「愛」「毛虫」「狐」。
一見、無関係と思われる言葉の数々。しかし、これらには、なんと1つの共通点がある。ちなみに、大喜利のような「閃き」を求めているワケではない。もちろん、クイズのような「柔軟性」も。ただ、歴史的事実として、共通点があるにすぎない。そういえば、「鹿の角」「山鳥の尾」なんかも。
その共通点とは。
ズバリ、戦国時代の武将の「兜(かぶと)」。
じつは、ここに列挙したモノ全てが、「兜」の前立(まえだて)や脇立(わきだて)の装飾品として使われているのだ。
はあ?「愛」って、どうやって兜につけるのよ?
疑問はごもっとも。もう、ホント。「なんで?」の世界である。実際に「愛」の兜を着用していた上杉家の家臣・直江兼続(なおえかねつぐ)。姿形はというと、そのまんま。ひねりもなく、単に「愛」という「漢字」が兜の前にでーんと乗っかっているという具合。他にも、まあ、信じられないようなモノを、戦国武将の方々は頭につけていた。
とかく目立ちたい。戦国武将とはそんな人種。ただ「変わり兜」ゆえ、混乱状態の戦場でも、すぐに居場所がわかるというメリットも。「あっ。殿~」的な感じ。遠目も一切ハンデにならず。武将が誰か、兜で正体が分かるオチなのだ。
さて、こうしてみると、生物や神仏に関する装飾品がなぜか多い。ただ、なかには想像を超えるようなモノも。その1つが黒田長政(くろだながまさ)愛用の「銀箔押一ノ谷兜(ぎんぱくおしのいちのたにかぶと)」である。非常に独創的なこの兜。
今回は「銀箔押一ノ谷兜」が主役。この兜にまつわる戦国武将の友情秘話をお伝えしたい。戦国時代のちょっとイイ話。早速、ご紹介しよう。
「銀箔押一ノ谷兜」って地形がモチーフ⁈
変わり兜の中でも、一際、存在感が抜群な兜。それが「銀箔押一ノ谷兜(ぎんぱくおしのいちのたにかぶと)」である。
まさか。「一ノ谷」って、「谷」なの?
ハイ。そのまさか、なんです。意外すぎるのだが、「一ノ谷」とは「地名」である(兵庫県神戸市須磨区周辺)。時は、平安末期にまで遡る。源平合戦において、源義経が奇襲攻撃「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を仕掛けた「一ノ谷の戦い」。平家の背後をついて、断崖絶壁から馬で駆け下り、義経の勝ち戦となった戦いである。なんでも、この「鵯越」。地元では「鹿」しか通れないと言われていた難所だったとか。
で、でも。
それほど急な「崖」を、ど、どうやって、デザインするのさ?
残念ながら、実際の画像はご紹介できず。私が写真で見た限りでの話となる。
よく見れば……?
いや、うん、きっと。コレが「一ノ谷」の地形なんだろう。
「崖」というよりは、兜の正面に長方形の鉄板がついているイメージだろうか。長方形の上の辺が内側に折り込まれ、緩やかなカーブを描く。ただ、残念なことに、遠くからでは普通の「鉄板」。目立つだろうが、優美なデザインではない。それでも「一ノ谷」は奇跡的な勝利を収めた場所。なんとか義経のご武運にあやかろうと、ゲン担ぎとして兜の装飾品にするのは、十分理解できる。
ちなみに、素材は「檜(ひのき)の板」。銀箔(最近では金箔との説もあり)が張られていたため、「鉄板」と勘違いしそうだが。じつは、「木製」なのである。総量は約3.1キロ。そこまで重くはないといわれているが、それでもアタマにのっけるのは、やはり大変そうである。
福島正則と黒田長政の不和って?
