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2023.02.13

佐伯祐三の作品が映える!東京ステーションギャラリー展覧会

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わずか30年という短い生涯だったにもかかわらず、近代洋画の世界に金字塔とも言うべき足跡を残した佐伯祐三(1898〜1928年)の画業を回顧した企画展「佐伯祐三 自画像としての風景」が、東京ステーションギャラリーで開かれている。この展覧会は、昨年2月に開館した大阪中之島美術館との共同開催。1983年に収集家の山本發次郎の遺族が佐伯の作品約30点を含む収集品を大阪市に寄贈したことをきっかけに創設の計画が進んだ同美術館の入魂の企画であり、一足早く東京で見る眼福の機会となった。

顔が削り取られた自画像が意味するものとは?

最初に、佐伯の作品の中では少々風変わりな一枚を紹介しておきたい。1923年に東京美術学校を卒業した翌年に、渡航先のパリで描いた『立てる自画像』である。筆致も造形も粗く、落書きっぽくさえ見える。驚くべきことに顔の部分が削られており、カンヴァスとして再利用されて裏に別の絵が描かれていた。どうやら佐伯はこの自画像を気に入ってはいなかったようだ。

佐伯祐三『立てる自画像』 1924年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵 ほか 展示風景

全身像であること、道の真ん中で正面を向いて巨人のように立っている姿、右手に絵筆、左手にパレットを持っていることなどは、この絵が生まれる四半世紀前にパリでアンリ・ルソーが描いたユニークな自画像をほうふつとさせる。佐伯にルソーの絵を見る機会はあったのだろうか。しかし、ルソーともまた異なる味わいが、この一枚にはある。描きなぐったような粗さが妙に魅力的なのだ。そんなことを強く感じるのは、ひょっとしたら、筆者が落書き的な絵が好きだからなのかもしれないが…。

確かにインパクトがありますね。

パリに渡った佐伯をめぐっては、モーリス・ド・ヴラマンクと会ったときのエピソードが有名だ。佐伯が描いた裸婦の絵を見たヴラマンクが「アカデミック!」と批判したというのだ。ヴラマンクは激しい色遣いによる革新的な画風を20世紀初頭に創出したフォーヴィスム(野獣派)の画家である。「アカデミックであるのは、型にはまっているようでつまらない。もっとユニークな絵を描きなさい」ということを伝えたかったのだろう。そして佐伯の『立てる自画像』は、確かにアカデミックな画風とは言えない。結果的に本人が気に入っていなかったとしても、この絵には佐伯のエネルギッシュな挑戦心が見える。

この絵を渡航の前年に制作した『自画像』と比べるのも面白い。東京美術学校の卒業制作として1923年に描いた『自画像』は、少し上の世代の画家、中村彝(つね)の『エロシェンコ氏の像』をほうふつとさせる。ただし中村は東京美術学校の教員ではなかった。この頃の中村は病身で24年に亡くなったこともあり、二人が直接会う機会はなかったという。つまり、佐伯は中村に私淑していたのだ。この絵では、中村の画風を咀嚼して自分のものにしようという強い意志が目力に表れている。

(左)佐伯祐三『自画像』 1922年頃 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館蔵
(右)佐伯祐三『自画像』 1923年 油彩、カンヴァス 東京美術学校卒業制作 東京藝術大学蔵 展示風景
中村彝の『エロシェンコ氏の像』のモデルは盲目のロシア人だった。対して、佐伯の『自画像』の表現は、強い目力を感じさせる。

佐伯祐三『夜のノートルダム(マント=ラ=ジョリ)』 1925年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵 展示風景
『立てる自画像』の裏面に描かれた絵。会場では、『立てる自画像』を正位置で見せることを優先していたため、こちらの絵は上下が逆になっていた。

パリの壁に「萌えた」佐伯の審美眼

この展覧会の会場をめぐって、展示環境という点で特に素晴らしさを感じたのは、2階の展示室だった。東京ステーションギャラリーは、佐伯の人生半ばに当たる1914年に竣工した東京駅(設計:辰野金吾)の構内にある。同駅は2012年に駅舎を復原して話題になったが、その際に遺構であるレンガ壁をそのまま展示室の壁面として利用した。その壁が、佐伯の作品と実によく調和しているのだ。

