氏も来館している。私は氏の著作のファンだが、残念ながらお会いしていない! とにかく、そんなサプライズがいっぱいある素敵なパーティなのだ。

リンク先サイトで、少しスクロールすると梅原さんのお写真が出てきます。すてきな演出があるので、ぜひ写真をクリックしてみてください!

「極小美術館」で開催された企画展のフライヤーの一部を見ていただこう。


堀江良一氏 東京藝術大学 絵画科油画専攻卒業 以後は美濃加茂市に拠点を置き、版画作品と油彩を中心に作品を発表している。2012年に「池田山麓現代美術展」、2015年、2019年に個展を「極小美術館」で開催。このフライヤーは2019年の時のもの


2020年3月1日から4月5日に「極小美術館」で開催された「MUSA-BI展」のフライヤー。「趣旨:美術の素晴らしさを若い世代に知っていただくために、岐阜県にゆかりのある活躍する美術科有志12名による優れたMUSA-BI展を開催します。「MUSA」とは、西洋において美の女神という意、「BI」は、漢字の美を意味します」(MUSA-BI展フライヤーより)極小美術館代表:長澤知明 ディレクター:中風明世(なかかぜ あきよ)サブディレクター:矢橋頌太郎(やばし しょうたろう)

長沢さんがアートの道を志した理由

小学生時代、木版画の全国展で一等賞になる

ところで、長沢さんはなぜアーティストを志したのだろうか。

昭和22(1947)年、長沢さんは岐阜県大垣市に生まれた。「父は職業軍人、母は小学校の教員でした。結婚して二人は中国へ渡ったのですが、敗戦になって帰国。母は復職して再び教員となり、小学生時代は母の転勤について県内各地を移動しました」

現在の飛騨市神岡町麻生野(あそや)という所にいた時、木版画の全国展で一等賞になったことがきっかけで東京へ。

「授賞式で賞状と一緒に『ぺんてる』の副賞がいろいろついてきたんです。子ども心に、こんなおいしい話があるだろうかと!」

高校時代は美大受験を目指して、東京の美術研究所へ

元々美術が好きだったこともあり、大垣市に戻った長沢さんは普通科の高校に入学後(大垣市には美術科のある高校はない)、美大受験をめざして、東京の美術研究所に通うようになる。「月に一度、美術研究所の授業を受けるため、大垣・東京間を夜行列車で往復。毎回駅まで父が自転車で送迎してくれました。朝、夜行列車を降りた私は父がつくってくれた弁当を持って、父の自転車の後ろに乗って高校へ通いました」

大垣・東京間を夜行列車で月一回往復……並大抵の決意ではないことが伝わってきます。

長沢さんは現役で東京藝術大学を受験。一次、二次は合格したものの、三次で不合格となった。課題は粘土で鶏を再現するというものだったが、目の前の鶏は「コケコッコー」と騒いで動き回るばかり。

「受験生のほとんどが二浪、三浪している人ばかり。彼らは鶏を静かにさせるコツを知っているのですが、私はそんなことはまったく知らず、落ち着かない鶏を前に刻々と時間だけが過ぎて行き…もう、完敗でしたね」

え、ニワトリを静かにさせることから始めないといけないんだ……。

家庭の事情で岐阜にUターン 高校教師をしながら作家活動に励む

浪人はせず、長沢さんは武蔵野美術大学に入学した。卒業後は同大で副手(助手の補助)を1年、専任助手を4年間勤めた。その後、東京藝術大学の大学院に入学して2年間学んだ後、岐阜に戻って来た。

「教員をしていた母がある時、車に接触されて転倒し、以後、後遺症で頭痛が出るようになってしまったのです。父もすでに高齢で、私は一人っ子でしたから…武蔵野美術大学から非常勤講師の誘いも受けていたので、どうしようか迷っていたんです。そうしたら岐阜県多治見市にある多治見工業高校の校長をしていた大橋桃之輔(おおはし もものすけ)という校長先生から『うちへ来い』と言われて、多治見には行ったことがなかったけれど、思い切って故郷に戻りました」

大橋桃之輔氏は大正10年に多治見市で生まれた。「東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)」図案科を卒業した後、帰郷し、母校の多治見工業高校の教員をしながら陶芸家としても活躍した人物だ。

長沢さんは多治見工業で3年間勤務した後、大垣にUターン。その後、前にも書いたように、美術科のある岐阜市の加納高校に転任した。自らも彫刻家として、当時名古屋市を代表する現代美術画廊であった「桜画廊」などでも個展を開催するようになった。しかし、長沢さんのように教師をやりながら作家活動を続ける美術教師は、当時県内で84人中、長沢さんも含めてわずか3人だったという。この数字は、社会に出てから創作活動することの難しさを表しているといえるだろう。

