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2021.05.16

未来へ受け継ぎたい「用の美」。柳宗悦らも愛した瀬戸本業窯の新しい取り組みとは?

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新しい生活と向き合うようになって1年、少しずつ良い変化も生まれています。その一つが、物との向き合い方。忙しい時間を過ごしていた時には、日常に使う物に対して、消費だけに追われてしまうことが多々ありました。しかし、こうしてゆったりとした時間が出来ると、物とじっくり向き合い、一つ一つの物の形、物の有り様に目が行くようになります。

中でも私にとって、コロナ禍で始めた五十過ぎの手習い。陶芸を習う中で、一つの器を作るまでの工程の深さやちょっとしたことで形の変わる難しさ。不器用な私が作るいびつな茶碗を見ると、丁寧な物づくりをしている作り手に改めて感動を覚えるのです。

日々の暮らしに向き合うことで見えてきた生活様式の美。何気なく使っていた器たちを改めて見直してみると、自分の好みだけでなく、その器から匂いたつ意志のようなものまで感じられてきます。

黄瀬戸、三彩、麦藁手(むぎわらて)などの瀬戸焼を今に受け継ぐ本業窯

「用の美」として、物づくり、手仕事の本質を突き詰めた柳宗悦(やなぎむねよし)の『民藝運動』ですが、実は難しい言葉の数々、哲学的なまでの思考は、却って私を物づくりから遠ざけてしまうような時がありました。好きなのに近づいてはいけない、畏れのようなもの。

それが自分で土を捏(こ)ねるようになり、土の粘りが少しずつわかり、思いもよらない形になって焼きあがってきた器を見ながら、ようやく民藝の入り口を少しだけ垣間見れた気がしたのです。

「工藝が手工より機械に移るに及んで、喪失したものは創造の自由であった。仕事への誠実であった。人格の存在であった」

「あの正しい古作品は余暇の所業ではない。労働と美との結合を示す人類の日誌である」

―『工藝の道』 柳宗悦著

物づくりは芸術ではないけれど、そこには生活の中で生まれる美があります。私と同様、『民藝』をちょっと難しくて、近寄りがたいと思っていた方も、『瀬戸焼の世界』へとお連れしたいと思います。

昔から使われていた窯道具を積み上げて塀や壁を作った「窯垣の小路」。瀬戸を訪れる人に人気の観光スポットとなっている。この整備に力を入れたのが瀬戸本業窯の七代目水野半次郎さん

柳宗悦やバーナード・リーチが訪れて礼賛した瀬戸焼

 愛知県にいながら、近くて遠くに感じていた瀬戸市にある瀬戸本業窯。柳宗悦が「用の美」として讃えた窯の一つです。この地を訪れたことがない人でも、『瀬戸物(せともの)』という言葉は普段から使っているはず。やきものの総称として呼ばれるほどの長い歴史を持ち、多彩なやきものの技術で発展し、そして大量生産による日常雑器を生み出してきた町です。

最盛期にはおよそ1400件の窯元があり、瀬戸市内のほとんどの人は窯業関係に従事していたという瀬戸市。しかし、高度経済成長でやきものが機械化され、大量生産の道へ進むと、廃業を余儀なくされる窯元も多かったと言います。さらにやきものの技術をセラミックへ転化し、工業へと発展。1000年以上かけて作り続けてきた瀬戸焼の歴史は、風前の灯となっていたのです。

江戸時代から続く瀬戸本業窯の8代目、水野雄介さんに今回、瀬戸本業窯の歴史はもとより、瀬戸焼について深く掘り下げたいと取材をお願いしました。

和樂や和樂webでは『縄文Doki★Dokiクッカー』でおなじみの水野雄介さんとの開発ストーリーはこちら。
縄文DoKi★DoKiクッカー制作から2年、瀬戸焼と街の変化を瀬戸本業窯・水野雄介さんと語る