(左)佐伯祐三『共同便所』 1928年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵
(右)佐伯祐三『広告貼り』 1927年 油彩、カンヴァス 石橋財団アーティゾン美術館蔵 展示風景

調和の理由は、佐伯と東京駅が同時代に誕生したことだけではない。大阪中之島美術館主任学芸員の高柳有紀子さんは、「佐伯は独自の審美眼でパリの汚い壁を描き、壁だけで作品の画面をもたせる重厚なマチエール(絵画の肌合い)を創出した」と話す。

一方で、20世紀前半のパリの街の壁がどのくらい汚かったのかについては、筆者には想像がつかない。だが、たとえば、近年でも廃虚に「萌える」人々がいるように、佐伯にはパリの古びた壁に「萌える」感覚があったのではないだろうか。佐伯が描くパリの壁は、実に魅力的だ。それは東京駅の壁とも調和するものだった。佐伯の審美眼のありようが推し量られる。

絵に書かれた文字が持つ訴求力

1924〜25年と27〜28年の2度にわたって渡仏し、佐伯が描いたパリの街並みの中で、特に際立って見えるのが、文字である。文字が書かれた作品で佐伯がモチーフにした多くは、パリの街中に貼られていた文字ポスターだったという。

文字は言葉を表すためにある記号ゆえ、必然的に意味を訴えかける。フランス語を学んでいない日本人には意味がわからなかったとしても、書かれた文字が何らかの意味や名称を伝えるものであること自体は感じ取ることができるだろう。そこには、文字のない風景画とはまったく違った訴求力がある。

佐伯祐三『ガス灯と広告』 1927年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 展示風景

はたして当時のパリに、佐伯が描きこんだような文字ポスターが実際にどのくらいあったのかは、わかっていない。ここで再び、高柳さんの話に耳を傾けたい。

「佐伯は、実在の風景を描く画家でした。自分が描きたいと思う風景を求めて、パリの街中を歩きまわっていたようです」

近代のパリにおけるポスターといえば、日本の浮世絵の影響を受けたロートレックなどのユニークな絵で構成されたものがよく知られている。そうしたポスターにおいても、文字は伝えたい内容を表現する点で、極めて重要な要素である。街なかのポスターに、主張する文字が載っていること自体が面白く、当時のパリの魅力を高めていたに違いない。文字の放つ力に目覚めた佐伯は、結核にむしばまれていた中でも、美を感じる現物を探し求めてあちこちを歩き回っていたのだ。

体調が良くないなかで、文字の魅力を追い求めたのですね……。

ゴッホの速描きに憧れて

絵画の中に文字を描くという行為は、西洋美術史上では、近代まではあまり行われてこなかった。一方、墨と筆という同じ画材と道具を使って水墨画などを描いた日本では、一つの画面に文字と絵を描き込むのは普通のことだった。江戸時代までは活字が発達しなかったこともあり、浮世絵では絵と一緒に文字を彫師が彫り上げた。日本では絵と文字は等価な存在だったと考えてもいい。絵における文字の扱いに関しては、洋の東西でかなり顕著な違いがあったのである。

佐伯は実に多くの絵画に文字を書いた。それも、文字ポスターばかりではなく、あるときには新聞売りのスタンドの新聞紙面を通じて、あるときにはカフェの看板等を描くことで。佐伯は、街なかで見かけた文字に、ただの風景とは異なる主張と魅力を感じていたのではないだろうか。

(左)佐伯祐三『リュクサンブール公園』 1927年 油彩、カンヴァス 田辺市立美術館蔵(脇村義太郎コレクション)
(右)佐伯祐三『新聞屋』 1927年 油彩、カンヴァス 朝日新聞東京本社蔵 展示風景

(左)佐伯祐三『カフェ・タバ』 1927年 油彩、カンヴァス 個人蔵 大阪中之島美術館寄託
(右)佐伯祐三『ピコン』 1927年 油彩、カンヴァス 個人蔵 展示風景

