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2020.07.23

織田信長から称賛された槍の名手!渡辺勘兵衛は転職4回、計6人の主君に仕えていた!

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「働きに見合った給料が欲しいなあ」等、より良い労働環境を求めて転職するのは今の時代だけではありません。戦国時代にも待遇改善を求め、仕官先を次々と変え、何人もの主君に仕えた武将は多くいました。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、活躍した渡辺勘兵衛もそのひとり。79歳で亡くなるまで彼は4度の転職を経験し、計6人の主君に仕えました。今回は、そんな彼の転職状況を紹介します。※石田家家臣の渡辺勘兵衛とは別人です。

最初の仕官先は阿閉貞征

近江国浅井郡で永禄5(1562)年に生まれた渡辺勘兵衛は、その生涯で4度の転職をしました。転職先はすべて武家から武家へ。職業を変えるというよりも、職場を変える転職です。

初出仕先は、北近江の戦国大名・浅井家重臣の阿閉貞征(あつじ さだゆき)。勘兵衛は貞征の小姓からスタートし、その後、阿閉家の精鋭からなる母衣(ほろ)衆の1人として活躍しました。
母衣衆とは主君の側近くを守る精鋭部隊で、合戦時には本陣から前線への使い番も務めた者たちのことで、これに選ばれるのは、かなり名誉なことです。彼は成長するにつれ槍の遣い手として名を挙げるようになり、「槍の勘兵衛」と称されるようになりました。

吹田城攻めでは一番首を挙げ、織田信長から直接褒められたほど。勘兵衛が仕える阿閉家は姉川の戦い後に織田家の家臣となっていたので、信長から見れば彼は陪臣の1人にすぎませんが、その働きぶりには目を瞠るものがあったのでしょう。
貞征の娘を妻に迎えていることからも、勘兵衛は阿閉家家中において期待の若手だったと思われます。しかし、これによって勘兵衛は自信をつけたのか、阿閉家を離れ次なる主君を探します。

次の主君は羽柴秀吉&秀勝

勘兵衛の2人目の主君は羽柴秀吉です。天正10(1582)年に起きた本能寺の変の頃から、百人扶持の待遇で出仕しました。扶持とは米で支給される給料のこと。1人扶持がおおよそ5俵なので、そこから計算すると百人扶持は5百俵となります。

そしてすぐに2千石の待遇で秀吉の養嗣子・羽柴秀勝付きになりました。秀勝は信長の4男で信長の存命中に秀吉の養嗣子となり、勘兵衛は秀勝の家臣として山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いに参戦。賤ヶ岳の戦いでは武名を挙げましたが、秀勝が18歳の若さで亡くなると、それに伴い羽柴家から去ります。
この時、渡辺勘兵衛は20代半ばで武将として、まだこれから。次の仕官先がどこになるのか楽しみですね。

ところで、2千石って現在の価値でいくらくらいなの?

ここで、石高を現在価値にしたらどれくらいになるのか計算してみましょう。
「石(こく)」とは土地の生産性を表す単位で、1石は大人1人が年間に消費する米の量(140~150kg)です。現在の米は価格幅がありますが、10kg3千円、1石を150kgと仮定すると、1石あたり3千円×15=4万5千円になります。
とすると、秀勝の家臣となった時の勘兵衛の石高は2千石なので、2千石×4万5千円=9千万円。20代半ばで年収9千万円!! 命を懸けているとはいえ、今の時代から考えるとスゴイ金額ですね。

しかし、これがまるっと懐に入るわけではありません。当時の年貢率は石高の40~60%ほどなので、仮に年貢率を50%とすると、勘兵衛に入るのは4千5百万円となり、この中から家臣たちへの給料を払うことになります。
家臣の人数ですが、1万石取りの武将でだいたい200人程度だったので、2千石取りの勘兵衛の場合は40人ほどでしょうか。1人扶持がおおよそ5俵なので、5俵×40人=2百俵。1俵の容積は各地で異なるため、米の価格で表すことができませんが、4千5百万円からこの2百俵分を引いた残りが、彼の手取り年収となります。
家臣たちの中には合戦の時にだけ雇うバイト兵も含まれているので、実際にはもう少し手取りはあったと思われます。
※あくまでも目安です。石高には米以外の作物や魚介類なども含まれています。

4人目の主君は中村一氏

勘兵衛が次に主君としたのは、豊臣秀次の家老・中村一氏(かずうじ)でした。秀次は秀吉の養嗣子で、当時は豊臣家の家督相続人と目されていました。勘兵衛は、そんな秀次の家老に3千石で仕えることになったのです。当時の一氏は、近江国水口の岡山城主で6万石でした。

中村家においての勘兵衛の主な活躍は、天正18(1590)年に起きた秀吉による北条攻めの小田原征伐のとき。小田原城の支城として西からの攻撃に備えた山中城を攻撃する際、中村勢は先鋒を務め、勘兵衛が岱崎出丸(だいさきでまる)へ一番乗りを果たしたのです。これをきっかけに山中城は陥落。秀吉による天下統一が大きく前進しました。

喜んだ秀吉からは「捨てても1万石は取るべきものなり」と称賛されましたが、実際に一氏からの恩賞は3千石が加増されただけ。今までの石高と合わせて倍の6千石になりましたが、秀吉から褒められていたこともあり、この加恩に不服を唱え中村家から去りました。
勘兵衛と秀吉は主従関係を結んでいた時期もありましたが、今の秀吉は天下統一に一番近く、主君(一氏)の主君(秀次)のそのまた主君。そんな秀吉が自分の働きぶりを高く評価してくれたにもかかわらず、主君たる一氏からの評価が低いなんて。しかも一氏は戦後の論功行賞で、近江国水口の岡山6万石から駿河国14万5千石に大幅加増。勘兵衛が不服を唱えても、仕方がないことかもしれませんね。