瀬戸物の故郷は、やきものの聖地になるがゆえの地盤があった

瀬戸本業窯に到着するやいなや、まず最初に向かったのは、小高い山の上。いきなりトレッキングからのスタート?と思いきや、案内してもらったのは、かつてあった登り窯の跡地でした。荒れ果てる里山が多い中、瀬戸市内を見渡せる素敵な場所になっています。ここを丁寧に管理しているのは、7代目水野半次郎(みずのはんじろう)さんを中心としたNPO法人やきもの文化・瀬戸洞町。自分たちの原点であるこの地をとても大切にしていることが伝わってきます。そして、踏んでいるのは土だけではありません。この山には売り物にならなかったたくさんのガラ陶が埋まっています。まさに瀬戸焼の聖地。陶芸を始めてから、破片までが愛おしい私にとって、感慨深いものがあります。

瀬戸本業窯の原点と言える14室を持つ巨大な登り窯のあった跡地

やきものの歴史を知る最初の一歩『六古窯(ろっこよう)』

-まずは、水野さんにやきものの歴史について教えていただきました。

水野:日本のやきものを表す『六古窯』という1000年前から現在まで途絶えずに続いている六つの産地を示す言葉があります。愛知県には瀬戸焼と常滑焼。福井の越前焼、滋賀の信楽焼、兵庫の丹波焼、岡山の備前焼です。愛知県には二つの古窯があり、さらには隣の岐阜県に美濃焼があるように、なぜ、この地でやきものが盛んになったかと言うと、陶器の材料である粘土がたくさん採れる場所だったからです。それがどのくらいかというと、愛知県と岐阜県の県境、愛知県の3分の1ぐらいの面積と岐阜県の一部が、花崗岩(かこうがん)の堆積地になっています。大陸と繋がっている頃からですから、1千万年前とか、新しくても3百年前からの土を、私たちが今もやきものの原料、粘土として使っています。瀬戸・美濃は、原材料にすごく恵まれているんです。

-いきなり、ブラタモリの世界に突入してしまいましたが、太古の昔から積み上げられてきた土地の恩恵を受けているのがここ愛知県や岐阜県のやきものだったのです。

水野:愛知県のやきものの起こりは、古墳時代に遡り、名古屋市にある『東山古窯趾群』が愛知県最古となっています。やきものは人間、土、水、木の4要素があればできるのですが、木や土は採ればどんどんなくなっていきますよね。当時はインフラもないので、物流ができず、人が動いて原材料のある場所に行くしかない。そうやって、辿り着いたのが、南下した常滑と北上した瀬戸になり、そこにとどまり続けて1000年が経ったということです。

-和樂webで日本文化や歴史の取材をさせてもらっていると、いつでもドラえもん級のタイムトラベルに乗っている感じなのですが、水野さんの話で一気に気持ちが古代へと飛んでしまいました(笑)。

釉薬を使ってやきものを最初に作り出した瀬戸。今も手作りで釉薬を作り続けている

水野:瀬戸のやきものと他の産地と何が違っていたかわかりますか? それは『釉薬』の存在です。平安の中期から後期にかけて、猿投古窯群から出てきたやきものには施釉(せゆう)がなされていた。まだ他の地域が、焼き締めた無釉の状態だった頃です。釉薬の材料というのは、木灰、藁灰、長石、石灰が主流となりますが、それが豊富だったことも理由の一つです。また、瀬戸の陶祖である加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)が、1223(貞応2)年に永平寺を創建する曹洞宗の開祖道元禅師に従って中国へ渡り、やきものの技法を学んで帰国。1242(仁治3)年、瀬戸に良い土を発見し、窯を開いたと言われています。

-鎌倉時代に釉薬で器を作り始めていたなんて、まさにやきものの先進地なんですね。

水野:そうなんです。鎌倉幕府がそこに目を付け、瀬戸の施釉陶器にどっと注文が入るんです。そこで資金を手に入れ、やきものの生産技術が画期的に向上したんです。室町時代は戦いの時代、武士の時代に入ります。三英傑と言われる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が強かった安土桃山時代は、陶器による財力の恩恵があったのだと思います。財力があるから、雇用ができ、武器が買えた。そして戦いが激化する尾張から、職人たちを美濃へ移動させたのが織田信長です。