東京ステーションギャラリー館長の冨田章さんから聞いた次の言葉も、示唆に富んでいた。

「佐伯は油彩画家としては大変な速描きで、1日に何枚もの絵を描いていました。速いので線が躍動している。太くて強い輪郭線は、日本の書道の線を思わせます」

確かに、佐伯の絵には、じっくりと細密に描き込んだような印象はない。むしろ、筆の勢いこそが、佐伯の絵画の魅力のように映る。冨田さんはその速描きに、日本で学んだ経験のある書道に加えて、佐伯が憧れていたというゴッホの影を見ている。ゴッホは速描きの画家だったからこそ、わずか10年の作画期間に数百点もの油彩画を残したのだ。それは、勢いのある筆遣いと多作ぶりという点で佐伯にも当てはまる。「ゴッホはジャポニスムの画家でもある。日本の絵画に触発されたゴッホに、フランスに渡った佐伯が刺激を受けた。実に興味深いことだと思います」と、冨田さんは日本とフランスの間の文化の往来に思いを巡らせている。

ゴッホも、浮世絵から影響を受けたと言われています。そのゴッホに佐伯は憧れたのですね!

たまたま自宅に来た郵便配達夫を描く

没した年である1928年に描いた『郵便配達夫』は、この展覧会で最も重要な出品作の一つだ。自宅をたまたま訪ねてきた郵便配達夫に創作意欲を掻き立てられ、モデルになってもらうよう依頼して後日描いたという。健康状態がすぐれない中で、グアッシュという技法で描かれた1点(戦火により焼失)と、この展覧会で展示されている油彩画2点を、1日のうちに描いたのだそうだ。

(左)佐伯祐三『郵便配達夫』 1928年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵
(右)佐伯祐三『郵便配達夫(半身)』 1928年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵 展示風景

パリで描いた多くが街角風景だった佐伯が最晩年に人物像を描いたのは、なかなか興味深いことである。直線が多く簡素で力強い筆致ゆえ、強い印象を放っているのだろう。一方で、幾何学的な形態で人物が描かれていること、つまり抽象化への志向よりも、筆あとに込められた力強さに筆者は共感する。デフォルメされた人物の顔も魅力的だ。『郵便配達夫』の画面左上には、文字が書かれた何かが描きこまれている。自宅に実際に貼られていたポスターだったのだろうか。あえて画面の中に描き入れたことで、文字がこの絵のさりげないアクセントになっている。

展示された2枚の『郵便配達夫』からは、インスピレーションが湧いたら強い意志をもって筆を取り、一気に描こうとした佐伯の作画姿勢がしのばれる。描きたくて描きたくてたまらない。佐伯はいつもそんな感情に突き上げられていたのではないだろうか。

つあおのラクガキ

ラクガキストを名乗る小川敦生こと「つあお」の、記事からインスピレーションを得て描いた絵を紹介するコーナーです。Gyoemonは雅号です。

Gyoemon『素敵な郵便配達夫』

こんな郵便配達夫がうちに来たら、ぜひモデルになってもらいたい! とは言っても、なかなかいないとは思いますが…。しかし、郵便配達夫のような日常的な存在に美を感じて創作意欲を掻き立てられたこと自体、佐伯の感性の高さを感じさせるできごとだと思うのです。

東京ステーションギャラリー館長の冨田章さんの話では、佐伯にはパリで画商がすでに付いていたそうです。「エコール・ド・パリの画家として名を連ねてもおかしくない存在だった」(冨田さん)けれども、残念なことに、現地で評価が高まる前に他界してしまった。その佐伯の厚いコレクションが大阪中之島美術館にあり、こうした企画展が開かれること自体が、素晴らしいことだと思います。

展覧会基本情報

展覧会名:佐伯祐三 自画像としての風景
【東京展】
 会場:東京ステーションギャラリー(東京・丸の内)
 会期:2023年1月21日(土)~4月2日(日)
【大阪展】
 会場:大阪中之島美術館(大阪市・中之島)
 会期:2023年4月15日(土)~6月25日(日)
公式ウェブサイト:https://saeki2023.jp/

主要参考文献

企画展「自画像としての風景 佐伯祐三」図録

書いた人

美術ジャーナリスト&日曜ヴァイオリニスト&ラクガキスト(雅号=Gyoemon)。そして多摩美大教授。新聞や雑誌の美術記者を経験しながら「浮世離れ」を目指し、今日に至る。音楽面ではブラームスのヴァイオリン協奏曲のソロをコンプリート演奏する夢を実現し、自己満足の境地へ。著書に『美術の経済』。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。