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2018.06.05

国宝 葛井寺 千手観音とは?薬師寺 吉祥天像とは?

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

千手観音菩薩坐像

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、1041本の手をもつ秘仏「葛井寺 千手観音」と、天平絵画の傑作「薬師寺 吉祥天像」です。

1041本の手をもつ秘仏「葛井寺 千手観音」

千手観音菩薩坐像

葛井寺の千手観音菩薩坐像は頭上に11面を頂き、合掌手を含む大手40本と、小手1001本をもち、掌には1手ごとに1眼が描かれています。一般の千手観音像は42手で千手を表すことが多く、実際に1000本の手が造られた例は、本像と奈良・唐招提寺の像、京都・寿宝寺の像の3軀のみです。なかでも本像は均整のとれた姿をしています。
 
千手観音はインドで生まれた変化観音のひとつで、一切の衆生を救い利益する菩薩です。中国では唐の初期に経典が漢訳され、画像制作の記録があり、河南省洛陽市の龍門石窟には8世紀の彫刻があります。葛井寺の像も同時期の作で、日本でも早くから信仰されていたことがわかります。その信仰の高まりに大きな役割を果たしたのが遣唐使です。なかでも僧・玄昉が多くの経典を携えて天平7年(735)に帰朝したあと、千手観音の経典が次々と書写されました。天平19年には東大寺に千手堂が完成し、以降造像が活発になりますが、本像はそれらの先駆けとなる作例として、また最古の千手観音像として、その歴史的価値は計り知れません。
 

本像は千手観音像でよく見る、両手を腹の前で重ねた定印に鉢を乗せる宝鉢手がありません。千手観音を説く教典には「定印を結ぶ」ことは説かれますが「両手で鉢を持つ」とは記されていません。宝鉢手がないのも、日本でよく見る千手観音像の姿が定まる前に造られた、先駆けの作だからとも考えられます。
 
寺伝では神亀2年(725)に聖武天皇が発願、仏師の稽文會・稽主薫が造り、民衆に広く布教をしていた僧・行基が開眼したといいます。この二人の仏師は、奈良・長谷寺の創建の由来を記した記録にも記されるのですが、実在したかはわからない伝説的な人物です。また行基が創建に関わったとされる寺院は、近畿地方だけでも50前後、全国では約600寺以上あるといい、これも伝承の範囲を超えません。本像の優れた造形感覚は、当時最上級の造像機関である造東大寺司が、天平年間(729〜749)に造った東大寺法華堂の諸像と通じるものであり、本像も造東大寺司のような官営工房の作であると考えられます。

国宝プロフィール

千手観音菩薩坐像

脱活乾漆造 漆箔 8世紀中頃 像高131.3cm 葛井寺 大阪

十一面千手千眼観世音菩薩とも呼ばれ、11の頭と掌に眼のある1000本の手で衆生を救ってくれる観音。実際に1000本の手をもつ千手観音像は珍しく、多臂という異形をバランスよく整える優れた作。台座も造像当初のもので、全体的に傷みも少ない。状態の良さは秘仏だからという理由だけでなく、造り手の技量の高さゆえと考えられ、その出来映えから奈良にある官営工房で造られたものと想定されている。

葛井寺

女神は唐風美人「薬師寺 吉祥天像」

吉祥天像

吉祥天は、インドの福徳を授ける美神・ラクシュミーが仏教に取り入れられて生まれた天女の姿をした女神です。ラクシュミーはヒンドゥー教の太陽を象徴する神・ビシュヌを夫としますが、吉祥天の夫は財宝の神・クベーラが変化した毘沙門天と考えられており、夫がいて、明らかに女性とする点は、如来や菩薩などの中性的な尊格とは違います。

その性格ゆえ、女性神として身近な存在であり、時に性的な対象にもなりました。平安時代初期の「日本霊異記」という仏教説話集には、世俗にいて仏道修行する優婆塞が吉祥天像に恋をし、夢で交接してしまうという話まであります。 “女性”神ならではのエピソードといえます。ほかにも貧しい女性に財宝をもたらしたり、安産を祈願するなど個人の祈りが捧げられる説話が伝わり、人々が親しみを込めて信仰していた様子がわかります。また、吉祥天は国家としての願いが込められ、平和や繁栄を祈る対象ともなり、日本の諸国に建立した国分寺に吉祥天像を安置するなど、公にも信仰される重要な尊格です。

薬師寺の吉祥天像は現存最古の作例で、頭の後ろの聖なる光の輪である円光と、左手に持つ法具の如意宝珠がなければ仏画という気がしないほど、豊麗で華やかな姿で、その美しい姿形、優れた技法を駆使した作として有名です。体を左向きにする点や、美人画のようにも見える構図は、通常の“仏画”とは違うムードをもっています。左向きなのは、本来は経典に説かれる釈迦・吉祥天・多聞天の三尊像の一尊で、中尊の釈迦のほうを向いているからだ、という説もありますが、はっきりとはしていません。

薬師寺で五穀豊穰などを祈る「吉祥悔過会」が始まったのは宝亀3年(772)です。薬師寺境内の鎮守八幡宮(休ヶ岡八幡宮)に秘仏として伝来したこの吉祥天像は、「吉祥悔過会」の本尊として知られており、同年に制作されたのではないか、という説が有力です。国家を守る法会の本尊として、8世紀後半に描かれた美しい吉祥天像は、天平時代を代表する名品といえるでしょう。

国宝プロフィール

吉祥天像

麻布着色 額装 8世紀 1面 53.3×32.0cm 薬師寺 奈良

美や福徳をつかさどる吉祥天は、国家を守るための基本経典「金光明最勝王経」に功徳が説かれ、奈良時代には吉祥天に五穀豊穰などを祈る「吉祥悔過会」が始まり、篤く信仰された。華やかな衣を着けたふくよかな姿は、正倉院の「鳥毛立女屛風」と似通い、中国・唐美人の伝統に連なる容姿を見せる。麻布に描くのは奈良時代に見られる手法で、他の時代の作例は少ない。8世紀後半の作と考えられ、類例が少なく、保存状態もよく、貴重な作。

薬師寺