この「銀箔押一ノ谷兜(ぎんぱくおしのいちのたにかぶと)」を愛用していたといわれるのが、福岡藩52万石の初代藩主・黒田長政(くろだながまさ)。
しかし、その前の持ち主はというと、これまた、別の戦国武将である「福島正則(ふくしままさのり)」。豊臣秀吉の子飼いの家臣である。秀吉が織田信長の次期ポストを巡って柴田勝家と戦った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」では、七本槍の1人として活躍した武将だ。
じつは、この2人。共に秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に駆り出されているのだが、些細なことで不和となったといわれている。
福岡県の民謡「黒田節」の一節。「酒は呑め呑め~」に出てくる名槍「日本号(にほんごう)」にまつわる話である。この「日本号」、もともとは正親町(おおぎまち)天皇から15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)に、そして織田信長、豊臣秀吉の手に渡ったもの。無銘だが、作風から刀工集団の金房(かなぼう)一派の作といわれている(諸説あり)。血抜きの溝には「俱利伽羅龍王(くりからりゅうおう)」の浮彫が施され、美しい大身槍(おおみやり)なのだとか。
秀吉は、この名槍「日本号」を、小田原攻めで武功を挙げた福島正則に与えた。太閤殿下より頂戴したモノ。正則にとっては、もちろん家宝である。だが、福島正則といえば、酒にまつわるトラブルが事欠かない人物。どういうワケか、正則は、この家宝の名槍を酒宴の席で賭けの対象にしてしまう。相手は黒田長政の家臣「母里太兵衛(ぼりたへえ、友信ともいう)」。結局、まさかの呑み比べに負けて、家宝を取られてしまうことに。
じつはというか、やっぱりというか。
このあと、福島正則は我に返る。猛烈に反省してもあとのまつり。あの、太閤殿下から下賜されたモノ。大切な家宝の「日本号」を取られるだなんて。もう、名誉なんてどうでもいい。ぶっちゃけ、武士の二言など捨ててやる。切迫感と焦燥感から、正則は、恥を忍んで黒田長政に説得を依頼する。
「どうか、母里太兵衛に返してくれるよう言ってもらえぬか」
しかし、黒田長政はあっさり拒否。7歳年上の福島正則に、正面切って「武士の約束だから」と断るのである。諦めきれない福島正則と、突っぱねる黒田長政。再三のやりとりの末、両者の関係は悪化の一途へ。
死後もけんかの仲裁?頼れるのは竹中半兵衛だけ!
この不和を解消できるのは、ただ一人。福島正則、黒田長政の両名が恩義を感じる人物、「竹中重治(たけなかしげはる)」、通称「半兵衛(はんべえ)」である。
半兵衛こと竹中重治は、豊臣秀吉の天才軍師として名高い武将である。生まれ持ったその知略で、秀吉を天下取りへと近づけるのだが。残念なことに、志半ばで病に倒れ、この世を去る。ちょうど、秀吉が三木城(兵庫県)攻めを行っている最中のことである。
よって、今回の仲裁の時には、当の本人、竹中重治はこの世にいない。その縁者、従兄弟である「竹中重利(しげとし)」が一役買うことに。重利は、府内藩(大分県)の初代藩主となる人物である。
重利の仲介によって、両者は和解に至る。当時は武将同士、脇差の交換など、贈り物をし合うことが多かった。福島正則も、黒田長政も例によって、互いの持つ「兜」を贈り合うことに。いや、そこは……?あれだけ「日本号返して」って泣きついてるんだから、サプライズ的に「日本号」じゃねーの?と突っ込みそうになるが。現実はそうではなかったようだ。
そして。
福島正則から贈られたのは、あの「銀箔押一ノ谷兜」。鉄板、もとい「一ノ谷」を模した装飾品がついた例のゲン担ぎの兜である。
