Culture
2020.06.20

日本から消えた競走馬「アングロアラブ」。頑丈で軍馬に適していたが、「速さ」だけが足らなかった…

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2020年の「日本ダービー」は、福永祐一騎手が騎乗するコントレイル号の優勝という形で幕を閉じました(馬券的にはバッチリ三連単を取りました。ハイ、自慢です)。競馬ファンには既知の事実かもしれませんが、日本ダービーというレースを制した馬は「その年1番の競走馬」と見なされるため、全ての競馬関係者は「ダービー馬」を生産するために競馬に関わっているといっても過言ではありません。

そんなダービーを制したコントレイルは、馬の種類でいえば「サラブレッド」と呼ばれるものになります。「競走馬」と言われて皆さんが想像するのも、おそらくこのサラブレッド種でしょう(現在、日本で生産される競走馬の約99.999%はサラブレッドです)。しかし、実は競走馬と呼ばれる生き物にはいくつかの種類がいる、というか「いた」ことをご存じでしょうか。

事実、日本の競馬会が純粋なサラブレッドで埋め尽くされるようになったのはほんの最近のこと。昭和の中ごろまでは「アングロアラブ」という種類の馬も競馬場を駆け回っていたのです。

では、いったいなぜこのアングロアラブという馬は競馬界から姿を消してしまったのでしょうか。競馬の歴史を振り返りながら考えてみます。

「軍馬」が必要になった明治日本

誤解のないように書いておくと、サラブレッドもアングロアラブも「自然の生き物」ではありません。どちらの種類とも人間にとってより扱いやすい馬を生み出すための交配によって誕生したものであり、彼らの歴史を知るためには「馬産」の歴史を踏まえなければならないのです。

ある時は人間の「足」として、またあるときは「労働力」として、重宝されてきた馬たち。そんな馬をより扱いやすく改良する過程で生まれてきたのが、最初の改良種と呼ばれる「アラブ」種でした。アラブ種の馬たちは小柄ながら堅牢丈夫な体質を買われて人間たちに重宝され、世界中で愛用されてきました。

しかし、17世紀にイギリス人が「アラブ種の馬と東洋の馬をかけ合わせたらどうなるのか」と思い付き、その結果として生まれたのがサラブレッドであると言われています。つまり、現代を生きる私たちがイメージする「馬」が生まれたのは、かなり最近のことなのです。実際、日本でも古くから馬は愛用されてきましたが、明治時代に至るまでの馬は日本在来種という全くの別物。サラブレッドよりもずっと小柄で、体高は平均して130cmくらいです(サラブレッドは160~170cmといわれる)。

日本在来種の一種「与那国馬」

サラブレッドはアラブよりも虚弱で繊細な生き物でしたが、比較的大柄で短距離をとにかく早く走ることができるという特徴をもっていました。そのため、イギリスで生まれた「競馬」に用いられるようになり、それが世界中に普及したことで現在に至ります。

こうした競馬や洋風の馬といった文化は、開国を境に日本にも輸入されるようになっていきました。実際、まだ明治時代にもなっていない1860年代には外国人たちの手によって競馬が開催され、そのまま競馬が日本の文化になりました。とはいえ、皆さんもお分かりの通り、競馬の醍醐味はやはり「賭け」あってのもの。明治時代の日本で「賭け」は禁止されていたので馬券が買えず、競馬はあまり注目されませんでした。

ところが、日本は日清・日露戦争という大戦を経験し、「軍馬」の必要性を痛感しました。時の政府は馬産の改良に乗り出し、その費用を調達するために初めて馬券発売が黙認されます。治安の悪化を理由に数年で馬券の発売は禁止に追い込まれますが、日本陸軍はより強い軍馬の生産に力を入れていくようになるのです。

レースでも人気を博したアングロアラブ

アングロアラブは、軍馬の生産を志す日本陸軍に注目されました。サラブレッドとアラブを交配させることで誕生したアングロアラブは、もともとフランス原産の馬種でした。サラブレッドにつきまとった「虚弱」という弱点を、アラブ特有の頑丈さが補強することで「そこそこに早く、かなり頑丈」という馬が生まれ、世界中で乗馬として親しまれていたのです。