瀬戸の陶工が美濃へ移った話はこちら
「麒麟がくる」のアフターストーリー?織田信長が道筋を作り、土岐明智一族が発展させた「美濃桃山陶」の歴史

戦時中もやきものを焼いていた5代目半次郎

ー陶工たちが美濃へ移り、豊臣時代に黄瀬戸、瀬戸黒が生まれ、古田織部の依頼でゆがみを持った織部が誕生。そして絵付けのできる志野などの生産がスタートしていったんですよね。

水野:江戸時代に入ると、平安が続き、名古屋界隈で言えば、徳川義直公(とくがわよしなおこう)が名古屋城の初代城主の時代に、美濃にいた陶工たちを尾張に呼び寄せ、保護します。これまでは幕府や武士といった権力を示すための高級茶器をたくさん作ってきた陶工ですが、町人文化も盛んになり、江戸時代中後期には一般の人たちが使う壺やかめなどを作るようになります。その時代に、ここ瀬戸本業窯が創業しました。今立っている登り窯跡地も、江戸時代に造られたもので、連房室が14室ありました。ここから火を入れて、14室まで火が回るのに、1か月近くもかかるんです。1軒の窯屋で扱いきれる数ではないので、4~5軒の窯屋が集まり、小規模の起業団地のように、共同で使っていたそうです。これが太平洋戦争中まで続きます。最後に焼いたのは戦時中で、曾祖父の日記にはその時の様子が書かれているんです。

ー戦争の真っ只中にもやきものを焼いていたとは! 時代の波というか、激動の歴史と共にあるんですね。

水野:名古屋市内には三菱の軍需工場があったため、たくさん爆撃されているんです。近郊にも偵察機がよく飛んできていました。その日、曾祖父である5代目半次郎が、5番目の部屋の窯焼にさしかかるところで、米軍機が飛んできたそうです。もしここで爆弾が落されていたら、高温度で焚いている窯が大爆発を起してしまう状態で、「まさに、命がけの窯焚きだった」と日記には書かれていました。その時は偵察だけで済んだので命も助かりましたが、この登り窯を使用したのはそれが最後となりました。

-美濃焼は戦国時代の歴史の影にあると思ったんですが、瀬戸焼はさらに近現代の戦争に強く関わっていたんですね。陶貨や手榴弾も作らされていたとか。

水野:戦後は、集団で何かをやるということが、ことごとく禁止された時代で、窯元も個々でやるようになり、競争社会へと促されていきました。その時に廃業した家や転業した家も多かった中で、我が家は生き残った窯元なんです。

長い歴史の中で受け継がれる物づくりの真髄

-現在、水野さんが8代目であり、長きに渡る本業窯の年月もそうですが、苦難を乗り越えてきた状況を聞くにつれ、改めて工藝を守ることの重みを感じてしまいます。私、正直、柳宗悦の言葉ってなかなか腑に落ちなくて。自分で作るようになって、ようやく腑に落ちたんです。同じ形を作り続けるって、ものすごい鍛錬が必要なんですよね。

水野:そうなんです。プロとアマチュアの違いって何かと言えば、再現できるかどうか。偶然の1個目ではなく、2個目からも同じ物を作れるかどうかなんです。柳が『分業制』や『伝統性』という言葉で表現されていますが、数多く作るため、複数の人間による共同作業が必要であり、先人たちの技や知識の積み重ねによって守られているのだと思うんです。

何年もの修行を経て、大きさ、薄さを手の感覚だけで生み出していく轆轤作業は、まさに熟練の技

-美の集結っていうことですよね。それぞれが得意を活かして、より極みを突き詰めていくというか。

水野:そもそも、それぞれの技を見抜くことが窯屋の大将であり、先祖がやっていたことなんです。今でいえばプロデューサーということになるんでしょうね。ただ、縮小していく中で、祖父の時代からは手が足りず、自分たちも窯場に入らないといけなくなりました。

人力での大量生産から機械化による大量生産で失われたもの

水野:ここが最初に築かれた登り窯を解体して作った窯で、1979(昭和54)年まで使っていました。登り窯って通常は、天井に手が届かないような大きさのものはないんですが、ここは規模が大きく、それだけやきもののニーズがあったということだと思います。