じつは、福島正則の前の持ち主は、なんと「竹中重治」。そもそも、この兜は彼が考案したのだという。確かに、天才軍師がゲン担ぎとして選びそうではある。当時、形見分けとしてもらい受けた福島正則は、若干19歳の若造。竹中重治が陣中で倒れることとなった三木城攻め。この戦いで初陣を飾ったからだという。若いながらも忠義に厚い、そんな正則の働きぶりをみて、この「銀箔押一ノ谷兜」を託されたのである。
そんな「銀箔押一ノ谷兜」を受け取った黒田長政は、超絶感激したに違いない。というのも、竹中重治は黒田長政にとって「真の命の恩人」。恩義ある人物の兜は、それこそ家宝並み。心から感謝したはずだ。
さて、ここで気になる「命の恩人」。これはどういうことか。
黒田長政の父は「官兵衛」こと「黒田孝高(くろだよしたか)」。竹中重治と黒田義孝は、共に豊臣秀吉の軍師として、助け合い、協力し合った仲。そして、じつに二人の間には、強固な信頼関係が成り立っていた。
深き友情が証明されたのは、天正6(1578)年。きっかけは、織田信長の家臣、荒木村重(あらきむらしげ)が謀反を起こしたことにある。交渉力に長けた黒田孝高は、信長の命を受け、村重の説得に有岡城へと向かう。しかし、入城したものの、一向に戻って来ず。これに、信長は激怒。黒田孝高も丸め込まれて謀反に加担したに違いないと思い込む。確たる証拠はなかったが、即刻、人質であった息子の長政(当時は松寿丸)を処刑するよう指示をしたという。
ただ、コトの真相はというと。
全くもって事実無根。黒田孝高は不本意ながら荒木村重に幽閉されていただけのこと。城外に出れず、助けも呼べず。誤解も甚だしいのだが、さりとて、誰も真実は分からない。しかし、このとき、竹中重治だけは、黒田孝高を疑うことはしなかった。「官兵衛」が裏切るなど、どうしても信じられなかったのだ。
そこで、自分の命も顧みず、竹中重治は黒田孝高の息子である長政を密かに匿う。バレれば一族処刑の危機に。それでも、竹中重治は長政を助けようとしたのである。処刑したことにして、ちょうど亡くなった別の少年の首を届けることに。この計らいにより、黒田長政は間一髪のところで、命を救われたのである。
そんな命の恩人の兜が、まさか、とうとう自分の手元に回ってきたのである。そりゃ、もう嬉しかったはず。のちに、黒田長政は、天下分け目の戦いとなる「関ヶ原の戦い」で、この兜をつけて参陣。大事な一戦を、今は亡き竹中重治に見せたかったのかもしれない。
一方で、黒田長政からはというと。
黒田家のシンボルとなる「水牛の角」がついた兜が贈られた。正式名称は「黒漆塗桃形大水牛脇立兜(くろうるしぬりももなりおおすいぎゅうわきだてかぶと)」。
兜自体は、鉄板を繋ぎ合わせたものだが、その繋ぎ目を隠さずにデザインとして残している。真正面からみれば、繋ぎ目が桃の形に似ているため「桃形」というのだとか。水牛の角は、じつは「ハリボテ」。根本は木だが、先の方は「紙」だという。これも軽量化を狙ってのコト。こうして長政も、「ザ・黒田家」の兜を惜しみなく福島正則に贈ったのである。
なお、余談だが。
仲裁人となった竹中重利。黒田長政は、彼にも恩義を感じていたのだろうか。関ヶ原の戦いでは、西軍に属していた竹中重利だが、長政が説得。無事に東軍に寝返らせ、事なきを得ている。全てがうまく収まったという感じだろうか。
結論。
こう見ると、福島正則の方が、情が深い気がしてならない。というのも、「官兵衛」と「半兵衛」の絆を知った上でのこと。黒田長政に、命の恩人となる竹中半兵衛の兜を贈ったのだから。なかなか憎い演出である。短気などと評されてはいるが、情に厚い人物でもあったようだ。
一方で。
返す返すとなるが。黒田長政よ。
そこは、決して「水牛」の出番ではない。あの名槍「日本号」だ。
なんとか家臣から取り返して、福島正則に渡してやってくれまいか。だって、贈り物の基本は「相手が喜ぶコト」。自己満足ではない。相手満足なのだ。
だからお願いだ。「日本号」を……。
まだ間に合う。「日本号」を……。
プリーズ「日本号」!
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月