歌舞伎は、江戸時代に大きく花開いた文化であり、最大の娯楽でした。この歌舞伎の隆盛と共に盛り上がったのが浮世絵の『役者絵』です。現代の推し活でも、好きなスターのブロマイドは必須アイテムですが、この原型ともいえるのが役者絵でした。当時も、憧れの歌舞伎役者の似顔が描かれた役者絵は、興行時の大ヒット商品だったのです。
歌舞伎の舞台や演目だけでなく、主役をクローズアップした鳥居派
現代でも歌舞伎座の前などに役者の絵看板が描かれていますが、元禄年間に、江戸四座の看板絵を手掛けたのが、鳥居清信(とりいきよのぶ)を祖とする鳥居派です。どんな演目が上演されるかがわかるよう歌舞伎役者と舞台の全体像を描いていました。そこから派生して生まれたのが、役者絵です。
一枚摺りの大きな役者絵を描き、反響を呼んだのが荒事を得意とした二代目市川團十郎の舞台上の姿絵でした。瓢箪のようなくびれた手足を描く瓢箪足(ひょうたんあし)と、極端に抑揚をつけた蚯蚓描(みみずがき)といった躍動的な描法を編み出したのです。仁王像のような筋肉粒々の役者絵が人気を呼び、お家芸となり、代々受け継がれていきました。
人気役者を大首絵で描き、役者絵で新境地を開いた勝川春章
ただ、鳥居派はそれぞれの役者の顔を似せる、いわゆる似顔ではなかったため、あくまでイメージとしての役者絵だったのです。それを現代にも通じる似顔絵とし、一躍有名絵師になったのが北斎の師匠でもあった勝川春章(かつかわしゅんしょう)でした。
似顔絵の役者絵は一大ヒットとなり、絵師たちはこぞって役者に似せた顔を描き始めます。その後、春章は全身を描いた役者絵から半身像を描く「大首絵」へと進化させ、顔面を大きくし、派手な形相を描いていきます。役者たちも自分の人気のバロメーターともなる役者絵をどんどん描いてもらい、相乗効果でブームとなっていったようです。
蔦屋重三郎が売り出した奇才の絵師・写楽
この大首絵をさらに象徴的な役者絵としたのが東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)でした。「浮世絵黄金期」と言われた寛政期(1789~1801年)に、蔦屋重三郎に見いだされ、一躍時の人となります。彼は単なる似顔絵ではなく、役者の顔の特徴をデフォルメし、現代のアートのような感覚で、独創的な役者絵を描きました。今にも動き出しそうな躍動感あふれる役者絵は、多くの人の注目を集めるところとなり、一躍人気絵師の仲間入りを果たしました。しかし、理由はわかりませんが、1年足らずで消えてしまいます。
写樂
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表情も多彩な役者絵で大人気を誇る国芳&国貞
幕府による規制が厳しくなり、歌舞伎の興行が取り締まられても、力のある浮世絵師が次々に登場し、それは幕末まで続きます。そして、長らく鳥居派が独占していた歌舞伎の芝居看板や絵本番付なども、歌川豊国(うたがわとよくに)以降、歌川一門の活躍の場となりました。そうして門下の歌川国芳(くによし)、歌川国貞(くにさだ)らが名を馳せていきます。国芳も国貞も役者絵はもちろん、多彩な技法で戦国時代の武将を描いた武者絵や美人画も描き、押しも押されもせぬ絵師となり、浮世絵界を牽引していきました。
浮世絵スーパースター列伝「幕末のツートップ、くにくにブラザーズ
役者絵は現代の男性ファッション誌?
美人画が女性のファッションアイコンだったとすれば、役者絵は男性の手本と言えました。この時代、通を装い、粋にふるまうのが何よりの洒落男でもあったので、浮世絵に描かれる着物の着こなしや手ぬぐいのかけ方、しぐさなど真似ていたようです。いつの時代も、ヒーロー、ヒロインに憧れるのは人間の性といえるのかもしれません。
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紅葉狩り 東洲斎写楽 シカゴ美術館
参考文献:別冊太陽「浮世絵図鑑 江戸文化の万華鏡」平凡社「江戸浮世絵を読む」小林忠 ちくま新書 「日本大百科全書」小学館デジタル