創作活動に必要なエネルギーはとてつもなく大きいものだと、私も少しだけですが分かります。

若者を育てるコツは誉めて伸ばすこと

長沢さんにとって教員は、生活の糧を得るために手放せない仕事ではあったが、そればかりではなかった。自分と同じようにアートの世界を志す若者たちを育てることは、作品作りと同じくらい意味があり、興味深いことだった。しかし、

「当時の加納高校美術科における芸大や美大への進学率は、決してはかばかしいものではありませんでした」

担任を持つようになった長沢さんは、「教師がどんな対応をすると、子どもたちは伸びるのだろうか」と考えた。そして、8年後にはクラス40人中25人が全国の国公立の美術科へ進学するというめざましい成果を出したのである。いったいどうしたら、そんな結果が出せるのだろうか。長沢さんは次のように答えた。

「普通は子どもたちの悪いところを直して、普通の子にしてから特性を伸ばそうとするでしょ。でも、それじゃ間に合わないと思ったんです」

長沢さんがとった方法は、生徒たちの良いところだけをひたすら誉めることだった。それが結果的に、彼らのやる気につながったのだ。「極小美術館」は長沢さんの教育者としての集大成であるといえるかもしれない。

アートだけでなく、他の分野にも通じる部分があり、とても考えさせられます。

見返りを求めると長続きしない

「極小美術館」の名が知れ渡るようになると、各地の美術館の学芸員たちも展示を見に訪れるようになった。

「マスコミに取り上げられるようになったことも励みになりますね。おかげで手を抜けません」

と、長沢さんは笑う。

東京や大阪などの大都市圏に住む作家たちも、自分のこれまでの作品集や作品の写真を印刷した分厚いポートフォリオを送ってくるようになった。極小美術館での企画展が作家としての自分のキャリアになることを知ったからである。それでも長沢さんが彼らに見返りを求めることはない。

「見返りを期待していては長続きしないから」

見返りを期待しないなんて御仏みたいですが、それだからこそ若手が安心できるのでしょうね。

また、ポートフォリオを送ったからと言って、必ず「極小美術館」で個展が開けるというものでもない。まずは長沢さんが見て、個展を開くに足るだけの実力があると認められなければならない。開催の順番は、長沢さんが見たいと思う作品を優先するという。現時点で6年半先まで開催スケジュールは埋まっている。

「極小美術館」が目指す二つの柱 

「『極小美術館』には二つの柱があるんです」と長沢さんはいう。

「一つは東京、名古屋、大阪といった大都市の企画専門画廊(画廊主が選択した作品を展示する画廊)で個展のできる現代美術の作家をリリースすること。そしてもう一つは、入館料をとって見せられる美術館に作家を送り込みたいということ」

二つの柱のうち、前者についてはすでに14人もの現代アートの作家が企画画廊で個展を開催しており、実現しているといっていいだろう。二つ目については、これまで美術館側が作品を展示できる条件として、美術館のある県や市町在住、在勤といった条件を設けている所が多く、なかなか実現しなかった。これに対し、長沢さんは

「作家の出身地がどこであろうと、質の高い展覧会を見ることが市民、県民に対する利益の還元になる」

と言い続けてきた。この冬、ようやくそれが実現した。

確かに私も、作家の出身地というより作品そのものが気になるかも。

岐阜市の北にある山県(やまがた)市の美術館で、同市出身の作家で片岡美保香(かたおか みほか)さんの個展が、12月19日(日)∼1月10日(月)まで開催された。片岡さんが初めて「極小美術館」を友人と共に訪れたのは加納高校美術科2年生の時。その時、長沢さんからアーティストとして生きる事の厳しさを思い知らされたという。二浪して「愛知県立芸術大学」に入学。美術学部油画専攻で、卒業後は県立高校での美術科の非常勤講師や岐阜市の「中風美術研究所」で美大受験コースの講師などを勤めている。極小美術館ではグループ展を2回、個展を1回開催している。今回の山県市の美術館での個展は、新聞に極小美術館の記事が掲載されたのがきっかけで、山県市長が「極小美術館」に来館。個展開催の運びとなった。高校生の時に一緒に同美術館を訪問した友人・佐々木響子さんは、大学卒業後、漆(うるし)職人の道を進んでいる。

顔、特に目を描かないのが彼女の特徴。あえて絵の中の人物の目を描かないことで、作品全体を見てほしいのだという。ファッション雑誌や小説などをテーマに、シュールな世界を創り上げている。山県市の美術館で行われた片岡美保香さんのポスター 

また、金華山の麓、岐阜公園内にある「岐阜市歴史博物館」の分館「加藤栄三・東一記念美術館」では、女性アーティストの張間成子(はりま せいこ)さんが個展を開催する。彼女は幼少期から大学までをアメリカ、イギリスで過ごし、2017年2月には「現代美術の新世代展2017」で極小美術館に初出展。その後も2019年にグループ展、2020年には個展を開催し、この4月にも個展を開催する予定だ。