1979(昭和54)年まで使用されていた登り窯は、瀬戸市の文化財に指定されているほど、稀少価値があるもの。先代から受け継いできたやきものの伝承を後世に伝えていくことにも使命を感じているという水野雄介さん

-個人の時代になってからもこの大きさとはすごいですね。どのくらいのやきものを作っていたんでしょうね。

水野:今使用しているガス窯がここの半分で食器だと2000個ぐらい焼けるんです。ですからここはその2倍の大きさがあるから、大きいものから小さいもの含めて3000~4000個は焼いていたと。さらに山の上にあった登り窯はこれが14室ですから、もうその数は驚くほどですね。それらを人力でやっていたんですからね。

-人力で大量生産していたってことですよね!

水野:そこが近代のものづくりと違うところです。機械の大量生産であれば、1週間ぐらいで出来ますが、人力ではそうはいかない。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術を伴う『労働性』によって作られています。轆轤(ろくろ)師、絵付師、窯の焼き手という工程を、一人でやっていたら、どれも未熟で精度を上げられないですからね。それとこの窯を見て、もう一つここの特徴がわかるんです。

瀬戸本業窯を代表する「馬の目皿」は一つ一つ手書きされる模様が愛らしい

水野:この壁面がツルツルしていますよね。これが瀬戸のやきものの特徴である釉薬です。下にある穴から炎が拭き上がり、800度ぐらいの温度になります。1200度以上にするには、職人さんが薪を投げ入れて、まんべんなく温度を上げていくんです。たくさん薪が投げ込まれた場所に、薪が灰となってたまっていき、それが自然の灰釉(かいゆう)となってこの色になっているんです。木の灰がガラス質に変わることを紐解いていくと、瀬戸の木に含まれている土壌成分がわかります。瀬戸の粘土質の中には、ガラスの主原料であるケイ素が多く含まれているということなんです。瀬戸焼が丈夫で割れにくいのはそのためです。

-釉薬をかけた陶器とかけていない陶器はどう違うんでしょう。

水野:どちらがいいかは好き好きですが、何が大きく違ったかと言えば、表面をガラスで覆っていないものは、水を入れてもいずれ水が染み出してくるんです。水を入れても蓄えられる耐水性がついたのが釉薬をかけたやきもの。昔は水を飲むのは木のコップ、水をためるのも木製が主だったわけです。それが呑む茶碗も貯蔵するのもやきものに代わり、実用性を広げたことに繋がっているんです。

-食文化を変えたといってもいいですね。

水野:瀬戸は、最初にこういうものを作ったんだよということを知ってもらいたい。土器などの焼き締めのものと比べると、瀬戸焼が生活様式を変えたと言えるところもあるんです。

-革命的なやきものでもあった瀬戸焼がどんどん下火になってしまったのはどうしてでしょうか。

水野:今から100年ほど前に産業の革新期があり、機械化へと大きくシフトしていきます。さらに陶芸家が個人の名前を全面に出して、賞を受賞して、人間国宝となる人が台頭していきます。庶民の生活に使う食器類は工業化され、大量で安く作られる。作家ものは芸術性を高め、高級志向となる。というように情報が偏ってしまったんです。

-芸術に焦点を置くのか、生活に焦点を置くのかで別物になってしまったんですね。それでも、昔からのやきものを作る人たちのお陰で、一般市民も生活の中で陶器が使えていたわけですし、そこが忘れ去られてしまうのは、なんだか残念な気持ちにもなります。

時代と共に移り変わる物づくりの中で、残していきたい手仕事

水野:ここが現在使っているガス窯です。薪で焚く登り窯しかなかった時代には、たくさんの燃料となる木が必要で、瀬戸の山がはげ山になるほどになってしまったんです。そういう状況もあって、だんだんと使いづらくなり、石炭、重油、ガスへと転向せざるを得なくなりました。火で焼くのと、ガス燃料とどちらが良いかと言えば、どちらにも良し悪しがあります。登り窯で焼くと状態が安定しないので、半分はB品となります。昔はB品を扱う問屋さんがいたんですが、現代はそれが許されない時代なので、安定した物づくりには、ガス窯の方が失敗が少ない。もちろん作り手としては、実際の炎で焼きたいという気持ちもあります。