5人目の主君は増田長盛

「次の主君には、自分の器量をきちんと評価してもらいたい」
そう思っていたであろう彼が次に選んだ仕官先は、豊臣政権下において五奉行のうちの1人である増田長盛(ました ながもり)でした。最初は関ヶ原の戦いに備えた客将待遇でしたが、後に4千石で仕えることに。
4千石だと中村家での加増後の石高よりも少なくなりますが、そこは何か考えるところがあったのでしょう。転職経験のある筆者は、「もしかしたら、牢人生活(無職期間)が長引いて懐具合が寂しくなったのかも……」と下世話なことを思ってしまいました。

さて、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍についた長盛は、大坂城の守備部隊として西の丸に駐屯することに。そこで居城である大和郡山城を勘兵衛に守らせることにしました。
戦いの結果は徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、西軍についた長盛は高野山で出家し所領を没収されてしまいました。当然、城も東軍へ明け渡すことになります。

しかし、頑固者というか忠義者といいましょうか。城の明け渡しを要求する東軍諸将に対し、勘兵衛は「主君の命により城を預かっているので」という理由で明け渡しを拒み続けたのです。結局、高野山にいる長盛に大和郡山城を開城する書状を書かせ、城の明け渡しは無事に完了しました。

ということで、5人目の主君が出家してしまった勘兵衛は、新たな仕官先を探すことに。見事な城代ぶりで勘兵衛の器量や忠義が賞賛されて、家康や堀尾吉晴など多くの大名から招かれました。

6人目の主君は藤堂高虎

信長から直接褒められ、秀吉から称賛され、家康からは家臣への誘いを受けた渡辺勘兵衛が次なる主君に選んだのは同郷出身の藤堂高虎でした。その待遇はなんと破格の2万石!!

仕官先を変える渡奉公人として紆余曲折ありましたが、ここへきてやっと自分の能力を高く評価してくれる人物に出会えたようです。このことを聞いた加藤嘉明(よしあき)は高虎に、「自分なら2万石で勘兵衛を取り立てるよりも、200石取りの武士を100人仕えさせる」と言ったそう。
ところが、その言葉に対し高虎は、「多数の兵士が固めた場所は人々が踏み破るだろうが、『ここは渡辺勘兵衛が固めた』といえば敵の肝を冷やすことが出来る。これが有利になる」と反論。勘兵衛と同じ渡奉公人から立身出世した高虎は、量より質を選んだのです。
渡奉公人とは、自分の器量を頼りに次々と仕官先を渡り歩く奉公人のこと。武士における主君への絶対的な価値観は江戸時代に入ってから作られたもので、当時は主家が栄えるのも滅亡するのも主君の器量次第。時勢を見抜き仕官先を渡り歩くことは珍しいことではありませんでした。

関ヶ原の戦いの後、国内には戦いがない時代が訪れようとしていました。高虎は、家康の命じるままに城造りや補修を行い、勘兵衛は今治城の普請奉行に取り立てられました。彼には槍遣いのほか城造りの才能もあったことにちなみ、今治城にある1番大きな石は勘兵衛石として残されています。

その後、慶長19(1614)年、勘兵衛にとって藤堂家の家臣として初めての戦陣となる大坂冬の陣が勃発します。ここで藤堂陣営において、敵の軍勢をみすみす見逃して通過させるというミスが起こります。この1件をはじめ、翌年夏に起こった大坂夏の陣でも、采配をめぐり高虎と衝突。大坂夏の陣が終わった後の論功行賞も待たずに、勘兵衛は藤堂家を去ります。

7人目の主君は……?

藤堂家の次に彼が仕官した先はどこでしょう。以前誘われた家康? それとも他家? 答えは「どこでもありません」。それは高虎が彼に対して「奉公構え(ほうこうかまえ)」を科してしまったから。

奉公構えが出されると、旧主の許しがない限り他家への仕官が禁止となるため、どこの大名家でも勘兵衛を雇うことができないのです。「槍の勘兵衛」が高虎の元を去るということは、高虎自身に主君としての器量がないことを暗に意味しているようなもの。高虎はそれが我慢できなかったのかもしれません。

勘兵衛は江戸幕府を通してこれを解くように願い出ますが、それは叶いませんでした。ちょうど時代が戦乱の世から天下の平定が完了した元和偃武(げんなえんぶ)に変わった時期でもあり、主君と家臣との主従関係にも変化が迫られるようになったのです。
かつての戦乱の時代には、自分の力量を評価してくれる主君の元へ仕官する渡奉公人の登用もありでした。むしろ「7度仕官先を変えねば武士ではない」とまで言われていたほどです。しかし、泰平の世になり固定的な家臣団の形成が望まれたため、実質的には渡奉公ができなくなったのです。彼の生き方が時代と合わなくなってきたんですね。

この奉公構えは高虎の息子の代になっても受け継がれ、どこにも仕官できなかった勘兵衛は、昵懇の諸大名から捨扶持を受けて暮らし、79歳でその生涯を閉じました。

勘兵衛は自分を正当に評価してくれる主君を求めての転職をしたつもりでしたが、最終的にはこのようなことになってしまいました。その反面、高虎のように渡奉公人から大名にまでなった人物もいます。腕と才覚と運で大出世が可能だった戦国時代と、今の時世はどことなく似ているように思いませんか?

トップ画像:Wikimedia Commons