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2021.03.31

「麒麟がくる」のアフターストーリー?織田信長が道筋を作り、土岐明智一族が発展させた「美濃桃山陶」の歴史

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「この茶碗、いったいいくらするんだ?」

もし、織田信長が生きていたなら、驚いて、尋ねたのではないでしょうか。自分が道筋を作った美濃焼が、現代において驚くような価値で評価されていると知ったら……。

国宝とされている『志野 卯花墻』をはじめ、『黄瀬戸』や『瀬戸黒』、『織部』といった桃山後期以降に誕生した美濃桃山陶は、400年以上の時を経てなお、その意匠の素晴らしさから美術品として人々を魅了しています。

名茶碗、卯花墻はなんて読むの?

陶工を瀬戸から美濃へ移し、やきもの生産を奨励した織田信長の戦略とは

織田信長は、早くから陶器の生産に着目し、美濃へ陶工の移動を奨励しました。彼ら陶工たちに、美濃で窯を開けるよう朱印状を発行したのです。その中の瀬戸(愛知県瀬戸市)の陶祖の末裔、加藤一族の兄、景豊(かげとよ)と弟の景光(かげみつ)が、岐阜県の大平(可児市)と、久尻(土岐市)に移住し、窯を開きました。この時に信長が発行した朱印状(多治見市教育委員会蔵)も伝え残されています。

なんで美濃だったんだろう?

発掘調査で単室の大窯(おおがま)である元屋敷東1号・2号・3号窯と、14の焼成室を持つ連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)で構成される古窯跡群であることが判明し、元屋敷陶器窯跡として国の史跡に指定された。斜面に広がる窯の眺めは壮大で、散策のできる公園として整備されている

茶の湯の政治利用は、信長の壮大な茶の湯マーケット思想につながる?

織田信長が茶の湯に傾倒し、名物と呼ばれる茶器を褒美として家臣に与えたことから、明智光秀や豊臣秀吉をはじめ、多くの武将が茶の湯にのめり込みます。名物欲しさに武功を上げる者まで出てきたほどでした。唐物を中心としたこれらの茶陶は、将軍や大名はもちろん、堺の商人たちの手で町人たちにも広まっていきました。また、「麒麟がくる」でも描かれたように、織田信長や松永久秀は茶器を巡って熾烈な争いを見せていました。

ドラマでみたみた!

クイズ!織田信長の「名物狩り」とは?食べ物?女?それとも?

信長は窯場の利権を抑えるだけでなく、臣下の大名たちの茶会開催も許可制にするなど、茶の湯を政治利用しました。

美濃へ陶工を招き、窯業の町として力を注いだのも、京への地の利の良い美濃に拠点を定めたのも織田信長の戦略だったのでしょう。先見の明のある織田信長のこと、天下布武同様、やきもので全国制覇も目指していたのかもしれません。

生産者を抱え込み、販路を確保し、褒賞という形でブランド力を上げ、市場価値を高めていったのでは?と思えるほどです。今でいえば、まさにマーケターやプロデューサーと言えそうです!

しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)に起きた「本能寺の変」で織田信長は自害してしまいます。では、なぜその後も美濃焼が発展し、美濃桃山陶として繁栄したのでしょう。

そこにはちょっと驚くストーリーがありました。謀反を起した明智光秀の妻の実家である妻木氏へと、この領地が引き継がれていたのです。

え!!!衝撃の事実!!!

「麒麟がくる」のその後として描いてほしいような話です。これらの史実を確かめるべく、志野・織部の聖地と言われる土岐市美濃陶磁歴史館を訪ねました。

国宝級と崇められている美濃桃山陶がいったいどのようにして大量生産へと移っていったのかを学芸員の春日美海(かすがみみ)さんに伺いました。

―織田信長が美濃に窯を開いた時はどのような状況だったのでしょうか。

春日:天正年間前半(1573~80年頃)、瀬戸にいた陶工たちの移動を奨励し、窯が開かれたのは、織田信長の産業振興策の一つとして伝えられています。織田信長の時代は、茶器と言えば、中国からの唐物や朝鮮のやきものが主流でした。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、美濃桃山陶の茶器はまだ登場しておらず、松永久秀が織田信長に献上した名物・九十九髪茄子も唐物です。

―そうなんですね。 瀬戸黒や黄瀬戸は、織田信長の茶の湯の席でも使われていたのだと思っていました。

春日:開窯当初は、日常使用する天目茶碗、小皿、すり鉢などが大量生産されていました。美濃に陶工を移したのも、瀬戸よりも地理的に大量消費地である京都大阪への輸送に、美濃が適していたためと考えられています。

美濃焼はそもそも7世紀には始まっていた?