昭和54年まで使用していた登り窯。現在は文化財として保存しています

-釉薬も自分たちで手作りされているんですよね。

水野:ここが心臓部と言える釉薬を作る作業場です。今、自分たちで自然釉を作っている窯はほとんどありません。釉薬も化学に凌駕されてしまっています。赤松を主体として、長石や石灰などの鉱物を混ぜて作っています。木材自体の入手も大変な時代になっていて、公園の松伐採や、お寺の冬の行事の後で灰を分けてもらったりしている状況です。

この釉に鉄分を混ぜて茶色のあめ釉、銅を混ぜれば緑、藁灰を混ぜれば白というように色を作っていきます。長石は山に入って取りに行きます。鉄分の多い茶色長石と白い長石も風化させれば花崗岩の粘土になります。釉薬の中に入れると、粘土と釉薬の相性がよくなります。さらにこの中にケイ素分が多いので、ガラス質が出てくるんです。

釉のベースとなる赤松もすべて自分たちで調達している。一つの器を作るまでの膨大な作業と時間。そのすべてが人々の試行錯誤の中から生まれてきたもの

-すべてが理にかなっていて、無駄なものは一切ないんですね。

水野:本当に良くできた仕組みといいますか、だからこそ1000年も受け継いでこれたのだと思います。

「分業制」を守り続け、昔ながらの手仕事を受け継ぐ七代目水野半次郎さん

柳宗悦らの『民藝運動』と共に未来の物づくりを伝える

-手仕事だけにこだわるというのは、当時、周りからは理解されなかったんですよね。時代は高度経済まっしぐらでしたし。

水野:はい、その頃から日本中が機械化へと一気に進んでいきました。そこで柳宗悦が大量生産への批判を高めた民藝運動を起すんです。機械化に進んだ瀬戸も彼の批判対象となっていたんですが、細々と手作業でやっていた瀬戸本業窯の視察をバーナード・リーチと濱田庄司に託してくれて。このやり方を続けるよう勧められ、じいちゃんは決心したんです。

-そこから瀬戸唯一の民藝の聖地となるわけですね。なんだか感慨深いです。

水野:じいちゃんは戦前、戦中、戦後と生きてきて、機械化がどんどん進み、もう一つのやきもの、磁器が主流になっていくのを見て、もう陶器は難しいんじゃないかと一度は辞めようと思ったんです。それで東京に出て、弁護士になろうと中央大学に入学しました。その時に白樺派の柳宗悦たちの活動を本などでよく読んでいたそうです。その後、予期せず、戦後の特需が起きるんです。戦火で家々が壊れ、明日からの生活もままならない時に、まず必要になったのが生活道具。水がめやすり鉢、捏ね鉢がないと生活ができない。それで大量に受注が来て、大忙しとなり、じいちゃんは東京から呼び戻されたんです。その少し後にやってきたのが柳宗悦たちでした。

-何度かの特需があり、浮き沈みがあり、運命の出会いがあったんですね。

水野:今では、瀬戸で『民藝』という言葉を思い浮かべる人はあまりいないと思います。今の瀬戸は機械化が主流ですが、ここまでくるには、そういう流れもあって、今の瀬戸があるってことも知っていただきたいと思うようになったんです。

-歴史を知ると、改めて物への思いも強くなりますね。工業製品ではない工藝の器で食べるごはんの味もぜひ知ってほしいと私も思ってしまいます。

水野:人が物を大事にする、地域を大事にする気持ちですよね。100円で何でも揃う時代だけど、その時代に数千円のお茶碗を買う意味って何だろうと考えるための何かが必要だなと。逆にそれを知らない世代の人たちに知ることから始めてもらおうと思っています。こんなに物を簡単に作って、買ってていていいんだろうかという気持ちや、このスピードについていけない、早すぎると思うことのきっかけになってくれたらと。