軍馬として適していたこの馬は軍を挙げて生産が奨励され、必然的に彼らを用いた競走も増えていきました。「より速く走れる馬」は、つまるところ「優れた馬」の証だとみなされたのです。日本の競馬は戦争と密接に結びつく形で発展していき、それは終戦まで続きました。

しかし、終戦後も競馬という文化が廃れることはありませんでした。日本陸軍は解体され、軍馬生産という役割が失われてもなお、ギャンブルの一種として広く愛されていたからです。戦後は中央競馬と地方競馬がそれぞれ発展していき、馬産も競技とともに改良が続けられていきました。

もともと軍馬として生み出されたアングロアラブも、この時点で居場所を失ったわけではありません。確かにサラブレッドに比べると速度や迫力には劣りますが、特有の頑丈さは馬の生産者たちに好まれたからです。どちらかといえば財力的に劣る地方競馬で活躍することの多かったアングロアラブ競走馬ですが、時にはサラブレッドにも劣らない名馬が生まれたのも事実。

例えば、1954年に生まれた「セイユウ」というアングロアラブ馬は歴史にその名を残しています。セイユウは中央競馬でデビューし、2歳の秋から3歳にかけてアラブの競走を15連勝するという離れ業をやってのけました。その後、アラブ馬の中に敵がいないことを確信した陣営はサラブレッドに挑戦し、現代でも格式高い「牡馬クラシック競走(3歳の馬のみが出走できる競走。この場合は菊花賞)」への登竜門として君臨するセントライト記念で見事勝利。現代でいう「G1(競馬の最高グレードレース)」に勝利することはできませんでしたが、アラブの力を世に知らしめました。

ちなみに、この馬は種馬になってからも活躍し、当時の平均的な種付け頭数の5倍近くの雌馬と交配するタフネスさを有していました。あまりの元気ハツラツぶりに「性雄」というあだ名まで付けられ、2000頭に上る子を残しています。

ひっそりと歴史から姿を消した

先述したセイユウのような名馬が生まれる一方、スピードの違いから観客たちの目はしだいにサラブレッド競走に奪われていくようになりました。

また、競走能力が劣ることから賞金も安く抑えられ、昭和後期には馬の生産数、競走数ともに減少傾向を示すようになります。虚弱で知られるサラブレッドもこの時期には馬産界に定着し、管理ノウハウなども進化。経済的に劣る地方競馬でもサラブレッドを維持・管理できるようになっていきます。

こうなると、生産者たちが積極的にアングロアラブを生産する理由がなくなってしまいました。人気がなかったことから惜しむ声も少なく、中央競馬では1995年のアラブ大賞典を最後にアラブ競走は姿を消しました。地方競馬でもだんだんと競走数が少なくなっていき、かつては全競走をアラブレースが占めていた福山競馬での「開設60周年記念アラブ特別レジェンド賞」を最後にアラブ競走は行われなくなりました。もっとも、その福山競馬も経営赤字が続いていたため、2013年には廃止に追い込まれています。

競走馬としてのみ生まれることを求められていたアングロアラブ馬は、この時点で種としての役割を終えたと言っても過言ではないでしょう。事実、福山競馬の廃止に伴って最期まで走り続けていた競走馬「レッツゴーカップ」も引退し、日本からアングロアラブ競走馬は姿を消しました。

しかし、ネット上の情報を確認する限り、どうやら現代でも愛好家の手によって年に数頭はアングロアラブ競走馬が生産されているようです。事実、2019年には岩手競馬で「キタミキ」というアラブ馬がデビューを目指して調教をつまれていました(最終的には、競走能力不足によりデビューは叶わなかったようですが)。

レッツゴーカップの出走以降、アングロアラブ競走馬がレースに出たことはありません。しかしながら、キタミキの例にもあるように規定をクリアすれば出場可能なのもまた事実。いつの日か、アングロアラブ競走馬が競馬場に帰ってくる日もあるのかもしれません。

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?