大学受験を経験していると必ず耳にする、けれども絶対にそうなりたくない立場「浪人」。この言葉の語源が「江戸時代の初めに大名家が処分され、職を失った武士たちが『浮浪人』になった」ことであるとご存じでしょうか。私たちは、一般に浪人というと「落ち武者」ともいえる悲惨で救いのない存在として、つい彼らのことを認識してしまいます。
ところで、上記のような「悲惨」な浪人イメージに対して、戦国時代の浪人たちはどのような暮らしをしていたのでしょうか。結論から言えば、当時は「牢人」と呼ばれた職の無い武士たちは、立場や能力によって大きく異なった生活をしていたのです(戦国時代から江戸時代の初めまでは、今でいう「浪人」のことを「牢人」と書き表していました)。放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀も牢人となってしまいましたが、本当はどのような生活を送ったのでしょうか。戦国時代の悲喜こもごもな牢人たちの実態に迫ってみました!
基本的には、やはりつらい立場に置かれた
皆さんが想像する通り、戦国時代は牢人が生まれやすい環境にありました。当時の武士たちは、今風に言えば「○○家」の正社員として雇用され、当主の命令に従って仕事を果たすことでお給料を得ていました。しかし、乱世に巻き込まれて当の家が滅びてしまうと、雇用元がなくなってしまうことに。
すると、彼らは当然ながら職を失い、牢人となります。つまり、現代で例えるなら「会社の倒産によるリストラ」が起こりやすい状況だったのです。加えて、家中の御家騒動に敗れて組織を去らなければならない例もありましたので、当時はかなりの数の牢人がいたのではないかと推測されます。
現代でも同じかもしれませんが、リストラされた武将たちは次の就職先を探さなくてはなりません。とはいえ失業手当もなければ就職エージェントもいない時代ですので、どのように生計を立てていくのかは大きな問題でした。
一般的に、当時の武士たちは戦争のたびに必要とされる「傭兵」として一時的に雇用され、そこで力量を示して次の仕官先を探す例が多かったようです。今風に言えば、「任期付き雇用をされているうちに正社員登用を狙う」といったものでしょうか。なぜこうした手段が取られたかといえば、彼らにとって「戦場」とは、ある意味で一番の「就職試験場」だったから。たとえ牢人に力があったとしても、それを示す場がなければ再雇用の道はありませんでした。しかしながら、傭兵という立場は家の「正社員」よりも危険な立場に置かれ、激戦地に送り込まれたことは容易に想像できます。
また、たとえ力をもっていたとしても、前の職場と喧嘩別れしていた場合には再雇用を邪魔されるという例もあったようです。具体的には、黒田官兵衛や黒田長政の存在で有名な黒田家の家臣として名を轟かせた後藤又兵衛という人物が家を出ていった際、長政が他の大名に「アイツは雇うなよ?」と圧力をかけた例があります。
大大名であった黒田家との関係悪化を避けたかった他家も又兵衛を積極的に長期雇用しようとはせず、結果的に彼は大坂の陣で豊臣方につき、敗死を余儀なくされました。
他にも、悲惨な牢人生活の例は枚挙にいとまがありません。主家である尼子家が滅びたことにより家を再興しようとするも、夢かなわず敗れ去った山中鹿之助や、関ヶ原で敗れたことにより宇喜多家の当主から八丈島に流され、そこで数十年の時を過ごした宇喜多秀家などは、私たちが想像する牢人イメージをそのまま体現しています。
確かな能力と運に恵まれれば、チャンスもあった
実態をひもといていくと、たしかに牢人たちの生活は過酷なものになることが一般的でした。しかしながら、全員が全員不遇のまま死を迎えたかというと、そんなことはありません。
牢人から奇跡の復活を果たした大名の例が、九州の地で名を馳せた立花宗茂という武将です。彼は、もともと豊後の大友氏に仕える重臣・高橋紹運の子として生まれ、彼の同僚であった立花道雪たっての願いで立花家に迎えられたエリート武将でした。戦国期の騒乱の中で大友家は島津家に攻められ、父の紹運が壮絶な討ち死にを遂げるほどに追い込まれましたが、全国をほぼ手中に収めた豊臣秀吉の九州攻めによって命拾いします。宗茂は大友家ではなく豊臣家の家臣として才能を認められ、優れた能力をもって豊臣政権を支えました。
ところが、彼は関ヶ原の戦いで西軍に味方してしまい、敗戦後は改易処分に。つまり、今風に言えば「国の命令で会社が強制倒産に追い込まれる」といったところでしょうか。こうして大名から一転、職を失った牢人になってしまったのです。その後、宗茂は立花家再興のため動き回りますが、期待に反して実に6年近くもの間牢人生活を送ることになってしまいます。
彼が許されたのは、徳川家康が将軍職から身を引いた後の慶長11(1606)年。江戸幕府2代将軍・秀忠から奥州棚倉(現在の福島県東白川郡棚倉町)を与えられると、大坂の陣などで活躍を見せ、元和6(1620)年にはかつての領土である筑後国柳川に10万9200石を取り戻しました。
宗茂のサクセスストーリーはたしかに輝かしいものですが、一方で彼が関ヶ原で失った旧領に復帰を果たした唯一の大名とであることを忘れてはなりません。大半の武将は、やはり鹿之助や又兵衛のように再起を目指して討ち死にするか、秀家のように悲惨な牢人生活を送っていたのです。
明智光秀の浪人生活はどうだった?
大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれる明智光秀の牢人生活は、子どもたちの教育などで少しの労働をする一方、妻の熙子が「髪を売る逸話」を思い出させる質屋通いをしなければならないほど困窮したものです。
つまり、ここまで見てきた戦国時代の「悲惨な牢人」の姿を反映していると考えるべきでしょう(ただ、光秀はこの後に信長の家臣として再興するので、立花宗茂が見せたような華麗な復活を遂げることになるハズ)
しかし、実際の歴史上で光秀がどのような牢人生活を送ったのかということについては、詳しく分かっていません。そもそも、「光秀が越前で牢人していた」ことを示す確固たる史料も残っていないというのが現状で、仮に本当に牢人していたとしても、彼の生きざまについては推測で語るほかありません。
それでも、光秀の牢人生活を少ない情報から解き明かそうとする動きもあります。無難なところでは、ドラマで描かれているように忍耐の生活を送るというものから、朝倉義景の家臣として活動したというものなど。さらに、牢人生活の中で諸国を渡り歩いて修行を積んだというものから、近年では簡単な医学の心得を生かして医師として生計を立てていたなど、様々な説が提唱されています。
とはいえ、現状では彼の牢人生活を紐解く史料があまりに少なく、実態を知るためには新史料の発見を待つ以外にないと言わざるを得ません。過去には大河ドラマの放送をキッカケに史実を揺るがす史料が発見された例もあるので、放送後の新発見にも期待したいところ。ただし、光秀が歴史に登場するようになった時期の人間関係を考えると、やはり細川藤孝や三淵藤英をはじめとする幕臣や室町幕府とは何らかのつながりがあったと考えなければ不自然でしょう。新たな史料が見つかったとしても、この部分についての解釈は変わらないのではないでしょうか。
【参考文献】
渡邊大門『牢人たちの戦国時代』平凡社、2014年
早島大輔『明智光秀:牢人医師はなぜ謀反人となったか』NHK出版、2019年
乃至政彦『信長を操り、見限った男光秀』河出書房、2019年
他