―なぜ、織田信長はこの地を選んだのでしょうか。

春日:ここ美濃は1400年以上のやきものの歴史を持つ場所であり、窯を作るのに適したなだらかな山、素材となる良質な土や薪となる赤松など、環境資源に恵まれていました。美濃で最初にやきものが行われたのは7世紀と言われ、平安時代には灰釉陶器という貴族階級も使用する陶器を生産し、鎌倉、室町時代には、庶民の使う山茶碗が大量生産されていました。その後、窯の改良が行われ「大窯」という窯で鉄釉や灰釉を施した陶器が生産されるようになります。信長の時代は、この大窯の時代にあたり、やがて豊臣秀吉が天下を取った頃に、大窯で茶陶生産が盛んになります。1400年にも及ぶ技術の蓄積があり、原材料も豊富なこの地域で、美濃桃山陶の生産が開始されたのです。

なるほど。信長が美濃を選んだ理由がよくわかりました!

ここにはなんと、元屋敷陶器窯跡の発掘調査で出土した美濃桃山陶の陶片2431点が重要文化財に指定されています。また、元屋敷陶器窯を含め、土岐市内の窯跡から発掘された陶片が数万点収蔵されているというのです。いかにこの地で多くの陶器が焼かれていたかがわかります。

岐阜県土岐市泉町久尻の「織部の里公園」には、安土桃山時代の大窯3基が復元され、美濃最古の窯である江戸時代初頭の連房式登窯の遺構が保存公開されています。昭和のはじめに美濃桃山陶ブームが起き、各地の窯跡が荒らされ、盗掘されるなどの被害も出ましたが、ここ元屋敷陶器窯は、陶祖の子孫が盗掘に遭わないよう、寝ずに見張り番をして守っていたそうです。そのおかげでこれだけの出土品が地元に残りました。発掘されたものは当時流通できなかったとはいえ、史料としては大変貴重なものばかりです。

美濃桃山陶って、そもそもどこが凄いのか!?

ここで、多くの武将たちを虜にした、美濃桃山陶とは、どんなやきものだったのか。春日さんに解説していただきました。

「志野」や「織部」聞いたことはあるけど、違いはわからないな。

「美濃桃山陶はすべて茶の湯の席で使われる陶器『茶陶』です。4種類に分けられますが、登場する順番は黄瀬戸、瀬戸黒、続いて志野、最後に織部です」

『黄瀬戸』

中国華南三彩の影響で誕生したと言われる『黄瀬戸』。名前のごとく灰釉を黄色く発色させた黄色味を帯びたやきものです。向付や鉢など、懐石用食器や花入れ、水差しなどが造られました。

土岐市美濃陶磁歴史館所蔵

『瀬戸黒』

鉄釉をかけたものを焼成中に窯から引き出し、急冷させることで漆黒色へと変化していきます。形は千利休が好んだ樂茶碗と似ていますが、樂茶碗が低温で焼かれているのに対し、瀬戸黒は1100度以上で焼いているので、硬く丈夫です。和物の流行の先駆けであり、これにゆがみやへら削りなど造形が加わるようになり、織部黒へと変化していきました。

土岐市美濃陶磁歴史館所蔵

『志野』

長石を釉薬とした白いやきもので、日本で初めて筆による絵付けが行われたのが『志野』です。茶碗や鉢、向付など茶陶として多くのものが造られました。

土岐市美濃陶磁歴史館所蔵

『織部』

古田織部が好んだことから、織部死後にその名がつけられたと言われる『織部』。ゆがみや色彩、文様に特徴があり、やきものの概念を大きく覆しました。

土岐市美濃陶磁歴史館所蔵

妻木家と唐津藩の姻戚関係が志野・織部の発展に貢献

―妻木家がどのようにして、領主となったのでしょうか?