「成子さんが私たちに森の作品を見せてくれる時には沢山の事は語りません。これはどこか彼女が訪れた場所のようだが、私たちの現在の魂(Soul)の旅を提示しているような気がします。(「張間成子展に寄せて」英国ブライトン大学 美術学部教授:クリストファー・スティーブンスより抜粋) 「極小美術館」フライヤー 2020年10月18日~12月6日 SEIKO HARIMA より)

言葉を置き去りに、五感でアートを受け止める

約1時間の取材時間もそろそろ終わりに近づいてきたので、現代アートをどのように受け止めたらよいのかを、長沢さんに尋ねた。

「コンテンポラリーというのは同時代性、同じ空気を吸っているということ。価値観の違いもあったり、競合する場合もあるけど、同時代に生きていた証を反映させるのが現代美術。抽象、具象は関係ありません。表現方法は人それぞれ。言語に置き換えてみるのはアートの鑑賞ではありません。最初から言葉を置き去りにして、自分の五感で受け止めてください」

アートを見ると、すぐに私は言葉を探してしまう。それはそうした方が自分にとって理解しやすいと思うからだ。言葉に置き換えることでなんとなくわかった気になって安心する。五感で受け止めることは簡単なようであって、難しい。特に年を取るほど、人間は素直でいられないので、よけい難しいように思う。でも、単純に好きだとか、嫌いだとか、カッコイイとか悪いとか、感じればよいと長沢さんはいう。

言葉では表せないけれど、なぜか伝わってくる雰囲気のようなもの、そこに私も魅力を感じます!

アートは不要不急なのか

また、“同時代性”ということでいえば、この2年間、全世界でバズッた共通の単語は「コロナ」である。この正体不明のウイルスが私たちの生活に及ぼした影響は計り知れないものがある。各種イベントの中止、外出自粛要請、外食産業などでの営業時間の短縮及び休業要請、リモートワークや在宅勤務へのシフトチェンジなど、数え上げたらキリがない。人と人との関係性も希薄になった。本来シンプルであるはずのものが限りなく複雑化した。消滅したものも多い。被害は目に見えないものの方が、より甚大だ。

そんな中、よく耳にしたのが「不要不急の外出は避けて」という言葉。不要不急の意味は「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」(「広辞苑」)。 今まであまり意識もしなかったが、コロナでこの言葉がインプットされたことで、自分にとっての不要不急とは何かを考えるようになった。

すると、食べる・眠る・排泄するなどの生理的な欲求を中心とした生命維持活動以外のほとんどは、不要不急であるように思えてきた。アートは果たしてどうなのか?! この点について長沢さんは次のように述べている。

「アートって社会にとっては役立たない、なくても生きていけるものでしょ。でも、第二次世界大戦下のフランスでは、ドイツ軍に蹂躙され、食べる物にも事欠くような毎日をおくりながら、セーヌ川に浮かぶパリのシテ島で、人々は花と鳥の市場を今日まで欠かさずに続けてきました。殺伐とした時代の中でも、そうすることで人々は優しさだとか、命に対する尊厳のようなものを自らの中に保ち続けてきたわけなんですね。それがあるからこそ、フランスのアートは花開いていくんです。効率だとか経済だとか、そういうことで淘汰されていくものではない部分を認識しながら、表現に結び付けていくことが必要だと思います」

不要不急と切り捨てられてしまったものの中にこそ、とても大事なものが詰まっていたような。

また、長沢さんは、アートの社会性ということについて、次のように述べている。

「アートだからなんでもいいということではなく、その根底には人間の持つ愛だとか憎しみだとか、不条理などがあるわけですよね。それを表現としていかにぶつけていくかは大切なこと。現代アートの作家にとって、社会性を自分なりに包括し、作品として昇華させるのは大切なことではないでしょうか」

アートはコスパ重視のビジネスとは対極にある存在だ。アートのもたらす効果は人の心にさざ波を立てるようなもので、さざ波がそのまま広がって消えるか、あるいはもっと大きな波となって広がっていくかは予測できない。アートをビジネスと同様の価値観で測るのは困難だ。しかし、アートにはアートでなければできない役割がある。最後は長沢さんの次の言葉で締めくくりたいと思う。

閉塞状態にある現代を解放し、より豊かな精神性を感じることが出来る唯一の媒体は「芸術」であると信じている。「芸術と熱源」長澤知明 より 「MUSA-BI展」2020.3/1(日)▶2020.4/5(日)フライヤー

【取材協力・写真提供】
「極小美術館」代表・長沢知明 
〒503-2418 岐阜県池田町草深大谷939-10 090-5853-3766
※アポイントをとってお出かけください

【参考】
岐阜県立加納高校 美術科

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。