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2019.08.26

実はいい奴だった?ねじ曲げられた武将・石田三成の素顔に迫る

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戦国武将の石田三成(いしだみつなり)といえば、関ヶ原合戦における西軍の中心人物として知られます。それだけに徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍諸将からは目の仇(かたき)にされ、関ヶ原敗北後に捕縛、処刑されました。後世に作られた「佞臣(ねいしん)」のイメージを外した時に、三成のどんな素顔が見えてくるのかを探ります。

石田三成の素顔とは?

まず、皆さんは石田三成(いしだみつなり)という武将にどんなイメージを抱いているでしょうか。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣政権を徳川家康(とくがわいえやす)の野望から守ろうとした「義の人」、大谷吉継(おおたによしつぐ)とのエピソードに見られるように、「友情に篤い人物」。その一方で、官僚としては「切れ者」だが、戦場での「実戦指揮能力は高いといえず」「性格的に横柄(おうへい)」なところがあり、敵を作りやすかった、といったイメージが最近では多いかもしれません。2016年の大河ドラマ「真田丸」で、山本耕史さんが演じた三成も、まさにそんな人物像でした。

また、三成といえば、「三献(さんけん)の茶」のエピソードでも知られます。三成が佐吉(さきち)と称していた幼少の頃、近江(現、滋賀県)の寺で学問を学んでいると、領主の羽柴(はしば)秀吉が休憩に訪れます。接待する三成は、暑さで汗をかいた秀吉を見て、大ぶりの茶碗にぬるめの茶をなみなみと入れて出しました。秀吉がおかわりを所望すると、先ほどよりも少し熱めの茶を茶碗に半分ほど入れて出し、秀吉がさらにもう一杯と所望すると、今度は小さ目の茶碗に熱い茶を入れて出しました。この三成の気配りを秀吉は大いに気に入り、家臣に召し抱えたといいます。

「三献の茶」を表現した像

その後、三成は秀吉の小姓(こしょう)として成長、秀吉の天下統一を合戦の後方支援や町の復興、地方の大名との連絡役などを務めて支え、豊臣政権下では奉行の筆頭的な存在でした。頭の切れるきわめて有能な官僚であり、真っ直ぐな性格で、秀吉から篤く信頼を寄せられていました。一方で歯に衣着せずものを言ってしまうところがあり、人との対立を招くことも少なくなかったようです。

しかし、長所も短所も備えた、ある意味人間臭い三成像が広まったのは、実はごく近年のことです。それまでの三成像は、「秀吉の腰ぎんちゃくで、器の小さい男」「秀吉におもねるために、数々の陰謀の黒幕になった」というもので、ひと言でいえば「佞臣(ねいしん、主君におもねり、心のよこしまな家臣)」そのものでした。

たとえば三成が首謀者となった陰謀として、次の三つの事件があるとされてきました。

「千利休の切腹」「蒲生氏郷の毒殺」「豊臣秀次の切腹」

かつては小説やドラマなどで、これらの事件の背後に三成がいたものとして描かれることも多かったのですが、実際はどうであったのか、簡単に触れておきましょう。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。