春日:もともと、清和源氏の末裔、土岐氏一族のうち土岐明智氏が妻木郷を治めていました。戦国時代、土岐明智氏の分家だった妻木家が、本家の土岐明智氏に代わり妻木郷(土岐市妻木町)の領主となりました。「本能寺の変」後、ここ東濃地方は織田信長の重臣だった森長可によって平定されます。この長可の配下となったのが妻木氏で、元屋敷陶器窯のあった久尻に領地を与えられたのです。

歴史上の人物として、そこまでメジャーではない妻木氏ですが、「麒麟がくる」で妻木煕子が明智光秀に嫁いだことで一躍注目を集めるようになりました。ここ土岐市には、伯父・妻木広忠が城主の妻木城もあったのですが、広忠は「本能寺の変」後に自害。息子の伝兵衛は生き残り、森長可に仕え、さらにその息子の家頼の時代には徳川家康に従います。

―では美濃桃山陶を発展させたのは、妻木氏ということでしょうか?

春日:妻木氏がさらに元屋敷陶器窯の発展に貢献したと言えます。江戸時代初頭に美濃最古の連房式窯「元屋敷窯」が築かれます。この窯については、『瀬戸大釜焼物並唐津窯取立之来由書』に、久尻の加藤景光の長男、景延(かげのぶ)が、九州唐津で連房式登窯を学んで帰り、美濃で同じものを築いた経緯が記されています。この連房式登窯は、唐津の窯を倣って築かれたものです。これが慶長10(1605)年ごろとされています。窯の技術を唐津から移転することができた背景には、妻木氏の娘が、唐津藩主の寺沢広高に嫁ぎ、姻戚関係があったためと言われています。妻木氏の御殿のすぐ脇に御殿窯と呼ばれる登窯が造られました。そこから唐津式の窯道具が出てきていることから、この地に唐津の職人が来て、焼いたんだろうとも言われています。

全長24mの連房式登窯の迫力は想像以上で、14室の焼成室が造られていました。この大きさであれば、相当の数の茶陶が焼かれていたことは一目瞭然

天下統一した豊臣秀吉の朝鮮出兵で、連れて来られた朝鮮の陶工により、九州各地に窯が開かれますが、美濃にも影響を与えていたのです。なんだか戦国武将の活躍の裏に「やきものの歴史あり」と言えそうです。

戦国時代、武将や戦にばかり目がいきますが「やきもの」に注目してみるのも面白いですね!

信長の時代に開窯し、妻木氏の時代に、黄瀬戸、瀬戸黒の生産が始まります。志野が焼かれるようになると、生産量の7割近くが志野の懐石用食器となり、完全に茶陶器生産の窯に移り替わっていったのだとか。日本のやきものとして、初めて白地に絵を描くことのできた志野は、茶会の席でも、もてはやされたのでしょう。そして江戸時代初頭の織部焼の生産へと進んでいきます。まさにここ元屋敷陶器窯跡は、美濃桃山陶の歴史そのものと言えます。

織田信長の家臣たちが次々と茶陶を花開かせた

織田信長の重臣であった豊臣秀吉と千利休によって、茶の湯はさらに経済と結びつき発展していきます。和物の茶碗を好み、唐物第一から、日本独自の茶陶へと変化していく中で、利休好みなども誕生。利休は好みの樂茶碗を京都で作らせていました。美濃の瀬戸黒は、その樂茶碗とよく似ています。

利休の死後、若い頃から織田信長に仕え、武家出身でありながら茶頭となった古田織部は、色、形ともに奇抜なものを好みました。ゆがみや文様、色調など多彩さが特徴となっています。その斬新なやきものが江戸時代中期に「織部焼」と称されるようになりました。

こうして美濃桃山陶を振り返ると、やはり茶の湯と政治権力を結び付け、茶道具の価値を高めた織田信長の影響力や功績は計り知れません。信長にとって、茶の湯は嗜むだけのものではなく、マネージメントするものだったのでは!と思えるほどです。

もし、織田信長が生きながらえていたら、誰よりも早く、陶器で世界進出を果たしていたかもしれません。

アイキャッチ画像:美濃桃山陶片(土岐市美濃陶磁歴史館所蔵)

土岐市美濃陶磁歴史館

住所:岐阜県土岐市泉町久尻1263
開館時間:10時~16時30分(入館は16時まで)
     休館は月曜日、祝日の翌日
入館料:一般200円 大学生100円 高校生以下無料
土岐市美濃陶磁歴史館