-この仕事を覚えるのに10年かかると言われていますが、今の若い人が本気でこの仕事をやろうと思えば、この先、10年も20年も働ける仕事になるわけですよね。それを支えていくのが買い手でもあるんじゃないかと思います。

水野:そうなんです。自分たちだけではこの業界を続けていけないので、この先の未来を一緒に考えてもらうきっかけになるためにも、まず知ってもらおうと思ったんです。そのために今回、瀬戸本業窯に来てくださる人に、器も工房の作業も窯も見てもらえるための資料館として整備していこうと決めたんです。

-今、瀬戸本業窯には毎年ものすごくたくさんの方が訪れるようになっているんですよね。

水野:はい、インターネットの広がりで、情報が拡散され、ここ10年で、年間約1万人の人がいらっしゃるようになったんです。こんな田舎で、観光地でも何でもない、製造業の現場にです。

-1万人はすごい! みなさんお仕事もされている中だから、対応とか大変ですよね。

水野:観光業が本業ではないし、全くの素人でどう対応したらいいかと、最初は大変でした。でもそれがこの資料館の整備に繋がったところもあります。老朽化もありましたが、人の対応が追いつかなくなってしまったんです。

この地を訪れる人たちに瀬戸焼の魅力を知ってもらうためにクラウドファンディングをスタート

-改めて、水野さんから見た瀬戸焼の魅力って何でしょう?

水野:手仕事で作る陶器は呼吸している器なんです。工場で生産する無呼吸の製品は変化もしないし、壊れにくいし、匂もつかない。使い勝手がいいと思われていて文句も出ない。でも私たちの作っているものは、経年変化するし、シミがついたり、ゆがんだりもしていく。それを使う人が楽しんでもらえたらと思うんです。使い続けることでその人の生活が見え、その器にその人の生活が沁み込んでいく。今、改めてそこを大切にしていきたいと思うんです。じいちゃん、父、僕が続けている品質や伝統的価値を守ることにも繋がっていきます。商売は大きくは出来なかったですけどね(笑)。

-この資料館はおじい様がお作りになられたのですか?

水野:ここはもともと材料を乾燥させるための保管庫だったところです。昔、じいちゃんが民藝運動と出会い、中部に民芸館が必要だという話が出たことがあったんです。柳さんの民芸館の一部を移して、作ろうという話が持ち上がって。じいちゃんの前の世代だったら、陶器で財を成していた時代だったので、そういう申し出にも応えられたかもしれなかったのですが。じいちゃんの時代以降、とても一つの窯屋にできることではなくて、FM愛知の創業者である本多静雄さんが手をあげてくださり、豊田民芸館が作られたんです。その後、この建物は自力で民藝館が出来なかった悔しさから、じいちゃんが自分で蒐集したもの保存するようになったんです。ただ、たくさんの方が訪れてくれるようになって、ここもどうやって維持をしていくのかということも問題になったんです。

古瀬戸をはじめ、油用の受け皿だった行灯皿(あんどんざら)など瀬戸焼の歴史を知る貴重な資料や六代目半次郎さんが蒐集した民藝陶器などが展示されている資料館

-これは多くの人の共有財産ですし、クラウドファンディングで共感してくれる人は多いと思います。

水野:器を販売をしているギャラリーと資料館を一緒にして、工房での職人の様子は、外にネットワークカメラのモニターを置いて、職人の手作業が見えるようにしようと思っています。ここからは有料で、登り窯も見てもらうようになっています。

-窯元に多くの人が訪れたいという思いもわかるし、でもここは作業場であり、日常ですから、お互いが無理のないように民藝を楽しむ場になるといいですね。良い形でクラウドファンディングが進んでいくことを願っています!

クラウドファンディング詳細

約250年続く窯元に瀬戸のものづくりと暮らしを伝える「瀬戸民藝館」を開館したい!
やきものの産地、愛知県瀬戸市で約250年続く「瀬戸本業窯」。地元・瀬戸で採れる原料をもとに、江戸時代からほぼ変わらない手法で、やきものをつくり続けています。そんな現役の窯元が、新たな「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム(瀬戸民藝館)」オープンを目指します。

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